山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

老計未だ立たず (ぶらぶら袋の話)

2011-02-12 06:31:07 | 宵宵妄話

  人生五計ありと言います。これは中国宋時代の思想家朱新仲という方の考え方だそうで、五計とは、生計・身計・家計・老計・死計を言うとのことです。この話は尊敬する安岡正篤先生の講演テープを聴いて学んだことで、もう40年も前の昔のことでしょうか。当時は私なりに人生のあれこれに思いをめぐらしていたときであり(それは今でも変わりませんが)、 安岡先生から学んだことはいろいろな意味で大きな力となりました。

五計とは人が生まれて物心ついてから死ぬまでの間には、誰もが為さねばならない五つの慮(おもんばか)りがあるということです。生計というのは命をつなぐために必要なものをどう確保するかということであり、生活を維持するための糧とか、その前提条件となる身の安全や健康を如何にして確保するかということです。身計というのは、文字通り身を立てるという意味であり、世に出て己の存在を如何に示すかということです。今の世でもそれは立身出世ということになるはずです。家計とは血縁社会の最小集団である家庭をどのようにつくり上げ、維持するかという考えと行動であることを意味します。この3つは、今の世でも良く使われている言葉ですから、特に目新しさはありません。残りの老計と死計ですが、これは文字通りいかに老いるか、いかに死するかということで、人生の最後のプロセスをどう過ごし、最後の着地をどう決めるかということでありましょう。

これら五つの計りごとは、可能な限りどれも充実していることが理想ですが、現実にはなかなか思い通りにはゆかず、バランスのとりにくいもののようです。出世はしても家庭内はバラバラだとか、家族関係は円満なのに突然恐ろしい病魔や事故に襲われるとか、人生には予期せぬ出来事も多くあって、バランスの取れた一生を送るというのは難しいことのようです。

さて、これらの五つの計りごとについて我が身を振り返り、これからのことを考えてみると、まあ、実にお粗末なもので、二度と戻れない人生なのに、残るのは悔いばかりというのが実感です。しかしよく考えると、そいつはちょっとばかり己を買いかぶり過ぎているような気もして、仮に人生が元に戻れたとしても、所詮は似たり寄ったりの結果となるのではないかとも思えるのです。

前段の三つの計の内、身計についてだけはもう終わったと言っていいような気がします。家計については、その80%くらいはもうなすべきことはないような気がしますし、生計については暮らしの原資となる年金に関して、国の年金政策が大幅に変更にならなければ、まあまあ食べてゆけるだけの暮らしはできるでしょう。しかし健康や安全については、なお一層心がけと実践が求められてゆくことでしょう。生計だけは、人生が終わるまでしつこくくっついてくるもののようです。

これから先は残りの二つの計りごとが問題の核となります。正直のところこの二つの計りごとについては、今まであまり真面目に考えたことはありませんでした。そろそろ考えなければいけないなとは思っても、まだ早いんじゃないかという抵抗感がどこかにあり、なかなか足を踏み入れないままに今日まで来てしまっているという状況です。しかし、古希を過ぎ寒い冬を迎えて我が身の動きもなかなかままならぬことを実感する度に、こりゃあもう、確実に考えなければならん時期が来ているんだなと自覚するようになりました。

今考えているのは、老計と死計とはどうやら別々のものではなく、一体のものとして考える必要があるということです。老というのは必然的に死に近づくことであり、どうもがいてもその先にあるのは、厳然たる死という命の終焉です。老計とはすなわち死計であると言っても良いのかも知れません。いかに納得のゆく老を運ぶかということが死計を決める鍵となると考えます。

死計があるというのは理屈の世界の発想に過ぎず、実際には死計など存在しないと私は考えます。計(=はかりごと)などというものは、生きている間の恵みであって、死んでしまえばもうそれでお終いなのですから、計として意味を持つのは生きている間ということになり、そのすべては老計にかかっているように思うのです。老計の終わりが死であり、それは計の及ぶところではないというのが私の考えです。老計と死計が一体のものであるというのは、このような意味なのです。

それからもう一つ、老計の中にはどうしても生計が絡んできます。特に生き物としては、生命と直結している健康の問題があります。何をどう食べ、どのように身体を動かし、どう眠るかという当たり前の日常行動は、加齢を重ねると共に変化し、維持に難しさが加わるようです。このことも老計と合わせて忘れることはできません。

さて、その老計なのですが、今、漠然と考えているのは、とにかく毎日を生き生きと生きることを心がけるということです。心に生きがいというか、張り合いを持って毎日を過ごすということです。その手段の一つとしてくるま旅くらしがあるのですが、これはあくまでも手段であって、生きがいのすべてではありません。生き生きと生きるためには、自分を夢中にさせる何かが必要です。もちろんそれは自分自身が創造(=クリエイト)するもの、つくり出すものでなければなりません。つまり夢中になった結果として何かが残るものでなければなりません。ゲームやパチンコなどに夢中になることではないのです。誰に相手にされなくてもいい、形振り構わず死ぬまで熱中できるもの、その結果何かが残るもの、残せるものが欲しいと思っています。残ったものというのは、それが何であれ、その人が生きていた証明となると思うからです。

これがなかなか見つかりません。私はモノづくりに関心がないわけではないのですが、苦手意識が強く、道具を使って何かを作るという領域は、自分には向いていないと決めてしまっています。絵を描くのも才能があるとは思えず、音楽も聴くだけの世界のようです。結局残っているのは、モノを書くだけのような気がして、今までもそのことを心がけて来たのですが、さてさて、このようなブログ記事の如きものだけで良いものやら。どうも自信がありません。書くというのは、身体的な老化が激しくなっても、ぎりぎりまでは何とかなる作業ですが、一番必要なのは、何としても書く!という気持ちを奮い立たせてくれる何かなのです。今のところそれが見出せません。

今、一つ考えているのに、「ぶらぶら袋」という魔法の入れ物を四六時中持ち歩いて、その中に物書きの材料を貯め込もうという目論見です。書くためには何か材料が必要で、それは単なる動機だけではなく、それに付随したさまざまな出来事などを貯め込む必要があるのです。このようなぶらぶら袋なるものを持ち歩くというのが、老計の一つとして思いついたという程度ですから、何ともはやノーテンな話です。でも時々そのぶらぶら袋の中を覗き込み、大したものも入っていないのに、さて、こいつをどう料理するかなどと考えてあれこれ思いを巡らしていると、多少元気は湧いてきていますから、今のところはこの線を捨てるわけにはゆかないなと思っています。

それにしても、今は若い頃には想像もしていなかった超便利というか、恐ろしいほどのコミュニケーションツール変革の時代となりました。物書きの世界では、その昔は書いても発表する機会や場がなかなか無かったのに、今ではパソコンやネットを用いることにより、自在に自分の作品や主張などを不特定多数の人にアピールするのが可能なのです。いわゆるIT革命の進展は、物書きにとっては、真にありがたい環境となったと思います。おそらくこれは自分が老計を確立させ、進めてゆく上において無くてはならない力となるに違いありません。このITの力を活用しながら、当面はくるま旅くらしという手段をうまく使って、その中から夢中になれるテーマを見つけ出してゆきたいと考えています。

老計は未だ定まらずの状況ですが、残された時間(それがどれほどなのか知るすべもありませんが)を思うと、まずはぶらぶら袋を膨らますことと、そこに詰め込んだ材料を活用して、物書きとしての思いを、同世代を中心に伝えることに力を入れてゆこうと考えています。そして忘れてならないのは加齢に適う快食・快眠・快便とそれをもたらしてくれる運動(歩きが第一)の実践ということだと思っています。

コメント (2)
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