第44日 <8月21日(金)>(最終日)
【行 程】
阿武隈高原SA → (常磐道へ) → 中郷SA → 友部SA → 自宅(帰着)
<201km>
今回の旅も今日で終わりとなる。高速道のSAでの泊りは味気ない。まさに仮眠と言う感じだ。道の駅も本来は仮眠なのだろうが、くるま旅くらしの中では仮眠のレベルよりはずっと上の方に位置づけられるような気がする。今回の旅でも熟睡した道の駅の夜は多かった。道の駅もSAも本質的な機能は同じだと思うけど、高速道という道は親しみを削っている様なところがある。自動車専用道路というのは、そのような特性を排除できないものなのかも知れない。などと思いながら、朝外に出てみると、周辺の山には靄が掛かっていて、朝ぼらけという雰囲気だった。それほどの高さはない様に思うけど、やはりここは高原なのだなと思った。排気ガスで汚れた空気を只今浄化中ということなのかもしれない。
邦子どのが今回の旅の最後の朝寝を楽しんでいる間にご飯を炊いておこうと、コンロを外に持ち出し、公園のベンチの横の石の上に置いてその作業に取り掛かる。これが今回最後の飯炊きかと思いながら、20分ほど辺りの景色を眺めて楽しみながらの時間だった。このところ炊事作業は自分がすることが多い。邦子どのの腹の調子があまりよくないのは、そのせいなのかもしれない。いや、これは冗談。
少し早めに食事を済ませ、最後の走りにとりかかったのは7時半だった。あと200km余の走行である。ゆっくり走っても3時間ほどあれば帰宅できる距離であろう。磐越道も常磐道もここからは2車線以上なのでゆっくり走るのには心配が少ない。昨日からずっと追い越され続けているが、今日もまたそのペースを崩さずに行くことにする。
いわき市郊外から常磐道に入り、中郷SAにて小休止。もうここは地元の茨城県である。10分ほど休憩して直ぐに出発。少し走ると日立市である。山と海の狭間の狭い土地に工場と住宅が密集している。ここが自分の生まれた場所なのだが、戦争で疎開したままで戻れなかったので、実際にどこに自分の家が在ったのかは全く知らない。太平洋は暑くて膨れ上がった空気の彼方にけぶっていた。山沿いを走る常磐道の幾つかのトンネルを通過すると、坂を下って平野部となる。それをしばらく走ると我が故郷の水戸市となる。この辺は見慣れた懐かしさを感ずる景色が広がっている。間もなく友部SAに到着。ここで一息入れて、最後の一走りとなる。次第に出発前の暮しの欠片が混ざった風景となり出し、間もなく谷和原IC。そこを出ると2分も掛からぬうちに我が家となる。
10時15分我が家に到着。最後の方は少し走り急いだのか、思ったよりもかなり早い到着となった。暑い。めちゃくちゃの暑さである。土曜休日で在宅していた倅の話では、これでもまだ良い方だという。倅は夏風邪を引いて体調を崩しているらしい。炎暑地獄の中に車を止めて、最後のメモを書き込む。全行程5,090kmの旅だった。
<旅から戻って>
これほどの灼熱地獄が待ち受けているとは思わなかった。絶対的には過去にももっと暑い夏があったのかも知れないけど、この歳になってこれほど悪意に満ちた自然界の暑さというものを感じたことは無い様に思える。とにかく旅から戻った日は、荷物の降ろし運びはしたものの、日中のあまりの暑さに身の危険を感じて外へ出ることを控えたのだった。それでも庭に蔓延る雑草とこの暑さにもめげずにのさばる畑の雑草は許しがたく、夕方になって蚊の攻撃に備えるべく万全を期してその退治に敢然と挑戦したのだったが、それが終るともはや何をする気も無くなって、ひたすらに惰眠を貪る時間が続いたのだった。
旅が終って早や1週間が過ぎようとしている。長いはずの時間なのだが、怠惰の身にはあっという間の時間だったような気もする。今回は旅の当初からブログの投稿が叶わず、中途半端な更新となってしまったため、それに気づいた後は今までに無く丁寧に毎日の記録を書くように努めたのだった。携帯でのブログの更新が無かった分だけ、その後の記録の整理は自分の思いをより多く書き留めることが出来たように思う。
そのようなことから、記録の整理は順調に進んで早めの印刷が可能となった。しかし、毎日丁寧と言うか、あるいは余計なことをと言うか、やたらに感想籠めて書いたため今までにない枚数の多いものとなってしまった。読むのが苦手の方には迷惑な話となるに違いない。
今年の北海道は総括的な所感を述べれば、異常気象に攪乱された暮しだったの一言かも知れない。例年次第に異常気象の兆しを実感するようになって来ているのだが、近年ますますその酷さの度合いが増していると思わずにはいられない。蝦夷梅雨は確実に定着し、内地の梅雨に連動して日本の雨季を拡大している感じがする。北海道に梅雨は無いという何年か前まで当たり前だったコメントは、もはや神話化した感じすらある。どの時代にも似たような気象異常という現象はあったのだと思うが、少なくとも今まで自分が生きてきた時間の中では、これは最近明確に認識できる事実である。
7月の北海道は、夏を実感させる日が少なかった。内地は猛暑日が膨れ上がり、連日熱中症による被害が報道され、実際出発までの暑さには辟易していたのだったが、北海道に来ていると、どこに熱中症の天気があるのかという感じだった。とにかく太陽の顔を見られる日が少なかった。太陽が居座れば内地と同じように暑さが問題になるのだと思うが、7月の北海道にはそれはなかったように思う。寒くて半そでシャツやTシャツを着ることができなかった昨年の別海の7月に比べれば、今年はずっと夏らしい日が多かったと言えるけど、それにしても蝦夷梅雨はもはや蝦夷などと言う呼び方を取り除いて定着してしまったということなのであろう。ま、何時までも天気についての愚痴などいっても始まらない。
ものごとには全て広さと深さがあると考えるが、旅における出会いについても、同じことが言えるように思う。出会いにおける広さと言うのは、別の言い方をすれば出会いの多さであり、新しい出会いの回数と言うようなことになるのかもしれない。そして、深さと言うのは、出会いの中身の深化を意味するのではないかと思う。このように考える時、今回の旅においては圧倒的に深さが増したように思う。新しい出会いも幾つかあったけど、今回は旧知や知己の方々との交流の深まりが大きかった。
結局のところ、旅というのは出会いや感動という宝物探しだと思っているけど、その落ち着く先は見出した宝物を磨き、その輝きを堪能することにあるのではないか。今回は、幾つかの宝物が光り輝くのを見たというのが、大きな収穫だったような気がする。これから先も、宝物探しを続けて行くつもりであるけど、同時に懐中の宝物を徒(いたずら)に秘匿しているだけではなく、少しずつ磨いてゆきたいと思っている。
邦子どのの静養という目的もおかげさまで叶えることができ、たくさんの元気を恵んで頂いた皆様に心からお礼申し上げたい。ありがとうございました。
ほんとうの「車旅」を詳細にご紹介いただきまして、楽しく拝読させて戴きました。
今年の本州の夏は、おっしゃる通り本当に暑かったですね。私の方は北海道までは難しいので、暑さという制約がありましたので、信州の高い所で5日間ほど座してきただけでした。
夜、2日間、激しい雷雨に見舞われましたが、そこは旅車ですので、悠々と過ごすことができました。一般的な宿泊処に身を委ねますのとは違い、朝、夜とメニューも量も、家内とともども、アワーペースで食事が摂れることが最高ですね、もちろんお代も。そして、お風呂はこちらにご厄介になりました。
http://biwanoyu.com/
エアコンはまったくありませんが、風呂上りに、自然のユルリとした風を体に当て、蚊取り線香の香り(匂い?)に包まれて、団扇をゆっくりと扇ぐ。まるで、お殿様のような気分でした。
今後とも、ご活躍とブログを期待しております。
信州の旅、私共も何回か行きましたが、今頃はもうすっかり秋が深まっているのではないかと思います。奥様とお二人でくるま旅の醍醐味を存分に堪能されたご様子、大いなるエールを遅らせた頂きたいと思います。これからも大いにお楽しみ下さい。