山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

六地蔵の嘆き

2011-02-18 05:17:16 | ホト発句

         

          

      

              喜捨の籠無用にされよと六地蔵 

 

神仏に喜捨はいつもの世の習い 

 

衆生どの笊を吊るすはやめなはれ 

 

地蔵さんに年金出れば笊不要 

 

悟りには遠い衆生のお布施かな 

 

コメント:

 

榎の大木の根元に石で刻まれた六地蔵さまが置かれていた。その前には、誰が作ったのか、横渡しの棒があり、そこには大きな笊が幾つもぶら下がっていた。この辺りにはお地蔵さま思いなのか、それとも自分のためなのか、奇特な人がお住まいのようである。お地蔵さまたちのお気持ちと我ら衆生との気持ちを少しばかり勘ぐって、そのやり取りを句にしてみた。

 

 

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大国の信義に思う

2011-02-17 00:27:21 | 宵宵妄話

  今の世の中で起こっていることの真偽を見分けるのは困難なことが多いように思うのですが、外交という観点からみると、一つだけはっきりしていることがあります。それはどの国との関係においても国際間の信義などというものは真に軽いという真実です。とくに大国の場合はその軽さが明々白々のような気がします。

日本が大国であると信じ込んでいる日本人がどれほどいるかわかりませんが、昭和の初めころならまだしも、今の世においては、経済面においてさえも大国などと本気に思っている人は少ないのではないかと思います。勿論私自身も残念ながらこの国を大国と思うことはできません。

国の大きさというのは、結局のところそこに住む人間の数の多さと面積の広さであり、加えて活用できる資源の豊かさということになるように思います。(文明とか、識字率とか、経済力などというのは限られた条件の一つに過ぎません)これらを総合してその国の活力の大きさが計られるのだと思いますが、日本という国は人口では引けを取らないにしても、その他の面では自力で賄う力を持ち得ず、他国に依存しなければ成り立ってゆかないというのが実態です。

日本の外交のあり様を見ていると、戦後一貫してどの国に対してもおとなしく波風の立たないスタンスを取り続けたのは、無謀な戦争で世界を騒がせたことに対するお詫びの印であったのか、それとも敗戦で大和魂なるものを去勢されてしまって、当面の出来事を適当に凌げばその後のことは平和憲法が守ってくれると信じ込んでしまったのか、なんともはや国際的には、骨のない扱いやすい存在となり下がってしまった感じを拭いきれません。日本国のような規模で、八方美人の国というのは、今の世界を見渡してもその数は極めて少ないように思います。

自国の持っている力を巧みに使い分けて、何事も自国に有利なように導いてゆくのが外交というものの基本なのでしょうが、現在の日本には、自国の切り札が何なのかが良く見えないまま、いわゆる誠実風な(?)外交を心がけている感じがします。世情善人の常識としては、それが悪いなどとはとても言えない話ですが、いろいろな面でこの国が先細りになるのではないかという出来事を見せられ続けていると、何だか日本人としてのプライドが消滅してしまう気がして、心安らかではありません。

大国といえば、まずはアメリカ。そして中国やロシア。EUももちろんですが、これからはインドやブラジルなどが世界の舞台に躍り出てくることでしょう。これらの国々との関係の基本は、すべてその国々にとっての利害得失の如何にあると言えましょう。もし日本国が国際関係は利得ではなく信義に基づくなどと考えていたら(よもや真面目にそんなことを考えているとは思いませんが)これからのこの国の没落は火を見るよりも明らかです。信義などというものが如何に無力であるかということは、先日のアメリカにおけるトヨタのハイブリッド車事件で疑いもなく証明されています。

戦後日本国はアメリカの傘のもとにひたすら経済立国を目指し、半世紀足らずで驚異の発展を成し遂げたことは周知のことです。この発展の源泉は、日本人が民族として古来より培ってきた勤勉とたゆまざる工夫心のもたらした成果であることは疑いのない事実だと思いますが、国際的にみればアメリカの傘のおかげだったということも又明白なことです。ですからアメリカは日本にとって最高・最大の友好国であり、その信義度も高いものであると考えるのが当然だと思うのです。しかし、その現実は本物なのでしょうか。その答えはノーです。

昨年トヨタは世界中からいじめに遭いました。それは世界最大の自動車メーカーに成り上がった時から運命づけられ、標的が定められたのだと思いますが、一歩先を行く実力でトヨタのハイブリッド車が市場をリードし始めた時、そのライバルたちは相当の危機感を感じたに違いありません。競争に勝つためには二つの取り組み視点がありますが、その一つは相手よりも一段上のレベルの商品をつくり出すこと、そしてもう一つは相手の弱点・欠点を徹底的に責めることです。自動車産業の中でアメリカが選んだのは、相手の弱点を責めるというやり方でした。すなわち、トヨタ製ハイブリッド車には運転機能上の欠陥があり、事故に直結する事態を招来しているという世論の沸騰作戦でした。この問題に対しては、業界を飛び越えて国を挙げての誹謗の旗がたなびいたのは、記憶に新しいことです。そして、トヨタのトップが涙を流しながら、アメリカ議会で状況の説明に立ったのも忘れることができません。

そのようなアメリカの国を挙げての一大騒動事件が、先日ほんのわずかな説明だけで終了しました。すなわち、トヨタ製ハイブリッド車に対する詳細な調査の結果として、そのような欠陥は見当たらなかった、と。ただそれだけの報告なのです。真に簡潔極まりない一言でした。謝罪の言葉など入る余地もなく、ごめんなさいの代わりに付加されたのは、長官さんご一家の娘さんもトヨタのハイブリッド車を選んで購入して乗っているという話。なんじゃろかこれは!?と思うのは、私一人だけなのでしょうか?

この事件のいきさつや成り行きに関しては、日本国政府は殆どノーコメントで過ごし、マスコミも不具合問題の発生時点では大騒ぎしましたが、終息のあり様に関しては殆ど何も取り上げていません。何だかアメリカの言いなりになっている感じがします。これじゃあ、日本企業は国際競争には皆単独突入の覚悟でやるしかないことになってしまいます。民主党政権は今頃になって法人税率を下げるなどと言って、又大きな反発を食らっていますが、真に節操のない政治の世界です。国際信義など云々する以前に、政治やマスコミの国民に対する信義の方がもっと問題があるのかもしれません。ハイブリッド車の欠陥問題で、一人泣きをみて、然る後に安堵し、胸の内にじわじわと怒りの炎をあげているのは、民間のトヨタ関係者だけだったような気がします。

大国の信義などというものは、所詮このようなレベルに過ぎないようです。ロシアも中国も自国の利害得失にこだわるのは、アメリカ以上であり、それらに対してほんの少し小声で文句を呟きながらオロオロしているのが日本国の為政当事者なのでありましょう。直接係わっているはずの外交官といわれる人たちの動きも声も全く判らず、一体この連中は何をしているのか不明です。各国に在って、政府をリードできるほどの仕事をしているのか疑問です。その国を訪ねる日本人の観光案内程度のことしかやっていないのなら、そのような役所はまさに仕分けの俎板に載せるべきでしょう。外交面において、日本の政治が骨なしになっているのは、この連中の怠慢の影響の及ぶところ大なのではないかと思うほどです。

私一人が如何に勇んでみたところで、これらの現実はどうしようもありませんが、平成開国などと愚にもつかないたわごとを掲げたりしているこの国のリーダーには、なんともはや危なっかしくて、心配の海が溢れそうです。TPPに調印などしたら、北海道は荒野になってしまうに違いありません。冗談にしてはひどすぎるし、本気なら狂気に近い感じがします。数字だけで利得のみを判断し、国際社会でエエ格好できると考えるのは、最も危険な決断のように思います。平和ボケしている日本人の感覚で国家間の信義を文字通り受け止めるのは大概にして貰いたいと思います。平和も博愛も平等もその根底に信義があってこそ成り立つものであり、今の世にそれがないのなら、結局平和も博愛も平等も無いと考えるのが至当のような気がしています。

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笑う白菜たち

2011-02-16 00:58:33 | ホト発句

 

    

 

              

       

           固まらぬ身なら皆で笑っちゃおう

    

           笑うのは身体に良いぞ下品でも

 

コメント:

 

郊外を歩いていると、冬の日差しを浴びた畑の中に妙に元気な野菜があった。見れば白菜なのだが、どれも結球していない。商品にはならず、出荷できないのだ。しかし、彼らはそのことをむしろ楽しんで笑っているように見えた。このような野菜は健康野菜に違いない。たとえ品質査定は程度が低く(下品?)でも。今の世にどこか似ているのかな?と思った。

 

 

 

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久しぶりの本物ボクサーの登場

2011-02-15 00:17:47 | 宵宵妄話

 

どういうわけか昔からボクシングというのが好きで、相当熱心にTVなどを見ていました。実際の試合見物にはなかなか行くことができず、その実戦の迫力は想像するだけでした。大相撲の八百長が問題化して騒いでいますが、基本的にボクシングというのも八百長の可能性があるものかと思われます。しかし、世界タイトル級の試合では、まさかそれはないでしょう。八百長で世界チャンピオンが決まるなんて想像もできず、ボクシングの場合は、大相撲以上の真剣勝負に違いないと思っています。

さて、そのボクシングですが、気がつけば現在の日本人世界チャンピオンは、過去最高人数だそうで、真にご同慶の至りです。しかし、私的には最近は殆どボクシングを見なくなっていました。何年か前、世間が大騒ぎするので、亀田三兄弟の試合を見ましたが、内藤君との一戦は茶番の感じがしたし、この兄弟の世間を嘗めきった言動・態度には呆れかえるばかりで、ボクシングというものに幻滅の思いを強くしたのでした。ま、この兄弟はその後少しまともになって、勝負の方だけではそれなりの実績を残しているので、とやかく言うほどのことはないとは思っています。

ボクシングがまだ鮮度を保っていた時代の試合というものは、観戦者を闘っている本人よりも奮い立たせ、元気をもらったものでした。ボクシングの最初は白井義男氏だったと思いますが、その後はファイティング原田とか海老原博幸などという人が、それぞれ味のある戦いぶりを示し、多くのファンを唸らせ、魅了したものでした。原田の凄まじいラッシュや、研ぎ澄ました海老原のパンチの切れ味などは、今でも強く目の裏に焼き付いています。日本国がまだ経済的にもそれほど豊かにはなっていない時代でした。

その後も名勝負に名を残す選手が何人か現れて、ボクシング熱はしばらく続いたのですが、そのうちに気がつけばチャンピオンベルトから次第に遠のき、その数も限りなく減ってきて、まさに燃え盛っていた火が消えかかるような時代が、かなり長く続いたような気がします。何だかんだ言いながらも世の中の暮らしが次第に豊かになるにつれ、ハングリー精神というか闘争心というのか、そのような激しい気持ちが中和され、世の中ら少しずつ抜け去っていったのかも知れません。

高度成長時代が終わるころからは、ボクシングの世界市場がおかしくなって来たようで、興行を仕切る人たちの団体の間で、分裂なのか、発展なのかはたまた単なる仲間別れなのか、チャンピオンの認定機関が複雑化したり、あるいはファイティングの階級分けが細分化したりして、もはや一昔前とは比べられないようなややこしい闘いの世界となってしまったようです。素人から見ると、本当の世界チャンピオンというのは一体誰なのかが分からないような時代となってしまった感じがします。この頃から、ボクシングを見ていても、どうもスカッとした気分がしなくなり、TVも新聞も進んで見ようとはしなくなってしまったのです。

私自身が歳をとって老いぼれてしまったので、もはや闘争心などいうものとは無縁になってしまったのかもしれませんが、それでも時々は己自身に「喝!」を入れたくなる気持ちはまだどこかに残ってはいるのです。それで思い出したように時々TVを見たりするのですが、最近では長谷川穂積という人の戦いぶりに久しぶりにボクシングの妙味というか、醍醐味を感じていました。その彼がどういうわけかその後負けてしまい、クラスを一つ飛んで上げ、もう一度挑戦して見事にチャンピオンの座に就いたのは何よりのことでした。この人は輝かしい戦歴を持った方のようでしたが、私が試合を見たのは、バンタム級での10度目の防衛戦だけで、それ以外は見ていないのですが、この人のボクシングには本物を感じたのでした。

その長谷川穂積も年齢的には次第に体力等のハンディがきつくなってくる時期だと思いますが、このあとを引き継ぐ若者はいないのかとひそかに期待していたところ、ようやく新星が現れてくれ、真にこれからが楽しみです。その名は井岡一翔。いやあ、実に見事なプロ7戦目にしてのタイトル挑戦の試合でした。誰も文句のつけようのない鮮やかな勝利でした。見ていて安心感がありました。チャンピオンは無敗を誇る強者だったわけですが、挑戦者の井岡君は技術面においてもファイティングスピリットの面においても、チャンピオンを凌ぐものがあったと思います。理にかなった、それでいて冒険を避けない、いかにもボクシングらしい戦いぶりでした。素人目にもプロの目にも実に魅力的なボクシングを展開していたと思います。

試合はボディブローが効き出したころに、強烈な一発が見事に決まってTKOとなったのですが、勝った後の言動も少しも驕ることなく爽やかなものでした。この頃は試合の前後で、自分を目立たせようとやたらに不要な騒ぎをしかける若者が多い中で、彼の挙措には安心して見ていられる雰囲気があって、真に好感度大でした。4階級制覇が目的だとのことですが、一歩ずつ確実に前進していって欲しいと思います。

聞けばおじさんがストロー級元世界チャンピオンの井岡弘樹氏だとか。又父御も元プロボクサーということですから、ボクシングに励む環境には大変に恵まれているということです。しかし環境に恵まれているのと、それを力にして本物になれるというのとは別の話であり、特にボクシングのようなハードで厳しい試練が求められる競技では、それに耐えて乗り越える逞しさを自ら作り上げるパワーが必要です。井岡一翔選手は見事その試練のハードルの一つをクリアーしたということなのだと思います。

彼にはこれからも幾多の越えなければならないハードルが待ち受けているのだと思いますが、この鮮やかなチャンピオンへのデビューをより一層輝かしいものとするために、何よりも期待したいのは、「思い上がらない」ということです。思い上がることは簡単です。一つの結果から自分の力を過信することを思い上がるというのだと思います。人生上手くいっている間は、様々の誘惑が押し寄せてきて、随所に思い上がりのきっかけを振り撒こうとします。恐らくそれはボクシングの勝負よりも怖い結果を招来するように思えます。あまりにも早すぎる心配かもしれませんが、この前途有為の若者には、歴史に残るボクサーとなって頂くためにも、是非このような老人の心配を無とするように、周辺の人たちは適切なアドバイスをして欲しいと願っています。

いやあ、これからが楽しみです。あの世に行くまでの間、ずっと楽しみさせ続けてくれることを願っています。

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汚染果てしなし

2011-02-14 04:14:32 | ホト発句

       

      

 

                雪溶けて地球の嘆きまた一つ

 

 

コメント:

 

珍しく関東平野にも雪が降った。2~3センチほどの雪は、少しの間消えないで残っていたけど、やがて消え果てた。ふと見ると吹きだまりにほんの少し残った雪の中に、しっかりと煙草の吸殻が刺さっていた。汚染行動はたゆまず続けられている。

 

 

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枯れススキ物語

2011-02-13 00:26:34 | ホト発句

 

 

       

 

                火の玉も枯れてススキとなりにけり

 

 

コメント:

 

散歩の途中に枯れススキの小さな藪を見つけた。ススキというのは皆穂を出しつくしてから枯れるのかと思ったら、中にはこのように穂が出る途中で枯れてしまったのがあった。それはあたかも火の玉が枯れたような姿に見えた。誰でも一度くらいは火の玉になったことがあるのではないか。しかし今は、‥‥‥。

 

 

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老計未だ立たず (ぶらぶら袋の話)

2011-02-12 06:31:07 | 宵宵妄話

  人生五計ありと言います。これは中国宋時代の思想家朱新仲という方の考え方だそうで、五計とは、生計・身計・家計・老計・死計を言うとのことです。この話は尊敬する安岡正篤先生の講演テープを聴いて学んだことで、もう40年も前の昔のことでしょうか。当時は私なりに人生のあれこれに思いをめぐらしていたときであり(それは今でも変わりませんが)、 安岡先生から学んだことはいろいろな意味で大きな力となりました。

五計とは人が生まれて物心ついてから死ぬまでの間には、誰もが為さねばならない五つの慮(おもんばか)りがあるということです。生計というのは命をつなぐために必要なものをどう確保するかということであり、生活を維持するための糧とか、その前提条件となる身の安全や健康を如何にして確保するかということです。身計というのは、文字通り身を立てるという意味であり、世に出て己の存在を如何に示すかということです。今の世でもそれは立身出世ということになるはずです。家計とは血縁社会の最小集団である家庭をどのようにつくり上げ、維持するかという考えと行動であることを意味します。この3つは、今の世でも良く使われている言葉ですから、特に目新しさはありません。残りの老計と死計ですが、これは文字通りいかに老いるか、いかに死するかということで、人生の最後のプロセスをどう過ごし、最後の着地をどう決めるかということでありましょう。

これら五つの計りごとは、可能な限りどれも充実していることが理想ですが、現実にはなかなか思い通りにはゆかず、バランスのとりにくいもののようです。出世はしても家庭内はバラバラだとか、家族関係は円満なのに突然恐ろしい病魔や事故に襲われるとか、人生には予期せぬ出来事も多くあって、バランスの取れた一生を送るというのは難しいことのようです。

さて、これらの五つの計りごとについて我が身を振り返り、これからのことを考えてみると、まあ、実にお粗末なもので、二度と戻れない人生なのに、残るのは悔いばかりというのが実感です。しかしよく考えると、そいつはちょっとばかり己を買いかぶり過ぎているような気もして、仮に人生が元に戻れたとしても、所詮は似たり寄ったりの結果となるのではないかとも思えるのです。

前段の三つの計の内、身計についてだけはもう終わったと言っていいような気がします。家計については、その80%くらいはもうなすべきことはないような気がしますし、生計については暮らしの原資となる年金に関して、国の年金政策が大幅に変更にならなければ、まあまあ食べてゆけるだけの暮らしはできるでしょう。しかし健康や安全については、なお一層心がけと実践が求められてゆくことでしょう。生計だけは、人生が終わるまでしつこくくっついてくるもののようです。

これから先は残りの二つの計りごとが問題の核となります。正直のところこの二つの計りごとについては、今まであまり真面目に考えたことはありませんでした。そろそろ考えなければいけないなとは思っても、まだ早いんじゃないかという抵抗感がどこかにあり、なかなか足を踏み入れないままに今日まで来てしまっているという状況です。しかし、古希を過ぎ寒い冬を迎えて我が身の動きもなかなかままならぬことを実感する度に、こりゃあもう、確実に考えなければならん時期が来ているんだなと自覚するようになりました。

今考えているのは、老計と死計とはどうやら別々のものではなく、一体のものとして考える必要があるということです。老というのは必然的に死に近づくことであり、どうもがいてもその先にあるのは、厳然たる死という命の終焉です。老計とはすなわち死計であると言っても良いのかも知れません。いかに納得のゆく老を運ぶかということが死計を決める鍵となると考えます。

死計があるというのは理屈の世界の発想に過ぎず、実際には死計など存在しないと私は考えます。計(=はかりごと)などというものは、生きている間の恵みであって、死んでしまえばもうそれでお終いなのですから、計として意味を持つのは生きている間ということになり、そのすべては老計にかかっているように思うのです。老計の終わりが死であり、それは計の及ぶところではないというのが私の考えです。老計と死計が一体のものであるというのは、このような意味なのです。

それからもう一つ、老計の中にはどうしても生計が絡んできます。特に生き物としては、生命と直結している健康の問題があります。何をどう食べ、どのように身体を動かし、どう眠るかという当たり前の日常行動は、加齢を重ねると共に変化し、維持に難しさが加わるようです。このことも老計と合わせて忘れることはできません。

さて、その老計なのですが、今、漠然と考えているのは、とにかく毎日を生き生きと生きることを心がけるということです。心に生きがいというか、張り合いを持って毎日を過ごすということです。その手段の一つとしてくるま旅くらしがあるのですが、これはあくまでも手段であって、生きがいのすべてではありません。生き生きと生きるためには、自分を夢中にさせる何かが必要です。もちろんそれは自分自身が創造(=クリエイト)するもの、つくり出すものでなければなりません。つまり夢中になった結果として何かが残るものでなければなりません。ゲームやパチンコなどに夢中になることではないのです。誰に相手にされなくてもいい、形振り構わず死ぬまで熱中できるもの、その結果何かが残るもの、残せるものが欲しいと思っています。残ったものというのは、それが何であれ、その人が生きていた証明となると思うからです。

これがなかなか見つかりません。私はモノづくりに関心がないわけではないのですが、苦手意識が強く、道具を使って何かを作るという領域は、自分には向いていないと決めてしまっています。絵を描くのも才能があるとは思えず、音楽も聴くだけの世界のようです。結局残っているのは、モノを書くだけのような気がして、今までもそのことを心がけて来たのですが、さてさて、このようなブログ記事の如きものだけで良いものやら。どうも自信がありません。書くというのは、身体的な老化が激しくなっても、ぎりぎりまでは何とかなる作業ですが、一番必要なのは、何としても書く!という気持ちを奮い立たせてくれる何かなのです。今のところそれが見出せません。

今、一つ考えているのに、「ぶらぶら袋」という魔法の入れ物を四六時中持ち歩いて、その中に物書きの材料を貯め込もうという目論見です。書くためには何か材料が必要で、それは単なる動機だけではなく、それに付随したさまざまな出来事などを貯め込む必要があるのです。このようなぶらぶら袋なるものを持ち歩くというのが、老計の一つとして思いついたという程度ですから、何ともはやノーテンな話です。でも時々そのぶらぶら袋の中を覗き込み、大したものも入っていないのに、さて、こいつをどう料理するかなどと考えてあれこれ思いを巡らしていると、多少元気は湧いてきていますから、今のところはこの線を捨てるわけにはゆかないなと思っています。

それにしても、今は若い頃には想像もしていなかった超便利というか、恐ろしいほどのコミュニケーションツール変革の時代となりました。物書きの世界では、その昔は書いても発表する機会や場がなかなか無かったのに、今ではパソコンやネットを用いることにより、自在に自分の作品や主張などを不特定多数の人にアピールするのが可能なのです。いわゆるIT革命の進展は、物書きにとっては、真にありがたい環境となったと思います。おそらくこれは自分が老計を確立させ、進めてゆく上において無くてはならない力となるに違いありません。このITの力を活用しながら、当面はくるま旅くらしという手段をうまく使って、その中から夢中になれるテーマを見つけ出してゆきたいと考えています。

老計は未だ定まらずの状況ですが、残された時間(それがどれほどなのか知るすべもありませんが)を思うと、まずはぶらぶら袋を膨らますことと、そこに詰め込んだ材料を活用して、物書きとしての思いを、同世代を中心に伝えることに力を入れてゆこうと考えています。そして忘れてならないのは加齢に適う快食・快眠・快便とそれをもたらしてくれる運動(歩きが第一)の実践ということだと思っています。

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冬のタンポポ

2011-02-11 02:34:33 | ホト発句

      

       

    

 

              虫付かぬ花も良く見りゃ超美人 

 

 

コメント:

 

小貝川堤防に見つけた厳冬期に咲くタンポポの花。もちろん虫一匹近寄ってこない。タンポポなんて、暖かい季節じゃ振り向きもされない花だけど、今、近寄って見るとハッと息をのむ美しさがある。似たようなことは人間社会でも?男女間でも?

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ホト発句を追加します

2011-02-11 02:30:15 | ホト発句

    ブログの開設5年目に入っています。この間ただひたすらに駄文を書きなぐっていますが、これはもはや止めようもありませんので、そのまま続けてゆく所存ですが、毎回宵宵妄話ばかりでは、読まれる方も書く側も疲れが貯まることになります。そこで一計を案じ、写真付きの駄句を息抜きに付加することにしました。

 NHKのBS放送の番組の中に、「フォト五七五」というのがあって、時々見ているのですが、これがなかなか面白い。何気なく撮った写真を見ながら、思いついた一句を披歴するのですが、同じ写真でも様々なとらえ方、感じ方があって、人間の暮しという奴は面白いなあと感心させられます。

 それで、そのまねごとをしてみようと、ブログのカテゴリーに新しく「ホト発句」というのを付加することにしました。ホトというのは、もちろんフォト(=photograph 写真)のことですが、ホトホト困ったとか、ホトホト嫌になったとかいうように、万策尽きてもはや処置なしといった心模様を表すときのホトもかなり含まれています。発句というのは連歌の初句のことを言いますが、これは五七五のトーンで、俳句はこれの進化したものとして知られています。ホト発句の場合は、俳句でも川柳でもなく只の五七五のトーンをお借りするだけのものです。

しばらくは、長文の後の息抜きに、休みの代わりの埋め草として掲載させて頂こうと考えています。早速今日から開始します。(別項)

 

 

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大相撲という国技の終焉

2011-02-10 01:45:59 | 宵宵妄話

 

相撲が大変なことになっています。以前にも朝青龍のことや野球賭博などに触れたことがありますが、今回の問題はそれらを上まわる決定的な問題のように思われます。現役の関取連中の何人かが、八百長の勝負をして星のやり取りを銭金で精算していたというのですから、これはもう勝負などというものではなく、勝負に似た座興のようなものと言えます。役者が舞台で筋書きに沿った演技を披露するのと同じように、相撲取りが土俵の上ですでに決めてある勝負への筋書きを演じるということであり、それは国技などと言われている相撲ではなく、下手な芝居のようなものでありましょう。それが嘘であっても、バレなければもっともらしく振舞って、とにかく相撲らしく映ればいいという考え方が、関取といわれる高給取りの間にも蔓延しだしていたということのようです。

この失態は一部の不心得者のしでかしたことであって、大相撲全体としては皆真面目に懸命に相撲に取り組んでいるということはよくわかるのですが、ここ数年の大相撲興行界全体の動向をみていると、もはや国技などという扱いでの運営は限界に来ているのではないかと思わざるをえません。あまりにも程度の低い不祥事が多発し過ぎている感じがするのです。

私が言いたいのは、大相撲はもはや国技を称すべきではなく、その実態も国技ではではないということです。

考えてみれば、大相撲興行の歴史は江戸時代あたりに始まったのだと思いますが、明治・大正・昭和の100年余の変遷の中で、その運営の仕組みの基盤となっているものはあまり変わっていないようです。親方という部屋経営者のもとに徒弟制度のような仕組みの中で弟子の育成が行われ、その成果は番付といわれる力士業界全員の成績結果に一覧され、それに基づいていわば成果配分ともいえる処遇が決まるわけですが、これらの制度の運用も、現代社会の様々な処遇の仕組みからは大きくズレたままであり、相撲でまともに生計を立てうる人がどれほどいるのかもよく判らない状況です。関取とそれ以下とでは処遇の上で天と地ほどの差があるとよく言われますが、それが相撲に取り組む力士たちの本当の励みの源泉となっているのか、今の時代ではなかなか難しい問題です。いろいろな意味で相撲協会の運営の基盤となっている発想が、時代の流れについてゆけない事態を招来しているような気がします。協会は協会なりに努力をされて来ているのだと思いますが、国技を前提とする相撲についての今の世に適った環境整備が出来上がっておらず、時代に振り回されてぐらつき続けているのではないでしょうか。

大相撲のこれからの改革については、現在さまざまな方々が鋭意検討中ですからそちらにお任せして、私が言いたいのは、国技としての相撲は終わったということです。国技とは何かということについては、特段の定義もなくごく自然と大相撲がそのような扱いとなり、国に住む誰もが大した疑問もなくそれを認めるようになったというのが真実のようです。そしていつの間にか国技としての扱いが固まってゆき、公益法人として国も関与するような形となったというわけです。これに伴っていつの間にか品位とか品格とかいうようなことが問題にされるようになり、なんだか他のスポーツとは別格の扱いをされるようになったのでしょう。国技ですから、その国の誇りや美点を滲ませて大事に扱うということは当然のこととは思います。完璧に正々堂々の勝負でなければならず、且つその挙措についても品格が求められるのは当然でありましょう。

しかし、これが相撲にかかわる協会のメンバー全員に求められたとしても、パーフェクトは不可能なことでありましょう。力士や親方の全てが国技の求める理想(=実のところこれも漠然としたイメージの世界なのだと思いますが)を厳守して、現実の世界を生きてゆくなどということは不可能に決まっています。それを認めず、一つ不祥事が表面化する度に大騒ぎするのは如何なものかとも思うのです。大相撲から国技を外せばいいだけの話のような気がするのです。いや、外さなければこれからの大相撲は成り立たないように思えるのです。

そもそも日本という国そのものがいい加減になっているのです。政治も産業もアイデンテティを失い、何かに依存しなければやってゆけないような、実に頼りない現状にあります。そのような国をつくっている人たちが、寄って集(たか)って国技としての大相撲の八百長を攻め立てるなんて、よく考えれば滑稽な話ではないでしょうか。国技を外せば八百長は業界(=協会)の個別の問題で片がつくはずです。大相撲を国技扱いとする公益法人などと考えるから、話がややこしくなるわけで、端(はな)からそのような頸木を外しておけば済む話です。

八百長を認めても良いという話ではありません。相撲を楽しみにしているファンにとっては八百長など言語道断の話です。厳罰に処すべきです。しかしそれは国を挙げて騒ぐようなことではなく、興行責任者がそのルールと信念に基づいて処断すればいいだけの話です。八百長なんて、どこの世界でもありふれ、溢れている話なのですから。時に八百長が人助けになるケースだってあるわけであり、今回のメールのやり取りの一部にも、人助けの臭い(銭が絡んでいるのでこれは悪臭です)が漂っている感じがします。

これから先どのような結論と対策がなされるのか判りませんが、今の世から大相撲興行をなくすということはできないでしょう。国技などと勿体ぶらなくても、時々起るであろう不祥事態に対しては、ファンの気持ちを汲んで適確に対処してゆけば、興行は十分成り立つはずです。それだけこの国には相撲を楽しみにしている人が多いのです。国技などと言わなければ、外人力士が関取の全部を占めたとしても、何の違和感もない話となりましょう。しかし、国技などといったなら、なぜ自国の関取がいないのだという疑念が膨らみ、大相撲への関心が下落・衰退するという大問題が持ち上がるに違いないのですから。

国技としての相撲は、形式として祭祀の中に取り入れて残すだけでいいと諦めるのが肝心のような気がします。所詮現代の大相撲はショウスポーツの一つに過ぎないのですから。深刻に考えるのは如何なものかと思うのです。ま、あまりすっきりしない気分ですが。

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