山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ニワトコの変身術に思う

2009-02-28 00:26:23 | 宵宵妄話

昨日(2/26)も終日曇り空で、時々小雨が降る寒い天気でしたが、夕方から今朝にかけてその寒さは益々強さを増して、この分じゃ、もしかしたら雪になるかも?などと思っていたら、10時過ぎから本当に雪が降り出しました。今年初めての雪らしい雪が舞い落ちてきて、2時間もすると、我が家の庭はうっすらと白くなりました。

   

 今朝の我が家の庭先の様子。梅の花が咲いているばかりで、そのほかの樹木たちは真に頼りない姿をしている。

 北国では、雪など珍しくもないと思いますが、この守谷の地は茨城県といっても、歴史的にも地形的にも千葉県に近く、比較的温暖な土地なのです。この地では、雪というのは、必ずしも寒いとされている1月などに降ることよりも、もう直ぐ暖かくなる時節や、もう春だななどと実感できるような時に降ることが多いようです。

 

今日は、その雪の話題ではなくニワトコという植物の話です。今朝、朝日新聞の科学欄に「ニワトコが『変身術』」という記事があり、それが目に入りました。それによりますと、ニワトコは暗い所では草の姿をし、明るい所では落葉樹の姿に変るという話でした。森林総合研究所などのグループが、野外調査とモデル計算で明らかにしたということです。

そのようなことはどうでもいいと、気にもしない人が殆んどなのではないかと思いますが、糖尿病の運動療法としての歩きを始めてから、野草や樹木に関心を抱いている私としては、真(まこと)に見逃すことの出来ない興味津々(きょうみしんしん)の情報なのです。

ニワトコのことは、家内が以前ボランティア活動で、古民家のメンテナンスやガイドをしていたとき、わが国の民族文化に触れることが多くなって、この木を使って魔よけなどの祭祀用の飾りを作るというような話を、やや強制的に聞かされたことがあり、どのような木なのだろうかと探したことがあって、それが意外と身近な所に生き残っていることを知ったのでした。ニワトコは畑の隅や山際の藪のような日当たりの良い場所で育っている姿を見ることが多く、そのような場所が好きなのだと思っていました。実を啄(つい)ばんだ小鳥たちのせいで、日当たりが良くない場所に生えてしまうことも当然あるわけですが、そのような場合はどうなるのかについては考えたこともありませんでした。それが、なんと草の姿をしてじっと我慢して、やがてチャンス到来の暁(あかつき)には樹木に変身するというのですから、これには驚かずにはいられません。 

   

ニワトコの姿。少し黄色っぽくなっているが、実際は白い花序が幾つもついている。これは草ではなく、かなりいい条件で生育している姿である。

念のために少し辞典などで調べてみました。何と和名は、漢字で「接骨木」と書くのです。これはどういうことかと調べましたら、その昔は骨折した場合に、この木の枝を黒焼きにしてうどん粉などに食酢を入れて練り合わせたものを患部に厚く塗って、添え木を当てて押さえておくという治療法がとられており、骨折した骨をつなぐということからこの名が付けられたということでした。ニワトコには、この他にも漢方では、花序(小さな花がたくさん集まっている部分)を乾燥させて利尿剤などとして使うということですから、人間や動物にとってはたいへんありがたい樹木なのだと思います。

少し余談になりますが、北海道の旅で、日高エリアの平取町、二風谷(にぶたに)の萱野茂アイヌ資料館を訪ねた時、家内が、「あっ、ここにもニワトコで作った魔除けがあるわ!」と声を出したのを覚えています。アイヌ民族でも、ニワトコは魔よけの御幣(ごへい)として使われていたようです。ニワトコの木は乾燥させると軽く、加工しやすいので小刀で削って御幣状のものを作りやすいのかもしれません。ニワトコは、日本民族とアイヌ民族に共通する文化の中で活用されていた樹木だったということなのでしょう。

さて、その変身術の話ですが、これは言い方を代えれば環境適応ということになるのだと思います。ニワトコにはソクズ(別名クサニワトコ)という本物の野草がありますので、今回の記事はそれとの混同ではないかと思ったのですが、研究所の専門家がモデル計算(どういう計算をされるのか興味津々です)をして確認されているのですから、そのような誤りをされるはずも無いと思ったのでした。

草という姿と樹木という姿の使い分けは、凄いなあと思いました。姿を大型にしたり、超小型にしたりして、環境に必死に適応しようとしている野草の姿を見ることは珍しくありません。今頃土手などに咲くタンポポは、茎の部分を殆んど伸ばさないままに花を咲かせていますし、ノゲシだってハルジオンだって、冬に咲かせる花は皆茎が短く小さい状態です。これらが本格的な春を迎え、初夏ともなると一斉にのびのびと大きな花を咲かせているのが判ります。

しかし、草が樹木になるというのは知りませんでした。まさにこれは本格的な変身だと思います。よく考えてみると、草と樹木の違いというのは、一体何が決定的なのでしょうか。これは結構難しいようで、植物学的には、草も木も同じということのようです。専門的には草のことを草本、木のことを木本というようですが、木本の方は二次肥大というものを行なって木部を形成するのに対して、草本の方は二次肥大をしないというのが特徴のようです。しかし、竹などは二次肥大をしないままに成長を続けて生きながらえて(=年輪を作らずに)いますが、これを草というのには違和感があります。ま、そのような理屈は措くとして、ニワトコによらず、植物にはもしかしたら自在の環境適応力があるのかも知れません。進退窮(きわ)まったいざという時以外は、一番生き易い姿で立っているのかもしれません。

動物以外の生物でも環境適応というのは、生存のための最大のテーマですから、その意味ではニワトコというのは、かなり繊細な植物といえるのかも知れません。

このような植物の不思議な能力を垣間見るとき、我々人間の場合はどうなのだろうかと思いをめぐらします。環境適応というのは本能の発揮するものなのだと考えると、人間の動物としての環境適応能力は、文明の発達と共に低下し、劣化しているような気がします。もし世界中が一挙に大飢饉になって、日本国には一木一草の実も輸入されないとなったら、多くの日本人が餓死するという悲惨な事態が現出するに違いありませんが、そのときに家の近くの道端に、生命をつなぐ野草があったとしても、今の日本人ではそれを食べるという知恵も勇気もなくなっているような気がします。為す術(すべ)も無く環境の悪化に晒(さら)されてあの世行きとなるに違いありません。ニワトコのような用意周到な環境適応の本能が働くとは思えません。ま、そのような悪質の妄想はしない方が、今の世では安全なのかも知れません。

3月が近づいていて、世情が更に厳しく悲劇的になるのが心配です。百年来の未曾有の不況の本番を迎えるのは年度末です。大騒ぎをしながら、政治の混乱は相変わらず国民大衆意を置き去りにして迷走を続けているようですが、決算期には環境適応の出来なかった企業が、その生命を絶たれるという悲劇が多発しないかと心配です。生きているものは全て、身を置くその環境に適応しなければならないという自然界の摂理は、人間の営みが作り出している経済環境においても全く同じように当てはまるものであり、その試練の決定的なときが間もなくやって来るのです。この際、ニワトコの変身術に学ぶことが幾つかあるのではないでしょうか。もう時遅しなのかも知れませんが、……。

コメント
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