山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

異常気象

2008-08-31 06:06:37 | くるま旅くらしの話

最近は荒天ということばを使うことが多くなった。本当は荒天ではなく、好天や好転ということばを多用したいのだが、そのチャンスが次第に少なくなってきている世の中のように思えてならない。

連日とんでもない雨降りが続いていて、歩きの必要な人間には、全く以って迷惑千万な毎日である。雨降りには傘をさして歩けば良いだけの話で、それは一向苦にならないのだけど、ここ数日の荒天は、傘をさすのもムダというような性質(たち)の悪い天気なのである。強すぎる雨の降り方だけではなく、雷の稲妻や轟きがくっついてくるというのだから、肝を冷やして歩くことも出来ない。

荒天のことを異常気象というのであろう。異常気象がこの頃はあまりにも多すぎる。くるま旅にとって、気象というのは大切な要件である。安全と安心の最大の前提条件となるからである。それがこの頃は次第に悪化しているのを実感している。

例えば北海道に梅雨はないといわれているが、今はそのようなことはない。梅雨入りも梅雨明けもない、ダラダラとした雨期が7月の北海道には定着していて、旅くらしを寒く暗くしている。又梅雨とは別に、北海道には頻繁に台風が到来するようになった。その所為か、嵐が去った後の倒木が多い。北海道が、北の大地などと呼ばれる時は力強いイメージが浮かぶが、その実の大地といえば、樹木たちには決して条件の良い肥沃な土地などではなく、痩せた荒地に懸命に根を張らなければならない厳しい条件の所なのである。雪の重みには耐えられても、予想だにしなかった回り狂った横風を受けて、根こそぎに倒れた蝦夷松や椴(とど)松を見ると、哀しい思いに捉われずにはいられない。

異常気象というのは不気味だ。この世の終わりを予感させるものがある。科学的ではないが、何でも科学的に解決できるなどと思い上がっている人間の知恵などもう限界に来ているのではないか。人間の知恵というのは、欲望の範囲でしか働かないものに過ぎないのではないかと思う。あれをしたい、これもしたいという欲望の充足のために、人間は今まで、バカげた恐るべき知恵を発達させてきたが、その限界が見えてきたのではないか。科学というのは、負の部分とのバランスで成り立っているように思うが、人間は負の部分を無視し切り捨てて、利得の部分だけを貪ってきた嫌いがある。その置き去りにしてきたものが、ここへきて急速に力をつけてきたということではないか。異常気象はその表れに過ぎないのではないかと思う。

それにしてもこの頃の天気の異常振りは際立っている。1時間に150ミリ近くの雨が降るなんて、想像もつかない。天気予報のキャスターは、もっともらしく気圧配置や雲の動きを解説して、気をつけろと言ってくれているけど、どう気をつけて良いのか見当もつかないというのが、雨に見舞われている現地・現場の人たちの気持ちであろう。この誰にも止められない異常気象という現象に、我々はどう向かい合えば良いのだろうか。

異常現象の根源に偏西風のコースの変動があるという。一体何がどうなって、そのような変動が起こるのであろうか。科学者はその謎を懸命に解こうとしているのだと思うが、諧謔(かいぎゃく)的には幾つもの回答があるように思う。例えば、変動の要因の一つとして北京オリンピックがあるのではないか。大した平和の祭典でもなくなってしまったオリンピックがもたらした、北京で費やされたエネルギーの負の部分が、偏西風を狂わせたと考えるのは、意外と核心を突いているのではないか。

中国やインドに暮らす人たちの欲望が膨らむほどに、それに費やされるエネルギーの負の部分は、これから益々偏西風を変動させ、地球を温めてゆくに違いない。しかしどこにも、だれにもそれを止める資格も力もない。つまりは、地球というのは、人間という生き物が、懸命にその欲望を満たそうと努めれば努めるほど、地球の生命をすり減らす存在なのではないかと思う。

現在、いわゆる後進国とか開発途上国などと呼ばれる国が、全て豊かになった時、この地球は人間を養うという使命を終えるのではないか。異常気象というのは、その終りが近づいていることを知らせるシグナルの一つではないかと思う。しかし、貧しい国が豊かになってはならないなどというルールは誰にも作れないし、守れるものでもない。人間の欲望を押さえるということは、神様にだって出来ない話だからである。

暗い気分でこのようなことを書いている間も、雷鳴は轟き、雨は降り続いている。全く気が滅入る毎日である。

コメント
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