今日(10/13)は早朝からTVは賑やかで、どの局もチリの落盤事故の救出報道一色に染まっていました。さもあらん、8月5日に発生した落盤事故から2ヶ月以上も経って、夢としか思えなかった救出のその瞬間の日を迎えたというのですから、世界中が興奮するのは当然だと思います。この出来事を知っていて平然と横見して見過せる人がいたとしたら、それは人間性を失ったとんでもない破綻者か、或いは心情感覚を失った似間だといわれても仕方ないのではなでしょうか。
考えてもみて欲しいのです。真っ暗闇(多少の灯かりはあったとは聞いていますけど、もしそれが断たれたら闇以外は何もないという恐怖の世界なのです)の世界の中に、33人の仲間が居るとはいえ、たった50㎡の退避のために作られていた空間と崩落していない真っ暗な坑道が2km足らずしかない世界に閉じ込められているのです。先の見えない生死の境目に居るのです。想像するだけで身の毛もよだつ感覚に襲われずにはいられません。生き埋め地獄と全く同じではありませんか。その様なとんでもない環境に2ヶ月以上も閉じ込められているなんて、これはもう人間の限界を超えた恐るべき超体験といわざるを得ないような気がします。
私は閉所恐怖症持ちです。ですから、このような闇の地下の世界などに出向く勇気など全くありません。名のある鍾乳洞でさえも、入るなど真っ平ご免なのです。それなのにこの人たちは、生活の糧を得るためとはいえ、5kmもあるらせん状の坑道を辿って、地下700mもの現場で採鉱の仕事に携わっていたのでした。その勇気に感嘆すると共にその様な仕事を選ばざるを得なかったという暮らしの現実にやりきれない人の世の過酷さを呪いたい気がします。好き好んで危険を冒してこのような仕事を選ぶ筈がありません。ハイリスク・ハイリターンというのが本来の稼ぎの定理みたいに言われていますが、この人たちは決してそうではないように思われます。ハイリスクの割り合いにはローリターンというのが採鉱労働者の実態ではなかったかと思うのです。
今回の事故については、考えなければならない側面がたくさんあるように思いますが、私は何よりも先ず、33人の人たちがこの想像を絶する困難事態を生き抜かれた力、人間としての力を思わなければならないと思うのです。
突然の崩落事故で、地上との音信の断たれた暗黒の世界に、当初は救いの兆しも無いままに17日間も頑張って生きながらえたのです。この間地上の人たちは彼らが無事で生きていることを全く知らなかったのです。17日というのは短い時間ではありません。ましてや暗黒の世界に取り残された状況なのです。人工衛星から見放されて宇宙に投げ出された飛行士よりも、何も見えない暗闇の中に居るというだけでも、より過酷であるといえるかも知れません。
17日経って、地上からのたった直径10cmのボーリングの穴が届き、それを見つけたときの全員の歓びは如何ばかりだったかと思います。まさに暗闇の中に一筋の光明を見出したことでありましょう。その喜びは察するに余りあります。このことは彼らに絶望から希望へと生きる力を与えたに違いありません。しかし、現実はやはり暗闇の中であり、何時本当の助けの手が届くかははっきりしないのです。地上からの励ましや国を挙げての様々な支援は、彼らの生きる希望を少しずつ強くしていったとは思いますが、閉じ込められた世界の中では、常に不安と絶望が押し寄せて、いたたまれなくなる時が何度もやって来たに違いないと思うのです。なんといっても地上からの最初の救出見込み時期はクリスマスまでにはということだったのですから。
中国の古人の教えに、人生五計というのがあります。生計、家計、身計、老計、死計の五つの生きるための計りごと(=計画)を指しますが、今の私にとっては、老計、死計のことが大きく身に迫っててきている感じがします。即ちどのように老いるか、どのように死ぬかということです。未ださっぱり見当もつきません。仮にその筋道が見えたとしてもそれが実現できるかどうかは分からず、今気づいているのは、老も死も覚悟をしておくことが重要だという気づきだけです。PPK(ピンピンコロリ)があの世に逝く理想形だなどと冗談めかして言っていますが、その実現は不明であり、そうなることを願って何よりも健康であることが絶対条件だと考え、身計に努めているところですが、それだけでは老計、死計を乗り越えることは出来ず、やはり肝要なのは覚悟ではないかと思っています。
さて、今回の崩落事故のことを思って見ますと、老計も死計も平常心でいられるときの話で、その様な悠長な話は現実世界ではそれほど通用しないような気になるのです。老計はともかく死計というような計りごとなどは、通用しないように思うのです。何の前触れもなく突然やって来るのが死というものの実相のような気がします。病に取り付かれてしまった時の死は、ある程度残りの時間の計算ができるかも知れませんが、PPKで逝こうとする場合は予測が不可能のようです。
いつ何時大地震が発生して、出先のビルの中で、或いは地下道の中で崩落等があり閉じ込められ、そのまま救出不能の状態で終りを迎えるかも知れず、或いは又いつ交通事故に出くわすかも知れず、予想もつかない死に方が待っているかも知れません。その様なことを思う時、やはり今の内からしっかり覚悟を決めておくことが大切だと改めて思うのですが、一体覚悟を決めるというのはどういうことなのか、これが又難しいように思います。いずれ生き物は必ず死ぬのだとは解っていても、予めの覚悟などというのは世迷言に過ぎないのであって、最後の最後まであがき続けるのが人間の姿であり、動物の本能なのかも知れません。
今回の崩落事故で、生き地獄の苦しみに苛まれた人たちは、死というものに対して、その覚悟ということについて、どのような葛藤を抱きながら、過されたのでしょうか。その本当の姿を知りたいと思いました。それは決して興味本位のことではなく、死計を真剣に考えようとする気持ちから、ご教示頂きたいことなのです。いずれ手記や実録などが世に出ることだろうとは思いますが、純粋な心情を知りたいというのが私の願いです。そのことは私自身のこれからの生き方(=死に方)に大きな影響を及ぼすに違いないと思っています。
今回の崩落事故では、真に幸いなことに、奇跡の生還を果たすことが出来ました。そのことは何よりも嬉しいことであり、踊り狂って祝福を奉げても何の支障もないと思います。本当によかったなあ、と思います。
しかし残された課題も多いと思います。特に大きいのは、このような事故を起こさずに済んだはずなのにという、治世のあり方ではないかと思っています。このあと、この炭鉱は恐らく閉鎖されるのだと思いますが、奇跡の生還を果たしたということで観光名所などにして治世の関係者が浮かれるなどしたら、恥知らずと軽蔑せざるを得ません。200年も採掘をし続けて、その危険性が指摘され改善や閉鉱の決めをしながら、それを形式で終わらせ、採鉱を続けさせた国の責任、危険防止対策を放置したまま経営を続けた経営者、それぞれいろいろな言い分があるのでしょうが、弱者の立場の人間を過酷な環境で働かせることに対して然したる責任も感じなかったこの人たちの責任は重く、彼らはそのことを思い知る必要があるのではないかと思うのです。起こるべくして起こった事故なのですから。仮にも救出してやったなどという思い上がりがあったとしたら、怒りを通り越して人間社会の空しい虚構に対する絶望感と悲しみが膨らむだけです。この33人の方たちが味わった恐怖と苦悩を、為政者や経営者達は、彼らも生まれた時には備えていた筈の、人間としての大切なものに照らして、これからの仕事の中で肝に銘じて活かして行って欲しいと思います。
<昨日はボランティアで不在だったため更新が遅くなりました。8月の旅から戻ってから、ニュースでこの事故を知って以来、他国のことながらこのショッキングな出来事は、ずっと心に引っかかっていて、閉所恐怖症の私にとっては見逃すことのできない関心事でした。ずっと、一日も早く救出の時が来るのを願っていたのですが、それが実現できて何よりも嬉しく思います。>