山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

企業内職場OB会に出る

2008-08-30 06:50:43 | くるま旅くらしの話

 昨日は久しぶりに江戸の街中へ出かけて戻ってきた。以前勤めていた会社の40年ほど前の小さな職場のOB会があって、それに珍しくも出席したのだった。偶々我々夫婦は、その職場の仲間だったことから、家内も一緒の出席となった。言うて見れば、40年前のある種の恥を晒しに行くようなもので、それほど積極的に出かけたいとは思わないのだけど、まあ、人間40年も経てば、恥などものともしない厚顔の出来上がりとなって、時には昔を穿(ほじく)り出す集まりに出てみようかと思った次第である。

 会社を辞めたとき以来、ネクタイをつけての暮らしは冠婚葬祭のやむを得ない時以外は一切していない。自立してから(定年前に会社を辞め、その後コンサルティングの仕事を5年間ほどした)も、ネクタイをつけて仕事をしたことはないというのが自分の服装のスタイルで、最近はGパンとTシャツが公私を問わずの基本着衣となっている。それなのに、昔のサラリーマンの職場の連中に会いに行くのだからと、4年前引退した時まで来ていた一張羅の服装をして(勿論ネクタイなどはしないで)出かけたのだった。

 40年前の職場というのは、その会社の企業内教育を担当する小さな係が誕生した、その草創期のメンバーの集まりなのである。往時、入社間もない自分は、教育係というのに配属されてしまって、教師というのが嫌いで、教員の免状もあえて取らなかったのに、何でこんな仕事をやらされるのかと、転職のことも視野に入れての毎日だったのを覚えている。その後結局は企業内教育コンサルタントにまで成り下がってしまったのだから、人生というのは訳がわからない。

 その当時の会社は、従業員が2千人足らずの小さなものだったが、教育には力を入れ、現場の仕事をする核となる人材を、技能訓練生と称して、中学卒業生を2年間で工業高校卒並みのレベルに育成するということをやっていたのだった。したがって教育係は事務系ばかりでなく現場(技術)指導員も必要としており、結構な大所帯だったのである。昨日戴いた名簿では、25名の名前が書かれていた。往時の技能訓練生は、最大時1、2年生を合わせて300名近い人数だったと思う。この人たちを丸抱えの全寮制で面倒見るのだから、毎日が想定外の出来事に満たされていたのは言うまでも無い。それ故、指導員が本気で汗を流さないとうまくゆく筈が無く、自ずと職場の結束力は高まったのだと思う。いわば一企業の中では特殊な職場だったのだ。

 25名の中には、現在札幌や富山などの遠地に住まわれている方も居り、又事情で出席できなかった方もあって、出席者は17名だったが、この種の集まりとしてはかなりの出席率だったと思う。もはや殆どが現役を離れ第2、第3の人生ステージを歩んでおられる。ボランティアや趣味に忙しい毎日を送っておられる方もいて、各人の近況報告は変化に富んでいた。特に女性陣は40年ぶりにご尊顔を拝した方なども居て、なんだか珍しい感じがしたのは、40年も毎日同じ人の顔を見て来ていたからなのかも知れない。

 私は少し根性がねじれていると自認しているが、この種の集まりに参加するのが好きではない。特に会社の中の入社同期会とか全体的なOB会などというのは、うっかりすると人間を堕落させる集まりだと思っている。同じ組織に属した者が集まって、ただ昔の懐かしさだの面白くなかったことだのをうじゃうじゃ言いながら飲み食いするだけの集まりなど真っ平ごめんだと思っている。

 サラリーマンをやめたら、スパッと一切の怨念や柵(しがらみ)を外し、切ることが必要ではないか。何時までも過去を懐かしがっていたのでは、新しい世界は開けて来ないのではないか。特に辞めて間もない時ほどそれは大切なことのように思う。定年を過ぎても会社にぶら下がりたいのは、安全や安心を求める人間としての欲求なのだとは思うけど、新しい世界はやっては来ない。ま、何もそれほど肩に力を入れて言うほどのことではないけど、そう思っている。

 今回の集まりは、その意味では少し違っているのかなと思った。40年も経てば、お互い顔ぐらいは見たいものだ。会社の匂いや化粧のとれた素顔を覗いてみたいものだ。そしてお互い良い顔になったなと、密かに喜び合いたいものだ。今回のメンバーの中には、まだそのような顔にはなっていない人が多かったように思う。その最たる者が自分なのであるから、まだまだ出席には値しないようだなと思った次第である。

コメント
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