山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

早春の野草の花言葉(その3)

2009-02-18 00:35:31 | くるま旅くらしの話

昨日に続いての勝手な花言葉集です。本当は昨日で全部を掲載したかったのですが、字数制限があり、中途半端になってしまうのが残念です。

<コハコベ(小繁縷)>(ナデシコ科)

 花言葉:直向(ひたむ)きな乙女ごころ  (馬骨命名)

   

ハコベの古名はハコベラ。春の七草の一つとしておなじみの野草です。日本中どこにでもある草で、食用の他にも薬草としても使われていた様で、わが国では身近な親しみやすい野の草だったのではないかと思います。今頃では、殆んどの日本人はこのような花を忘れ去っている感じがします。

子供の頃、ウサギを飼っていたことがありますが、このハコベを採ってきて餌として与えると、ウサギがニコニコと喜ぶのを感じたものでした。私にはとても身近な草でした。虫眼鏡で覗くと、白い小さな五弁の花が楚々としてこちらを見返しています。好い花だなあ、と改めて思います。

 

<フキノトウ(蕗の董)>(キク科)

 花言葉:ほろ苦き青春  (馬骨命名)

    

道端の草叢にフキノトウを見つけました。春を確実に実感させてくれるのはこの野草かも知れません。キク科の植物としてのほのかな気品ある香りが伝わってきます。食用にすると、ほのかな苦味が大人の味を教えてくれるのですが、花そのものの持つ雰囲気はやっぱり青春のような気がします。

(とう)というのは、花というよりも花を咲かせている茎の部分を含めたものを、そう呼んでいるようです。菜の花や蕗などは、董立ちした部分を食用にするわけですが、この部分には、季節の香りと栄養分がたっぷりと詰まっているようです。春を食べようとするなら、フキノトウや菜の花、紅菜苔などを食べるのが一番だと思います。ついに、食べ物の話となってしまいました。

 

<ミモザ>(マメ科)

 花言葉:グローバル憂き世の華燭  (馬骨命名)

    

少し変な花言葉となりました。グローバルなどというカタカナ語が使われる花言葉など違反なのかも知れませんが、最近は国際化というか、地球は一つという考え方が普通となり出していますので、憂き世(=浮世)というのは、何も日本国だけを指していることばではないと思うのです。

ミモザというのは、ギンヨウアカシアのフランスでの呼び名であると広辞苑にありました。花アカシアとも呼ばれるそうですが、私としてはフランス人でもないのに、やっぱりミモザが一番馴染む呼び方です。

この花の写真は、お隣の庭から溢れ出て咲いているのを撮らせて頂いたものですが、そこには金色の華燭の世界が広がっていました。一色で絢爛豪華というのには、たいへんなパワーを感じますが、どこかに憂き世の悲哀を予感させるものがあって、毎年今頃になるとお隣のこの花に無常を覚えるのです。

 

<ノースポール>(キク科)

 花言葉:冷静で大胆な細身美人  (馬骨命名)

   

この花が日本にやってきたのは、僅か50年ほど前のことらしいと知って、ちょっぴり驚いたのですが、そういえば、私が子供の頃には見かけた記憶は全くありません。でも最近は、寒い冬だというのに、知らぬ間に道端にひょっこりと白い花を咲かせているのに気づきます。写真の花も我が家の前の道路わきにいつの間にか花を咲かせたものです。

家内はこの花を見つけて「あら、スノーボールだわ!」などと声を上げていました。雪合戦の雪の玉と間違えていたようでした。ノースポールというのは、北極ということなのか、それとも北の柱という意味なのか良く分りませんが、例えば日本には旗竿などと呼ばれる植物(=ハマハタザオ)もありますので、私としては北の旗竿というような意味で命名されたのではないかなと思っています。とにかく冬の間も花をさかせ続け、見かけないのは真夏だけという感じの植物なので、生命力の逞しい花なのだと思います。

花言葉は、少し冷たい感じのするものとなってしまいましたが、一見ひ弱そうな感じがしますけど、この草の生き様を見ていますと、僅かな土と空気さえあれば、コンクリートや瓦礫の隙間にでも根を張って、スリムな身体で楚々たる花を咲かせており、その逞しさは驚くばかりです。

 

<ギョウジャニンニク(行者葫)>(ユリ科)

  

これはおまけです。いまのところは花どころではないので、花言葉もありません。北海道の知人から頂戴して3年目のギョウジャニンニクが芽を出しました。去年よりもちょっぴり増えそうで、ワクワクしています。まだまだとても食べる気にはなりません。北の大地の北海道よりも3ヶ月くらい早い芽吹きだと思いますが、もう新しい暮らしに慣れて来てくれたのかなと思っています。

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早春の野草の花言葉(その2)

2009-02-17 00:12:09 | くるま旅くらしの話

前回掲載時から1週間ほどが経ちましたが、この間に春一番も吹いて、(守谷市には来なかったのですが)急に暖かくなって、野草たちの生命の活動も活発になりました。今日もいつもの散歩コースを10kmほど歩きましたが、道端には様々な草木の花が見られました。一番多かったのは、何と言ってもオオイヌノフグリですが、その他にも前回はあまり見られなかった野草たちが幾つか春を謳い始めていました。暇に任せて又花言葉を勝手に作ってみました。今回は野草だけでなく、樹木の花も加えてみました。

 

<アセビ又はアシビ(馬酔木)>(ツツジ科)

 花言葉:日溜まりの誘惑 (馬骨命名)

    

日溜まりのけさ集め馬酔木咲く  馬骨

早春の寒さの中で、僅かに膨らませた蕾を、日溜まりの中で少しずつ温めていたものが、このところの暖かさで一挙に花を開かせたということでしょうか。今日の道端で見かけた一番賑やかに春を歌っている花でした。それは今までのひっそりと積み上げて来た生命の活動を爆発させたという感じがしました。小さなちょうちん状の花をたくさん集めて、お祭りの様でもありました。

このような花を見たら、思わず馬や牛たちは口の中に入れてみたいと思うのかもしれません。しかし、読んで字の通り、この樹には何やらの毒があって、馬たちは悪酔いをした如くの症状を来たすとか。美しいものには要注意という見本なのかも知れません。

 

<ミツマタ(三椏)>(ジンチョウゲ科)

 花言葉:忘れられた博愛 (馬骨命名)

      

ミツマタは楮(こうぞ)と並んで、わが国の和紙製造の原材料として有名ですが、最近では早春の観賞用の花としても庭先に植えられているのをよく見かけます。この写真もその一つです。

三椏の花は、冬の寒さの中から暖かい部分だけをそっと取り込んで、猫柳に似た厚ぼったい蕾を冬の間にも膨らませて、春を待っています。飾り気も無く地味な存在ですが、その蕾の中には、この世にある生命(いのち)を愛おしむ優しさが蓄えられているような気がします。

 

<ミミナグサ・オランダミミナグサ(耳菜草)>(ナデシコ科)

 花言葉:前進・進出  (馬骨命名)

   

この花もわが国の代表的な雑草の一つだと思います。名も知らぬ草の代表かも知れません。図鑑によれば、在来のミミナグサに対して明治以降にヨーロッパから持ち込まれた外来種があり、それにはオランダミミナグサとオランダの国名が冠されています。オランダ○○と呼ばれる植物は、必ずしもオランダからやって来たとは限らず、ヨーロッパの代表としてそのように冠されることがあるということです。

在来種と外来種の識別は難しいのですが、一般的には外来種の方がのさばって進出しているようですから、ちょっと大きめで、悪相をしているのがオランダミミナグサなのだと思えば、大体合っていると思います。外来種の多くは、とにかくラッシュ、ラッシュの強引な進出ぶりが目立ちます。

 

<ヒメオドリコソウ(姫踊子草)>(シソ科)

 花言葉:永遠の脇役。田舎娘のど根性 (馬骨命名)

    

田舎娘などと書くと、田舎の女性にはバカにするなとお叱りを受けるかもしれませんが、私にとって田舎はくらしの原点だと思っていますので、そのようなことを思う人とは反対のイメージがあります。

オドリコソウには二つがあって、日本在来のオドリコソウはこの花と違って、珍しく大型で洗練された美しさがあります。ところが外来種のこの花は、よく見ないとオドリコソウとは判らないほど小さい花を少し付けて、春の休耕地や空き地に群生しています。一目見た感じでは、何だか埃臭い感じの好感の持ち難い草なのですが、今頃は花を咲かすには少し早い季節なのか、まあまあの踊り子の雰囲気を持っているようです。

どんなに頑張っても主役にはなれない花だと思いますが、その分、集団パワーを感じさせてくれる野草でもあります。

(明日に続く)

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高齢者の社会的責任

2009-02-16 00:07:21 | 宵宵妄話

妙なタイトルとなりました。このようなことを思いついたり、意見を言ったりするのはもしかしたらご法度(はっと)なのかも知れません。私自身は明らかに高齢者でありますから、そのようなことを考えると、これは自殺行為に等しい意見の開陳となるのかも知れません。しかし、言うことにします。

現役時代、企業の社会的責任について論じたことがありました。企業というものは、社会の公器的な存在としてその責任を果たさなければならないなどと、意気がって述べたりしたものです。高度成長期であり、企業の明日が保証されていると誰もが錯覚できる時代でした。つまり毎年の売り上げが対前年年度を上回るのが当然と思われていた時代だったのです。経済活動の恵まれた条件の下では、個人も組織も社会貢献とか責任というものを、それなりに前向きに受け入れて考える余裕があったのでした。

今、それらの全てが失われているとは思いませんが、このような途轍(とてつ)もない不況の時代となると、企業の社会的責任というのは、社会に対して何を為すかなどということではなく、何よりも企業自体の安定的な存続であり、適正なる収益の確保であるということが理解できます。人々の暮らしの安定も平和も、企業としてのこの最も基本的な責任が果たされて、初めて成り立つのだということを思い知らされます。

ところで、話したいのは企業の社会的責任などという大それたテーマではありません。私を含む高齢者世代の社会的責任ということです。企業によらず、世の中に生きている全ての人間には、果たさなければならない幾つかの責任と義務があると考えます。基本的人権を主張するのならば、その前提や背景に基本的責任と義務があるのを確認するのは当然のことです。それがなければ世の中は成り立ってはゆかないからです。なすべきことも為さずに、一方的に権利だけ要求するというのは、人間として片手落ちの主張であり、そんなものが罷り通ったら、この世に闇が近づくに違いありません。

さて、高齢者にはどのような社会的責任があるのでしょうか。

そんなもの、あるわけがないじゃないか!今まで仕事を通して、世の中のために十分貢献してきたではないか。だから、これからは自分の好きなように暮らすのは当たり前のことだ。社会的責任なんて、とんでもない!というのが多くの高齢者の考えかも知れません。それは私にも同感する部分が多いのですが、しかしそれだけではこの世は闇となる危険性があるのです。ですからやっぱり高齢者には高齢者としての社会的責任があるのだと思います。

私は高齢者の社会的責任というのは、あの世に逝くまでの間、健康で家族や周辺に迷惑をかけることなく、出来ればちょっぴり世のお役に立つことをしながら、毎日を生き抜くことだと思っています。どんなにそれを心がけてもやがては老化の現実は必ず自分以外の人に迷惑を掛け、お世話になることになるのは必定ではありますが、それを最小限に止める不断の努力をすることが、最大の社会的貢献なのではないかと思うのです。

リタイア後の人生は自分の好きなことをするのだと、お金と時間の余裕に任せて、美食・飽食に明け暮れ、碌に身体も動かさずに楽をする毎日で10年が過ぎ、気がつけばメタボの身体に数々の厳しい警告を受け、一挙に心配になって薬くすりの病院通いとなり、ウロウロしながら暮らしているうちに又10年が過ぎて、何だかこの頃は物忘れが酷(ひど)くなったなと思っているうちに、自分が自分であることも忘れ果てて、認知症の世界へ足を踏み入れている、などという現象は、今の世には掃いて捨てるほどあるのではないでしょうか。そこまで行かなくても優秀な資質()を持った予備軍は、二重三重に出番がくるのを満を持して待っている感じもするのです。そしてその先に待っているのは、姥捨て山の思想を現実化するような老人公害とも呼ぶべき、国家を危うくするような暗い未来のような気がするのです。

少しオーバーな空想となりましたが、日本の全人口の25%を占めようとしている高齢者層が、迷いの中に生き、安易に病の世界に関わるようになったら、日本国は破綻に向うに違いありません。消費税率を少しばかり上げた程度で済む話ではないと思います。高齢者が確かな生きる喜びを掴み、自ら健康を保持しながらPPK(ピン、ピン、コロリ)とあの世に逝くという生き方が、どれほどこれからの世の中に貢献するか、計り知れないものがあると思うのです。

身近に迫ってくる老いという厄介な宿命を抱えた世代が、何の努力もせずに病の思惑に誑(たぶら)かされて、為す術(すべ)もなく医療のお世話になるというのでは、あまりにも寂しい話となってしまう気がしてなりません。高齢者が世に甘えることはけしからん!などとは思いませんが、甘えるだけでは無責任といえるように思います。本物の病に取り付かれてしまったのでは、これはもう仕方がないのですが、大切なのは、病に取り付かれる前に、取り付かれないための何かを実行することなのだと思います。高齢者の社会的責任とは、その何かを実行することなのだと思います。

私がくるま旅くらしを提唱するのも、この高齢者の社会的責任を果たす上で、くるま旅くらしが極めて有効な力を発揮するに違いないと思っているからなのです。

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キャンピング&RVショーに行く

2009-02-15 04:21:12 | くるま旅くらしの話

久しぶりに、幕張メッセで開かれているキャンピング&RVショーに行きました。その感想などをちょっぴり書いて見たいと思います。

昨日(2/13)は大風が吹いて、春一番だとか大騒ぎでしたが、我が住む守谷市はその気配など全くなく、なんだか世の中から取り残された感じがするような静けさでした。今日は雨という予報でしたので、遠出は如何なものかとのためらいもあったのですが、朝になってみると雨も風も何処へやら、まあまあの天気で、これならば大丈夫と出かけた次第です。最近の天気予報は、滅多に外れることがないのですが、今回のように悪い予報が外れるというのはちょっぴり嬉しいものです。

我が家から千葉の幕張メッセまでは、車で2時間弱の距離にあります。今日は9時半過ぎに家を出たのですが、途中工事渋滞などがあり、到着は12時近くになってしまいました。妙に生温かい気温で、ちょっと歩くと汗ばむほどの陽気となり、これも異常気象の一つなのかと、この頃は何でもかんでも地球温暖化などと結びつけて感じてしまいそうな天気でした。

キャンピング&RVショーを見るのは、2年ぶりです。都合がつけば必ず見に行くようにしているのですが、昨年は所用があって行くことができませんでした。今は車を買うという考えはないのですが、ショーに行けば毎年様々な新しい旅車を見ることが出来るので、それらを眺めてみるのも、くるま旅くらしをする上では何かと参考になることが多いのです。モーターショーほどの人気は無理としても、今回も大勢の観客が訪れており、大盛況の感じがしました。

   

幕張メッセの#9~11エリアの広い会場で開催されているキャンピング&RVショー2009。会場には工夫を凝らした様々なピカピカの新車が展示されている。(写真はその一部)

現代は車社会であり、車の好きな人もたくさんおられるのだと思いますが、ビジネスというよりも個人の暮らしに直結する車として、キャンピングカーやRV車はこれからのニーズがより高まるに違いないと私は思っています。

私はこれからの新しい旅のスタイルとして「くるま旅くらし」というものが登場しつつあると考えています。それは今後全人口の30%に迫ろうとしている高齢者といわれる人たち(私自身もその一人でありますが)のライフスタイルにも影響を及ぼすほどのものとなる可能性を秘めているのではないかと思っています。リタイア後の人生を考える上で、「旅」という時間の過ごし方は、どなたにとっても大変魅力と関心のあるテーマではないでしょうか。旅には、様々なスタイルがあると思いますが、車社会においては、車そのものを旅のツールとして活用するという考え方がより広がっても良いのではないかと思うのです。リタイア後の有り余った時間を使って、自由自在の旅が出来るのは、車と歩きの旅以外にはないと思うのですが、歩きは宿の問題が大きく、車にはそれが殆んどありません。

何故私がくるま旅くらしにこだわるのかと言えば、くるま旅くらしには、旅人に生きる喜びを感じさせ、活き活きと生きる力を与えてくれるものが潜んでいるからなのです。シルバー、シニア世代を、老を源とする病から遠ざけてくれる力があるからなのです。このことはくるま旅くらしをしてみれば直ぐに気づくのですが、多くの人はそこまで手を届かそうとしないままに、諦めてしまって、昨日と同じ暮らしに甘んじているように思うのです。

少し脱線しましたが、このような気持ちから、是非とも多くの同世代の方々には(勿論若い世代の方にも)、旅車というとても重宝なツールがあるのだということを知って欲しいと願っています。そんなわけで、毎年キャンピング&RVショーというイベントには、単に新しい車を見るためだけではなく、どのような人々とが会場にお出でになるのかを見物に行くということにしています。

さて、今年のキャンピング&RVショーはどうだったのかということですが、総じて大不況の世情を反映してなのか、豪華さを誇るような車が少なくなり、慎ましやかではあるけども、工夫を凝らしてキャンプや旅を楽しめるように作られたものが多く出品されていると感じました。キャンピングカーは年々作る技術が進歩して、私の車(=SUN号)の作られた7年前とは格段の違いがあります。デザインも機能も多様化し、夢を叶える夢の車が現実化して、会場を埋め尽くしていました。(出品されている車についての情報は、専門家にお任せしたいと思います)

キャンピング&RVショーの会場へ来るといつも感ずるのは、ここには様々のたくさんの夢が膨らみ、大きな空間を埋め尽くしているということです。夫々の人生のこれからに賭ける大きな夢、小さな夢、深い夢、浅い夢、作る夢、買う夢、買わせる夢等々、……。それらが大きな熱気の塊となって会場を覆っているのを感ずるのです。

このイベントの期間に来場する人は、昨年は14万人を超えたと聞きました。守谷市の人口(約6万人)の2倍以上の大変な数です。そして、今年もそれを超える人たちが、夫々の夢の実現に向けて何かを得ようとやってくるに違いないと思います。そうです。夢というのは実現しなければならないものだと思います。来訪者の多くの方々が、特に自分と同じシニア世代の方々が、くるま旅くらしをめざして、その夢を実現すべく大いなる決断をされれば良いのになあと思いつつ会場を後にしたのでした。

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お西山

2009-02-14 00:27:56 | くるま旅くらしの話

お西山(にしやま)などと言っても、普通の日本国民には何のことなのかわからないと思います。これはある有名人の住まいの地名なのです。有名人といっても今の時代では、TVドラマの嫌いな人には無関係の人です。「この印籠が目に入らぬか!」といえば、たいていの人は解ることでしょう。そう、水戸光圀公にあらせられるぞ、という黄門様の引退後の住まいがお西山なのです。公式には西山荘と呼ばれていますが、地元の人たちはより親しみなのか、畏敬なのか知りませんが、その思いを込めてお西山と呼んでいます。私も地元に近い所で生まれ育ったので、思わずお西山と呼んでしまいました。

そのお西山を久しぶりに訪ねました。甥の結婚披露パーティに参加したついでの旅でした。西山荘は、茨城県の北東部の常陸太田市の郊外にあります。今では周辺が開発され、それほど山奥とも思えないロケーションですが、その昔はそれなりの深山幽谷の風情のあった場所だと思います。三方を小高い山に囲まれた谷の奥の方に幾つかの池と、人工の滝(=洗耳の滝。今は水が流れていない)などを備えた築山の脇にある、麦わら屋根の素朴な風情の民家が、天下の副将軍だった人の住まいでした。住まいに至るまでの谷間の小さな平地は、田んぼや庭園となっていたようで、黄門様の好きな難波梅などの梅林が作られていたようです。

水戸の梅は偕楽園で有名ですが、中国の儒教に関心の深かった光圀公は、桜よりも梅を愛されたようで、吉川英治の黄門漫遊記では確か梅里先生となっていたと記憶しています。水戸は意外と寒い場所で、早春に花を咲かせる梅には一入(ひとしお)愛着を覚える土地なのかもしれません。その梅の花が何本か紅色の花を青空に輝かせて咲いていました。

   

青空に咲き誇る紅梅。梅の樹は、紅梅が早く開花するものが多いようである。この地の白梅は未だ固いつぼみだった。

受付で入場料を払ったのですが、なんと630円もの料金で、この種の史跡の見学料としては、かなり高額の部類に入るのではないかと、少し不満というか疑問を感じました。印籠の印刷された小さな切符のようなものが入場券でしたが、史跡に関する説明資料等は何も頂戴できず、普通ならば無料で配布されるであろう印刷パンフは有料となっていました。黄門様は庶民の味方であったはずなのに、この価格設定はその思いを踏みにじっているのではないかと思いました。年金暮らしとなった今は、せめて半額くらいにしてもらいたいという、老人の切なる願いのもたらす愚痴なのかも知れません。

(くぬぎ)門という、橡の木を2本そのまま立てただけの門を潜って、少し歩くと瓢箪型の何とか言う池があって、その上に住まいの家屋が2、3棟建っています。それを右脇に見て更に坂道を少し歩くと、洗耳の滝という人工の小さな滝が作られていました。洗耳とは、浮世の耳を洗うという意味だそうで、静かに滴り落ちる滝の音を聴いて、浮世の垢に汚れた風聞を浄化するといった意味なのかも知れません。その小さな滝は、今は流れてはおらず、したがって洗耳とは名ばかりとなってしまっているようです。

その滝の直ぐ上にもう一つ池があって、そこが滝に流れる水の源泉となっているようですが、池の水は濁り澱んで、往時の清冽さなどは欠片(かけら)もない様でした。桜が池と呼ばれるその池は、光圀公が自ら面倒を見て作った下方の水田の用水として利用されたということです。光圀公は、その田んぼの収穫の一部を、ルールに従ってこのエリアを納める代官所に年貢として納められたそうで、このようなことから一般大衆には人気があった殿様だったのかも知れません。その池の脇にある小さな高台からは、黄門様の住まいの全体を見渡すことが出来ます。住まいの構造と内部のレイアウトがどうなっているのかはよく判りませんが、大藩の殿様だった人が引退して住む家としては、見た感じは質素そのものでした。

   

桜の池脇の高台から見た西山荘の全景。質素な麦わら屋根の家が黄門様の住まいだった。

この住まいに在って、大日本史作成への思いなどを巡らされたのだなあ、と思いを馳せました。大日本史というのは読んだことがないので、実のところ名前くらいしか知らないのですが、その後250年もかけて藩の事業として取り組まれ、水戸学と言う独自の学問の世界を形成して行ったわけですから、単なる殿様の道楽ではなかったのだと思います。しかし、この史誌編纂への思いが藩の財政を苦しめ、領民を苦しめることにつながった事跡もあり、歴史の評価は複雑なのだと思います。

住まいの見学を終え車に戻る途中で、黄門様の異常な人気というものの空しさを思ったのでした。映画やTVの黄門様は、この頃は日本を飛び出し琉球(=沖縄)にまで足を延ばしています。その内に中国、アメリカやロシア辺りまで出かけるのかもしれません。しかし、外国では印籠を出しても、「ソレハナンデスカ?バカモヤスミヤスミイイナサイ!」などと一蹴されてしまいそうなので、そこまでは考えられないだろうなと思っています。大衆の空想というものは、一つの方向に動き始めると、止め処なくそれが広がってゆくもののようで、黄門漫話は日本を代表するそれなのだと思います。

黄門様の住まいの様子からは、確かに質素さというのは窺えますが、2、3の逸話はあったとしても功罪の全てを並べて見たとしたら、必ずしも高く評価される人物ではなかったような気もするのです。歴史というのは、後世の様々な扱いによって千変万化する、と考えるのが正しいような気がするものですから、馬の骨としてはちょっぴり疑問を禁じ得ないのです。入場料が高いのが、その気に入らなさの根源にあるのかも知れません。馬の骨の歴史観などというものは、ま、その程度のものなのでありましょう。何だかあまりスッキリしない気持ちで見学を終え、車に戻ったのでした。もうしばらくは、ここを訪れることはないような気がします。

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今頃の親戚

2009-02-13 11:35:07 | 宵宵妄話

一昨日(2/11)甥の結婚披露パーティがあり、水戸の会場へ出向きました。正月来の水戸行でした。ついでにちょっと足を延ばして、近場の温泉などを訪ね、浸って来ました。この頃は、隙あらば旅に似た振舞いをしようとチャンスを狙っています。

ところで今日はその結婚披露パーティで感じた話です。私の兄弟姉妹は五人で、三人の弟と一人の妹がいるのですが、それぞれ二人ずつ子供が居り、私には四人の甥と四人の姪がいます。今度結婚したのは、妹の長男でした。最近は概して婚期が遅くなり、二十代での結婚は少なくなりつつありますが、結婚した甥は三十代に入ったばかりですから、今時としては遅くはないといったところかも知れません。いずれにしても、母親である妹はホッとしたことでありましょう。

久しぶりにスーツを着てネクタイを締め、洋食のコース料理を楽しみながらの2時間でしたが、いろいろ考えさせられることが多い時間でした。サラリーマンを辞めてからは、ネクタイを締めることのない生活に徹しようと努めて来た所為なのか、やや窮屈な時間でもありました。久しぶりに親族の集る時間でもあり、その関係などについて思いをめぐらしたのでした。

私は伯父にあたるわけですが、今のところまでは伯父としては名ばかりであり、実質は全くの失格者だと思っています。甥が生まれてこの方30年の間に顔を合わせたのはほんの僅かで、親しく話したこともありません。というのも、甥が生まれた頃は遠く四国に住んでおり、滅多に帰郷することもなく、帰郷しても父母の所にちょっと顔を出してとんぼ返りで、甥の家に立ち寄ることも殆どなかったのでした。何しろ四国と九州と合せて12年間も遠くで過ごし、ようやく郷里と近くなったとはいうものの、その後も千葉や川崎などに住んでおり、同じ県内の直ぐに行ける場所でもないため、甥や姪たちのことを考えるまもなく時間が経ってしまったのでした。

今ならば幾らでも時間があり、いろいろ話をすることもできるのですが、名前くらいしか知らない伯父さんと話をするとしても、何だか違和感があるのは当然であり、甥や姪たちから見ればキモイジジイとなってしまうのでありましょう。というわけで、伯父といえば冠婚葬祭の時にだけ会うあの人、ということになってしまっているのだと思います。これはもはやどうすることもできない人間関係なのかもしれません。

考えてみれば、自分たちが育った頃の親族関係と現在のそれとでは、私共以外の世の多くの家族においても、大きく変化しているのではないかと思います。その変化の本質は一言でいえば「限りなき薄弱化」なのではないかと思います。親類という特別の思いが次第に薄く、弱くなりつつあるといえるのではないかと思うのです。その理由というか原因には二つあって、一つは居住地の分散・多様化であり、もう一つは個人主義の蔓延ではないかと思っています。

居住地の分散・多様化は、時間・空間的に人間関係を分断化させる環境を呈することになり、相互の家族の交流が少なくなって弱まることにつながるのは、容易に考えられることです。これを乗り越えるには、よほどの絆の強化が必要であり、そのニーズを強く感じ行動に移す誰かが親族の中に居ないと実現できないことだと思うのです。私共の親族(と言っても僅かに5人の兄弟とその子供10人に係わる関係だけなのですが)では、その様なリーダーが居なかったということでありましょう。本来なら長男である私自身が旗を振らなければならないのかも知れません。しかし故郷を一番遠く離れている者が旗を振るというのは如何なものかという考えが私には常にあって、今日に至ってしまいました。

もう一つの個人主義の蔓延というのは、些かオーバーな感じもしますが、別の言い方をすれば家族主義の崩壊ということかも知れません。私は日本の現在の個人主義のかなりの部分は、社会を無視した幼稚な自己中心主義に過ぎないのではないかと思っています。本質的に人間は誰でも自己中心に生きる存在だと思いますが、本物の個人主義は社会とのかかわりを明確に意識し、その責任と義務を果たすものでなければならないと思います。例えば選挙における投票行動などを見ていると、棄権者の多くは政治につべこべ文句をいいながら、投票したい人がいないから棄権するのだなどと、社会人としての役割を愚弄するような幼稚な理由で責任と義務を放棄しているケースが多いのです。

今の世の中には、老若男女を問わず「関係ない!」という言葉がいたるところに吐いて捨てられていますが、本当のところは「自分とは関係ない」というような現実は極めて少ないのではないかと思うのです。兄弟どころか親子の関係においても、「関係ない」という言葉は時々耳にすることがあり、何故なのか、本当にそうなのか、その真偽を確かめる必要があると思っています。

少し脱線しましたが、元に戻って、この二つの原因が様々に作用して親族間の絆を弱めていることは確かではないかと思うのです。名ばかり伯父、名ばかり甥、名ばかり姪といった関係を少しでも改善するためには、名ばかり兄弟姉妹とならない様にすることから始めなければならないのかなと思いました。甥や姪との関係を思う前に、その親である我々の兄弟姉妹関係をもっと強いものとしなければならないのではないかと、思った次第です。一番下の弟を除いては、もう皆それぞれに現役をリタイアしている状況にあり、時間を持て余すことが多くなるこれからですから、時々は集って兄弟関係の修復(?)を図ることも大切なのではないかと思ったのでした。そうすることが甥や姪たちとの関係をもっと良いものにする上で役立つのではないかと思った次第です。

 

話はこれで終りなのですが、ついでにもう少し脱線して甥を元気づけたいと思います。この甥は、私の高校の後輩なのです。我が高校は創立130年を迎える県下の名門(?)校であり、多くの人材を輩出していますが、私のような単なる馬の骨も中には居るわけで、甥には馬の骨にはなって欲しくないなと思っています。

広辞苑を引くと、甥の先祖の名前が出てきます。会沢正志斎というのがその名前です。辞書の用語は簡略体で書かれていますが、本当は「會澤正志齋」と書くのが正しいのだと思いますが、辞書の用字でまあ良しとしましょう。会沢正志斎とはどのような人物だったのかといえば、幕末近くの様々な騒乱に関心がある人ならば、どこかで耳にした筈ですし、儒学に関心のある人ならより身近にその人となりをご存知かも知れません。幕末の水戸の思想家といえば、先ず第一に藤田東湖が有名ですが、会沢正志斎はその東湖の父親の藤田幽谷に学んだ俊才です。幕末の尊皇攘夷思想は、結果として敗北したわけですが、維新のエネルギーとしては強大なものがあったと思います。そのエネルギーの根源となる思想の提唱者の一人として、会沢正志斎の果たした役割は大きかったと思います。往時の水戸藩の動向については、私のこれからの知る楽しみの一つであり、今からそのことをここに書いたりするのは止めることにします。

 甥は、若しかしたらこのことを知らないのかも知れません。或いは知っていても軽く考えているのかも知れません。何しろ私の妹は、その様なことには無関心だし、その旦那も妹の尻に敷かれて、倅に説教一つもしない男なので、きちんと伝えていない可能性があります。それはある意味で奥ゆかしいということなのかもしれませんが、私としては甥の自覚と奮起を促す意味においても、ご先祖様の人となりとこの国の歴史に果たした事績をしっかり理解しておいて欲しいと思うのです。「関係ねえ!」なんぞという言葉を吐いたりしたら、先輩としては打()っ飛ばしものです。

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早春の野草とその花言葉

2009-02-11 00:19:08 | 宵宵妄話

今年はもう2度も南房総を訪れて花を楽しませて貰ったのですが、私のもう一つの関心事である、野草についても紹介したいと思います。ここ1週間ばかりの間に見かけた野草たちの早春の花の様子を、私が勝手につけた花言葉とあわせてご覧下さい。

<ハマダイコン(浜大根)>(アブラナ科)

 花言葉昔乙女の心意気 (馬骨命名)

  

1月末に南房総を訪ねた時、忘れられた道端にゴミと混ざって咲いていました。大根の別名はすずしろで、春の七草の一つですが、畑の大根が花を咲かせているのを見るのは少ないと思います。ハマダイコンは浜大根であり、これは大根が野に逃げて野生化したものなのだそうです。しかし、大根の側から言えば、元のふるさとでの生き方に戻ったということであり、こちらの方が本物の姿ということなんだということなのかも知れません。逞しい葉の間から堅い芯を延ばした枝に咲いた花は、それなりの気品があり、思わず見とれてしまうのでした。

 

<ナズナ(薺)>(アブラナ科)

花言葉執念。すがりついても諦めない (馬骨命名)

  

ナズナは一年中何処にでも逞しく咲いている代表的な野草の一つです。春の七草の一つですが、正月の頃に、日溜まりに花を咲かせているのを偶に見ることがあります。ぺんぺん草は別名ですが、その昔は田舎の古びた麦わら屋根にも生えていたものでした。どうってこともない、あまり可愛げのない野草のように見えますが、どうしてどうして、虫眼鏡でのぞいて見ますと可愛らしい小さな花がちんまりとこちらを見ているのです。

 

<オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)>(ゴマノハグサ科)

花言葉目覚め。躍動  (馬骨命名)

  

早春の野草を代表する花といえば、真っ先に小さな楚々たる青い色の花をつけて、野に点在するこの草のそれなのではないでしょうか。条件のいい場所では、新年を迎える前に既に花を咲かせているものがあります。それにしても何と言う命名なのでしょうか。犬のフグリとは!しかし、花が咲き終わった後に結ばれた実を見ると、これが実に犬のそれにそっくりなのです。でもその呼び名は、この花のイメージにそわず可愛そうなので、私は勝手に「春告草(はるつげぐさ)」と呼ぶことにしています。

 

<ホトケノザ(仏の座)>(シソ科)

花言葉:濃艶な恋。色仕掛け  (馬骨命名)

   

ホトケノザという野草には2種類があって、この二つは全く別のものなのですが、春の七草のホトケノザは別名タビラコと呼ばれており、この写真とは別のものなのです。写真のホトケノザは、早春の花としては鮮やかな色をしており、日溜まりの中では群れをなしてその色彩をアピールしている感じがします。この花は唇状花と呼ばれる花の形をしており、それは人間の唇に似た形をしているという特徴があります。艶やかな赤紫の花は、春の花の中では一際目を引く姿ですが、それは楚々たる乙女の姿というよりも、より人生の労苦を知った女性を思わせるものがあります。色仕掛けとは少し行き過ぎた言い方かもしれませんが、少しはそのような風情を持っている花のような気がします。

 

<タンポポ(蒲公英)>(キク科)

花言葉:黄色(きないろ)の夢  (馬骨命名)

  

どこにでもある花ですが、早春のタンポポは日溜まりにしか花を咲かせないようです。寒さに耐えて花を咲かせるには、茎を伸ばすわけにはゆかず、僅かに5ミリほどで花を咲かせるという離れ業をやっているのがわかります。どうしてそんなに急いで花を咲かせなければならないのか解せないのですが、何か個体ごとに事情があるのかもしれません。欲張り者の夢は黄金に輝くのが相応しいのだと思いますが、タンポポの夢は黄色のレベルでいつも満足しているようです。黄色をきないろと呼んだのは、少しばかり昔に住んでいた福岡のタンポポを思い出したからでした。

 

<ハルノノゲシ(春の野芥子)>(キク科)

花言葉:柔らかな風刺(ふうし)  (馬骨命名)

   

ノゲシという野草には、春咲きと秋咲きの二種類があるようですが、本当は一種類の花が環境状況に応じて春と秋に花を咲かせているのかもしれません。とにかくチャンスがあれば空かさず花を咲かせようという意欲が旺盛な野草なのかも知れません。写真は、2月の初めの守谷の田んぼ脇の土手に強引に花を咲かせようとしている姿です。ノゲシには、葉にアザミに似た棘(とげ)があるのですが、手で触れても痛いというほどのものではなく、ちょいと脅しのしぐさをしている感じがします。黄色い花も余り美人の風情があるわけでもなく、やや斜めの構えから、世の中を苦い笑いで見透かしている感じがするのです。

 

<ハルジオン(春紫苑)>(キク科)

 花言葉:ありふれた乙女心  (馬骨命名)

  

この花は、本当はもっと春の色が濃くなってから、日本国の至る所で見られる花であり、雑草の代表的な存在です。アメリカ原産の帰化植物ですが、一番初めはその美しさを愛でようと、どなたかがわが国に持ち込んだのが野に逃げ出して、現在のように空き地や野原を席捲(せっけん)するに至ったということのようです。時にびっくりするほど美しいものを見かけることがありますが、あまりにもたくさんあるので、些か可愛さも食傷気味となってしまうのです。よく似た花にヒメジオンがありますが、その違いは咲き始めた花の茎がハルジオンはうなだれてしおらしさがあるのに対して、ヒメジオンは逞しさだけの色気の薄い花なのです。早春のこの時期のハルジオンは、滅多に花を咲かすことはないのですが、時には早とちりのものがこの世界にもあって、それは他の生き物と共通しているようです。

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浮世風呂:地球温暖化の話

2009-02-10 00:06:27 | 宵宵妄話

日本人というのは、世界の中でもかなりの風呂好き、温泉好きの民族なのではないかと思います。勿論私も家内もその中の一人ですが、日本人の風呂好きは、単にお湯が好きというだけではなく、風呂場の持つ雰囲気やそこに集う人たちの様子や話を目に、耳にすることへの関心にもあるような気がします。私なんぞは、どうもそちらの方が楽しみになってきている嫌いがあるようです。これは我が郷土、茨城県のど田舎に最近出来た温泉施設でのご老人の会話です。

「おう、来たんが。遅がったな」

「ヤアどうも、あれ、はあまあ、早ぐ来てたんだねえ」

「うんにゃあ、俺らも今方(いまがだ)来て入ったばがりなんだ」

「そうげえ。んだけど随分いい色してんじゃねえの」

「露天風呂だもんで、お湯の温度が熱いんじゃないげ」

「んだがあ、そうだっぺねえ」

「今年(こどし)も雪なんが降んねえな。暖(あった)げーのは、はー、温泉だげじゃあんめーよ」

「んだなー。もうこごら辺では雪なんか見れなぐなっちゃったんかねえ」

「何ちゅうたって、地球温暖化だもんな」

「んだな。北極の氷がドガン、ドガン崩れ落っこってんだもんなあ」

「昔はよう、今頃は毎日西風が吹いて寒がったもんな。んだけど、今頃はそんな日は少なくなっちゃったなや」

「んだねえ。西風の寒い日は、裏日本じゃあ大雪だって、ニュースで騒いでいだもんな」

「この頃は富山でも雪が少なくなったって言ってだど」

「誰が富山に知り合いでもいんのげ?」

「んにゃ、いねえけど、この間用があって久しぶりに富山さ行った人が、雪が少ないのにたまげだって言ってだんだ」

「そうげえ、やっぱり温暖化っちゅうのは、確実に進んでいんのがなあ」

「んだなあ、このままで行ぐど、これがら先変なごどがいろいろ起ごって来んのかもしんねえな」

「海面が何メートルも上昇したら、この辺りまで海が迫ってくるなってことになんのがなあ」

「まさが、そこまではなんねえべよ。そうなったら、世界中がとんでもねえごどになっちゃうべよ」

「海の中に沈んじゃう国も出で来んだっぺねえ」

「そうがも知んねえな」

「何時頃になんのがなあ。そんなに遠い先でもねえように思うけどな」

「んだなあ、孫かその子供の頃辺りには、かなり危なくなって来んじゃねえかな」

「どっちにしても、そのときまで俺らたちは、はあ、生きてはいんめえから、わがんねえよな」

「んだあ。だげどよ、冬にはせめて一回くらいは雪を見てみてえもんだな」

「んだなあ」

5分ほどの大声での会話でありましたが、地球温暖化の危機感はこのような身近な話題として取り上げられるようになってきており、ご老人(斯く言う私も、入浴料割引の対象となる老人でありますが)の心配はもはや杞憂とはいえないレベルに達しつつある感じがしたのでありました。

一説では、北極の氷山の瓦解などは地球温暖化の証ではなく、TVのやらせ的番組作りの所為で、実際は北極も南極も却って寒くなっているのだ、などという説を唱える人もいるようです。本当のところは我々庶民には解りませんが、何処へ行っても最近は冬が暖かくなっているというのは実感する現実です。

何時の世も、浮世風呂の中には、その時代を生きる人たちの本物の声が、湯気の中に漂っているような気がしたのでした。

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労働力の商品化

2009-02-09 00:22:16 | 宵宵妄話

少し難しい話をしたい。今頃は派遣切りだとか期間労働者の契約打ち切りだとか、労働者の馘首(かくしゅ=くびきり)問題が大きな社会問題として取り上げられている。つい先日まで仕事を失うことなど真面目に考えたこともなかったのに、あっという間に一転して突然それが現実となってしまった、そのような人たちが巷に溢れている姿が様々なニュースとなってTVや新聞紙面を賑わせている。

人が働くというのは、一体どういうことなのだろうか。労働にはどのような意味があるのだろうか?働く人と働かせる人との考え方は一致しているのであろうか。それともズレているのだろうか。思うに、今の世では(何時の世もそうであったのかも知れぬが)、働く者と働かせる者との間には、大きなギャップが横たわっているような気がしてならない。

 

話は変るけど、私は経理屋というのが好きでない。サラリーマンになった時、経理部門にだけは配属されないように願っていた。実際にはもっと嫌っていた教育などというとんでもない邪道()の部署に配属されて、入社後しばらくは退職の機会を狙うという体たらくだった。しかし、本質的には経理の思想からは遠く離れた仕事だったので、教育という仕事に対する不満もいつか薄れて、気づけばやり甲斐へとつながって行ったのだった。

ま、そのようなことはどうでもいいのだが、何故経理が嫌いかというと、己は何も生産しない癖して、現場の成果に対してつべこべとコメントをして、恰も自分がやればもっと成果が出るのだと言わんばかりの立ち居振る舞いをするからである。相手の負の部分にばかりより多くスポットを当てて、その非を責めるが如き行為を主とするような業務内容は、私にとっては耐え難い苦痛でしかない。経理業務というものの本質には、人間という視点が殆んど入っていないようだ。働く人間などという視点を入れたなら、バランスシートも損益計算も歪(ゆが)んでしまってどうにもならなくなってしまうという考え方が根底にあるからなのかも知れない。社員は単なる労働力という名のコストに過ぎず、その数値は経営の要不要に従って自在にコントロールすべきものと考えるのが当然という発想なのである。小さな企業においては、私のこのような見解の方が異常であって、むしろ経理のあり方こそが給料を保証してくれる源泉となるということなのかもしれないが、組織が大きくなるにつれて、分化し、特化した業務は他部門や一人ひとりの働くものに対して容赦しない非情さに慣れてしまうのである。

一方で経理業務が、経営の成果の実体を把握し、何処に手を打つべき課題があるかを見出す上で、不可欠の役割を担っていることはよくよく承知してはいるのだけれど、私にはやっぱり虫の好かない仕事なのであった。そのような非情な業務に就かなかったのは、幸いであったという他ない。

さて、再び話は元に戻って、今日の未曾有の不況をもたらしたものが何なのか、その不況の煽(あお)りを喰って生み出される失業者の根源が何なのかについて考えてみたい。

数日前(2/2の朝日新聞に、「市場経済とは、働くとは」というテーマで、西部邁氏と東大教授で政治学者の苅部氏との対談(クロストーク)が記載されていた。西部氏といえば、私たちとは同世代の経済学者であり思想家である。何回かその講演を聴く機会もあって、なかなかの人物だと評価している。その尊敬の念は今も変らないけど、この時期になって、彼の経済に対する思想というか、哲学が取り上げられたのは真に当を得ていると思った。

アメリカ経済の金融破綻は、合理主義に走りすぎて、人間が何であるかを忘れていたことにあるのではないかと思うのだが、西部氏は対談の冒頭で「労働力の商品化」ということについて話しておられ、労働力を含めて全てが商品化されるという発想に疑問を持っていたというようなことを述べられていた。それは本来労働力というものは、人間という本質的なものを含んでいるのであり、安易に商品化されるという考え方には馴染まないという考え方でもある。これは、人間の世の中が人間という生き物によって作られていることを思えば、極めて当たり前の、それゆえに重要な基本認識だと思う。経済があって人間があるのではなく、人間があって経済があるのである。何でも数値化してそれを使って予測や確率の計算に巻き込むという考え方は、合理的ではあってもどこかに本質的な過誤を内包する危険があるのだと思う。それに気づかなかったのか、無視したのか知らないけど、今回のアメリカ発の世界不況は、計算可能であれば何でも商品化して実体経済も動くのだという、愚かな発想がもたらした歪(ひずみ)の表れではないかと思う。

経理屋が好きでないと書いたのは、彼らの数値的発想の世界が行過ぎると、実体経済を無視してとんでもないインチキな詐欺まがいの経済が出現するにつながるということを言いたかったからである。アメリカの失敗は、実体経済を無視して予測だの確立だのと、本当はそれらに必要な様々な条件が満たされていないのに、今までのごまかしが何時までも通ずるという過信のもたらした大失態なのではないか。そしてこれらの発想は、経理屋の考え方の延長線にあったことは間違いない。何でも数値化して、人間ですらも商品化して扱えるという考え方は、企業経営の方法論からは外すべきではないか。そう思うのである。

これからの世の中には、そのような人間という存在を含めた経済哲学というか、経営哲学といったものがより強調されなければならないのではないか。あまりにも合理主義に走り、損得にこだわるという考え方は、もういい加減にしなければならないのだと思う。

冒頭の社会問題となっている派遣労働や期間労働の馘首問題も、労働力の商品化を是とする発想から生まれた契約行為の結果からもたらされたものに違いない。それは労働力を必要とする側にとって、真に都合の良い考え方であり、ツールであった。また、労働力を提供する側としても、自分自身の雇用が脅かされないという条件下においては、それなりのメリットがあったのだと思う。そして契約の文言など大して気にもせずに、まさか己の労働力を商品として雇用者に売っているなどとは思わなかったに違いない。労働力だけではなく、自分自身を丸ごと雇用してくれているものだと考えたに違いない。名は期間労働や派遣労働であっても、ちゃんと宿泊施設まで用意してくれているのだから、私という人間を雇用してくれていると信じたのに違いない。しかしその安心の元となる条件が消えてしまったのである。

一方雇用側においては、丸ごと人間を雇用したのではなく、その人の持つ労働力だけを買い上げたのである。しかも元々期限付きなのだ。経済(経営)状況が安定していれば、何度でも契約の更新を続ければいいのだが、悪化すれば不要な商品は始末して在庫をきれいにする必要があるのである。そのことは契約書に明記して念を押したはずである。契約社会においては、公序良俗に反しない限り契約は有効である。ましてこの労働契約は、何とか構造改革騒ぎの中で、規制緩和の一環として国までもが認めてしまっているのである。何ら非を責められる筋合いではない。それどころか契約の範囲を大きく譲り超えて様々な支援行為をしているのに……、というのが雇用側の言い分であろう。

この問題は、到底今すぐ解決できるものではない。思い知らなければならないのは、労働力の商品化などという発想には様々な規制をかける必要があるということであろう。私は西部氏の受け売りをする考えはないけど、経済活動の中で人間そのものが商品化の対象となるような領域・部分については慎重な規制を行なう必要があると思う。そのような経済(経営)哲学をもっともっと重視すべきと思う。人間に本当に必要なのは、経済活動のツールの利便性などではなく、人間が生きるために安全かどうかという基本的な欲求が守られるということではないか。そしてそのためには、経済活動の中に、人間についての深い洞察を組み入れた哲学を取り込むことが必要なのではないかと思う。

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車は何故売れないの?

2009-02-08 00:28:07 | 宵宵妄話

このところの自動車産業の不況ぶりは、決算期を控えて、真に厳しく深刻な経済危機を予感させるものがあります。以下に老人二人の対話を載せます。

 

「今日のニュースでは、トヨタが今期の収益予想を更に引き下げて、赤字に転落するという見通し報告をしていたけど、これからどうなっちゃうのだろうね?」

「いヤア、どうもこうもないよ。恐らく実際はその赤字幅はもっと膨らむのじゃないの」

「どうしてこのようになっちやったんだろうねえ」

「それはあれじゃないの、やっぱり金融不況が引き金になって、金詰まりで車を買う人が激減したからじゃないのか」

「トヨタはせっかく世界一になったばかりだというのに、このままじゃ、世界一の赤字企業になっちゃうのかなあ」

「ま、そんなことも無いと思うけど、規模が大きいだけに収益の幅も大きくなるのはしょうがないだろうねえ」

「ところでさ、金融不況だけの問題なのかなあ」

「というと、何か他に原因でもあるというの?」

「いやあ、よく解んないけど、何だかもう世の中にこれ以上車は必要ないという現象が、この不況を通して出てきているんじゃないかなあ」

「どうしてそんなことが言えるの?」

「思うんだけど、俺たちは知らず知らずに無理をして新車を買わされ続けていたんじゃないのかな。4、5年乗ったら新車に替えるのが当たり前のように思っている人がかなり多く居たんだと思うよ。それがこの不況で、金がないので無理を控えたということなのだと思うけど、もしかしたら買い替えの意味の無さに気づき始めたようにも思えるんだよ」

「なるほどねえ、ということは、景気が回復してもそう簡単には新車の需要が増えないということかね。」

「いや、人間の欲望には限界がないと思うから、お金が保証されるようになれば新車の需要は回復するのだと思うけど、その度合いがかなり減るのじゃないかな」

「新車の魅力にはなかなか勝てないということなのかね」

「うん、これはどうにもならないと思うけど、しかしこの不況を経験して、車に対する考え方はかなり変るんじゃないかな。例えば買い替えのタイミングは確実に遅れる方にズレると思うし、車に対する選択眼もスタイルなどのカッコ良さよりも燃費が良いとか維持費が安いとか言う点が一層重視されるようになるんじゃないかな」

「そうね、それは確かに言えるんじゃないかな」

「ところでさ、もっと本質的なことも考える必要があるんじゃないかなあ」

「それって、どういうことなの?」

「あのね、前から疑問に感じているのだけど、人類には一体何台の車が必要なのだろうねえ。今世界中にどれほどの台数の車が走っているのか知らないけど、今のペースで造り続けて行くとしたら、買い替え需要分を除いて、どれほどのニーズがあるのか知りたいものだね。もうそれほどのニーズは無くなって来ているのではないのかなあ」

「日本のメーカーだけでも年間1千万台以上の車を造っているのだから、全世界ではその倍以上の車が作られている筈だし、過去10年分を合算すれば、全くのアバウトでも4億台くらいは造られているんじゃないかな。だとすれば世界の総人口が65億として、もう既に十数人に1台くらいは行き渡っている計算となるし、実際は車など不要とする人たちもいるだろうから、より以上に車は行き渡っている計算となるように思うよ」

「そうだろう。もう買い替え需要は別として、それほど車が必要ではないんじゃないかな。

「だけど一人で複数の車を持ちたがる奴もいるからなあ」

「確かにそうだけど、絶対数としてはそれほど大きな割合を占めてはいないのじゃないかな」

「確かに車は多すぎるような気がするなあ。しかしさ、造る側から見れば、今度の不況のとばっちりを受けて、特に下請け企業などは大変なことだろうねえ」

「そうだね、自動車産業の裾野は広いから、俺たちの想像もつかないような世界で、とんでもない出来事が起こっているのだろうね。今年の決算期には、予想もしなかったような大事件が多発するかも知れないね。」

「この不況を乗り切る決め手となるような方策はないのだろうかねえ」

「日本のメーカーも皆世界各地で車を造っているのだから、世界同時不況という状況では、特効薬は見出せないのじゃないかな。とにかくじっと我慢するしか道はないのじゃないかと思うよ」

「じっと我慢か。それだけかなあ」

「強いて言うならば、この不況体験から、もはや車のニーズは大きく変わって来ており、従来のパターンでは経営があっという間に行き詰るという危機を内包していることを、メーカーサイドは強く認識した新しい経営のあり方に取り組むべきではないかなあ。何だか偉そうな無責任な言い方だけど。」

「要するに、車は、いつでもアッという間に売れなくなるという時代に入っていること、を強く認識した取り組みが必要だということかな」

「うん、そうだよ。もしトヨタがひっくり返ったりしたら、廻りまわって、俺たちの年金もどうなるかわからなくなってしまうからなあ、……。」

 

老人の対話はこの後も右往左往しながら続くのでありました。

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