山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

高齢者の社会的責任

2009-02-16 00:07:21 | 宵宵妄話

妙なタイトルとなりました。このようなことを思いついたり、意見を言ったりするのはもしかしたらご法度(はっと)なのかも知れません。私自身は明らかに高齢者でありますから、そのようなことを考えると、これは自殺行為に等しい意見の開陳となるのかも知れません。しかし、言うことにします。

現役時代、企業の社会的責任について論じたことがありました。企業というものは、社会の公器的な存在としてその責任を果たさなければならないなどと、意気がって述べたりしたものです。高度成長期であり、企業の明日が保証されていると誰もが錯覚できる時代でした。つまり毎年の売り上げが対前年年度を上回るのが当然と思われていた時代だったのです。経済活動の恵まれた条件の下では、個人も組織も社会貢献とか責任というものを、それなりに前向きに受け入れて考える余裕があったのでした。

今、それらの全てが失われているとは思いませんが、このような途轍(とてつ)もない不況の時代となると、企業の社会的責任というのは、社会に対して何を為すかなどということではなく、何よりも企業自体の安定的な存続であり、適正なる収益の確保であるということが理解できます。人々の暮らしの安定も平和も、企業としてのこの最も基本的な責任が果たされて、初めて成り立つのだということを思い知らされます。

ところで、話したいのは企業の社会的責任などという大それたテーマではありません。私を含む高齢者世代の社会的責任ということです。企業によらず、世の中に生きている全ての人間には、果たさなければならない幾つかの責任と義務があると考えます。基本的人権を主張するのならば、その前提や背景に基本的責任と義務があるのを確認するのは当然のことです。それがなければ世の中は成り立ってはゆかないからです。なすべきことも為さずに、一方的に権利だけ要求するというのは、人間として片手落ちの主張であり、そんなものが罷り通ったら、この世に闇が近づくに違いありません。

さて、高齢者にはどのような社会的責任があるのでしょうか。

そんなもの、あるわけがないじゃないか!今まで仕事を通して、世の中のために十分貢献してきたではないか。だから、これからは自分の好きなように暮らすのは当たり前のことだ。社会的責任なんて、とんでもない!というのが多くの高齢者の考えかも知れません。それは私にも同感する部分が多いのですが、しかしそれだけではこの世は闇となる危険性があるのです。ですからやっぱり高齢者には高齢者としての社会的責任があるのだと思います。

私は高齢者の社会的責任というのは、あの世に逝くまでの間、健康で家族や周辺に迷惑をかけることなく、出来ればちょっぴり世のお役に立つことをしながら、毎日を生き抜くことだと思っています。どんなにそれを心がけてもやがては老化の現実は必ず自分以外の人に迷惑を掛け、お世話になることになるのは必定ではありますが、それを最小限に止める不断の努力をすることが、最大の社会的貢献なのではないかと思うのです。

リタイア後の人生は自分の好きなことをするのだと、お金と時間の余裕に任せて、美食・飽食に明け暮れ、碌に身体も動かさずに楽をする毎日で10年が過ぎ、気がつけばメタボの身体に数々の厳しい警告を受け、一挙に心配になって薬くすりの病院通いとなり、ウロウロしながら暮らしているうちに又10年が過ぎて、何だかこの頃は物忘れが酷(ひど)くなったなと思っているうちに、自分が自分であることも忘れ果てて、認知症の世界へ足を踏み入れている、などという現象は、今の世には掃いて捨てるほどあるのではないでしょうか。そこまで行かなくても優秀な資質()を持った予備軍は、二重三重に出番がくるのを満を持して待っている感じもするのです。そしてその先に待っているのは、姥捨て山の思想を現実化するような老人公害とも呼ぶべき、国家を危うくするような暗い未来のような気がするのです。

少しオーバーな空想となりましたが、日本の全人口の25%を占めようとしている高齢者層が、迷いの中に生き、安易に病の世界に関わるようになったら、日本国は破綻に向うに違いありません。消費税率を少しばかり上げた程度で済む話ではないと思います。高齢者が確かな生きる喜びを掴み、自ら健康を保持しながらPPK(ピン、ピン、コロリ)とあの世に逝くという生き方が、どれほどこれからの世の中に貢献するか、計り知れないものがあると思うのです。

身近に迫ってくる老いという厄介な宿命を抱えた世代が、何の努力もせずに病の思惑に誑(たぶら)かされて、為す術(すべ)もなく医療のお世話になるというのでは、あまりにも寂しい話となってしまう気がしてなりません。高齢者が世に甘えることはけしからん!などとは思いませんが、甘えるだけでは無責任といえるように思います。本物の病に取り付かれてしまったのでは、これはもう仕方がないのですが、大切なのは、病に取り付かれる前に、取り付かれないための何かを実行することなのだと思います。高齢者の社会的責任とは、その何かを実行することなのだと思います。

私がくるま旅くらしを提唱するのも、この高齢者の社会的責任を果たす上で、くるま旅くらしが極めて有効な力を発揮するに違いないと思っているからなのです。

コメント
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