少し難しい話をしたい。今頃は派遣切りだとか期間労働者の契約打ち切りだとか、労働者の馘首(かくしゅ=くびきり)問題が大きな社会問題として取り上げられている。つい先日まで仕事を失うことなど真面目に考えたこともなかったのに、あっという間に一転して突然それが現実となってしまった、そのような人たちが巷に溢れている姿が様々なニュースとなってTVや新聞紙面を賑わせている。
人が働くというのは、一体どういうことなのだろうか。労働にはどのような意味があるのだろうか?働く人と働かせる人との考え方は一致しているのであろうか。それともズレているのだろうか。思うに、今の世では(何時の世もそうであったのかも知れぬが)、働く者と働かせる者との間には、大きなギャップが横たわっているような気がしてならない。
話は変るけど、私は経理屋というのが好きでない。サラリーマンになった時、経理部門にだけは配属されないように願っていた。実際にはもっと嫌っていた教育などというとんでもない邪道(?)の部署に配属されて、入社後しばらくは退職の機会を狙うという体たらくだった。しかし、本質的には経理の思想からは遠く離れた仕事だったので、教育という仕事に対する不満もいつか薄れて、気づけばやり甲斐へとつながって行ったのだった。
ま、そのようなことはどうでもいいのだが、何故経理が嫌いかというと、己は何も生産しない癖して、現場の成果に対してつべこべとコメントをして、恰も自分がやればもっと成果が出るのだと言わんばかりの立ち居振る舞いをするからである。相手の負の部分にばかりより多くスポットを当てて、その非を責めるが如き行為を主とするような業務内容は、私にとっては耐え難い苦痛でしかない。経理業務というものの本質には、人間という視点が殆んど入っていないようだ。働く人間などという視点を入れたなら、バランスシートも損益計算も歪(ゆが)んでしまってどうにもならなくなってしまうという考え方が根底にあるからなのかも知れない。社員は単なる労働力という名のコストに過ぎず、その数値は経営の要不要に従って自在にコントロールすべきものと考えるのが当然という発想なのである。小さな企業においては、私のこのような見解の方が異常であって、むしろ経理のあり方こそが給料を保証してくれる源泉となるということなのかもしれないが、組織が大きくなるにつれて、分化し、特化した業務は他部門や一人ひとりの働くものに対して容赦しない非情さに慣れてしまうのである。
一方で経理業務が、経営の成果の実体を把握し、何処に手を打つべき課題があるかを見出す上で、不可欠の役割を担っていることはよくよく承知してはいるのだけれど、私にはやっぱり虫の好かない仕事なのであった。そのような非情な業務に就かなかったのは、幸いであったという他ない。
さて、再び話は元に戻って、今日の未曾有の不況をもたらしたものが何なのか、その不況の煽(あお)りを喰って生み出される失業者の根源が何なのかについて考えてみたい。
数日前(2/2)の朝日新聞に、「市場経済とは、働くとは」というテーマで、西部邁氏と東大教授で政治学者の苅部氏との対談(クロストーク)が記載されていた。西部氏といえば、私たちとは同世代の経済学者であり思想家である。何回かその講演を聴く機会もあって、なかなかの人物だと評価している。その尊敬の念は今も変らないけど、この時期になって、彼の経済に対する思想というか、哲学が取り上げられたのは真に当を得ていると思った。
アメリカ経済の金融破綻は、合理主義に走りすぎて、人間が何であるかを忘れていたことにあるのではないかと思うのだが、西部氏は対談の冒頭で「労働力の商品化」ということについて話しておられ、労働力を含めて全てが商品化されるという発想に疑問を持っていたというようなことを述べられていた。それは本来労働力というものは、人間という本質的なものを含んでいるのであり、安易に商品化されるという考え方には馴染まないという考え方でもある。これは、人間の世の中が人間という生き物によって作られていることを思えば、極めて当たり前の、それゆえに重要な基本認識だと思う。経済があって人間があるのではなく、人間があって経済があるのである。何でも数値化してそれを使って予測や確率の計算に巻き込むという考え方は、合理的ではあってもどこかに本質的な過誤を内包する危険があるのだと思う。それに気づかなかったのか、無視したのか知らないけど、今回のアメリカ発の世界不況は、計算可能であれば何でも商品化して実体経済も動くのだという、愚かな発想がもたらした歪(ひずみ)の表れではないかと思う。
経理屋が好きでないと書いたのは、彼らの数値的発想の世界が行過ぎると、実体経済を無視してとんでもないインチキな詐欺まがいの経済が出現するにつながるということを言いたかったからである。アメリカの失敗は、実体経済を無視して予測だの確立だのと、本当はそれらに必要な様々な条件が満たされていないのに、今までのごまかしが何時までも通ずるという過信のもたらした大失態なのではないか。そしてこれらの発想は、経理屋の考え方の延長線にあったことは間違いない。何でも数値化して、人間ですらも商品化して扱えるという考え方は、企業経営の方法論からは外すべきではないか。そう思うのである。
これからの世の中には、そのような人間という存在を含めた経済哲学というか、経営哲学といったものがより強調されなければならないのではないか。あまりにも合理主義に走り、損得にこだわるという考え方は、もういい加減にしなければならないのだと思う。
冒頭の社会問題となっている派遣労働や期間労働の馘首問題も、労働力の商品化を是とする発想から生まれた契約行為の結果からもたらされたものに違いない。それは労働力を必要とする側にとって、真に都合の良い考え方であり、ツールであった。また、労働力を提供する側としても、自分自身の雇用が脅かされないという条件下においては、それなりのメリットがあったのだと思う。そして契約の文言など大して気にもせずに、まさか己の労働力を商品として雇用者に売っているなどとは思わなかったに違いない。労働力だけではなく、自分自身を丸ごと雇用してくれているものだと考えたに違いない。名は期間労働や派遣労働であっても、ちゃんと宿泊施設まで用意してくれているのだから、私という人間を雇用してくれていると信じたのに違いない。しかしその安心の元となる条件が消えてしまったのである。
一方雇用側においては、丸ごと人間を雇用したのではなく、その人の持つ労働力だけを買い上げたのである。しかも元々期限付きなのだ。経済(経営)状況が安定していれば、何度でも契約の更新を続ければいいのだが、悪化すれば不要な商品は始末して在庫をきれいにする必要があるのである。そのことは契約書に明記して念を押したはずである。契約社会においては、公序良俗に反しない限り契約は有効である。ましてこの労働契約は、何とか構造改革騒ぎの中で、規制緩和の一環として国までもが認めてしまっているのである。何ら非を責められる筋合いではない。それどころか契約の範囲を大きく譲り超えて様々な支援行為をしているのに……、というのが雇用側の言い分であろう。
この問題は、到底今すぐ解決できるものではない。思い知らなければならないのは、労働力の商品化などという発想には様々な規制をかける必要があるということであろう。私は西部氏の受け売りをする考えはないけど、経済活動の中で人間そのものが商品化の対象となるような領域・部分については慎重な規制を行なう必要があると思う。そのような経済(経営)哲学をもっともっと重視すべきと思う。人間に本当に必要なのは、経済活動のツールの利便性などではなく、人間が生きるために安全かどうかという基本的な欲求が守られるということではないか。そしてそのためには、経済活動の中に、人間についての深い洞察を組み入れた哲学を取り込むことが必要なのではないかと思う。