山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

温泉の話②(舟唄温泉)

2007-06-04 03:42:26 | くるま旅くらしの話

舟唄温泉は、山形県の大江町にあります。大江町というのは山形県の丁度ど真ん中辺りに位置しています。この町には道の駅:大江がありますが、舟唄温泉はその道の駅に隣接しています。道の駅近くにはもう一つテルメ柏陵という名の温泉施設もあります。

2年ぶりで大江の道の駅を訪れたのですが、前回の時は、なにやら工事中で取り込んでいたため、温泉はテルメ柏陵の方を利用したのですが、今回行って見ると舟唄温泉が補修を終え、新しくなっていました。駐車場も整備され、広くなっていました。

さっそく行って見ると、何と料金が200円ということでした。以前も同じ料金だったように記憶していましたが、その時は200円に相応しい内容の設備だったので、安いとはあまり感じませんでした。しかし、今度は明らかに安いと思いました。普通大修理や改造を行なうと何がしかの値上げを行うものですが、ここはそれがないのが嬉しいですね。受付の人の話では、新しい湯井も掘ったということですから、かなりの投資となったのではないかと思います。経営努力とはこのようなことをいうのでしょう。これからは、ここを通る時には、必ずこの湯に入ろうと思いました。

舟唄という名は、恐らく最上川舟唄から来ているのだと思います。温泉場の下を最上川の急流が渦を巻いて流れているのが見えます。最上川は、この辺りでは必要以上に曲がりくねって大地を削って流れているようです。やたらに同じ川を渡る橋が多いのが、それを証明していると思います。

最上川舟唄というのは、どんな文句で、どんな調子だったかなあ、などと思いながら、旅の疲れを湯船に浸って癒していますが、心なしかこの風呂に入っている人は大声で話す人が少ないようです。東北の人は無駄な口は利かないといわれますが、存外男のおしゃべりは多いものなのです。でも、ここはちょっと違うのかなと思いました。静かな分、自分のペースで湯浴みを楽しむことができていい雰囲気でした。それにしても舟唄温泉なのだから、ここへ来たら最上川舟唄くらいは覚えておかないといかんなあ、と思いました。

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温泉の話(喜連川温泉)

2007-06-03 04:32:43 | くるま旅くらしの話

旅くらしの毎日の中で、温泉に入るのは最大の楽しみの一つですが、今回の旅の中で気に入っている幾つかの温泉について紹介して見たいと思います紹介といっても泉質とか専門的なことではなく、私が感じたことを簡単に述べるだけです。

まずは今回の旅の最初の温泉、喜連川温泉についての話です。この温泉については、エピソードのようなことを以前エッセーに書いたことがありますが、私どもは喜連川温泉のことを「猿山」と呼んでいます。「猿山に行くか?」というときは、喜連川温泉の露天風呂に行くことを意味しています。

喜連川温泉は、歴史が新しく1970年代に入ってからオープンした様ですが、那須火山帯のお膝元なのですから、この辺りは掘れば温泉が出るのは当然なのかも知れません。喜連川は、隣の氏家町と合併してさくら市となりました。市内に温泉施設は幾つもあるようですが、私どもは3箇所ある市営の施設の中で、いつも猿山即ち、露天風呂のみの施設を利用させて頂いています。此処には、簡易洗い場はありますが、大きな石組みだけで造られた、浴槽が一つの露天風呂だけの素朴な施設です。天然かけ流しの湯は、47℃くらいで、やや熱いという感じです。それで長湯を楽しむ人たちが岩の上に寝そべったり、ごろ寝をしたりしているものですから、それを評して猿山と名付けたわけです。

入浴料は300円。市営の施設は皆どこも同じ料金です。露天風呂は狭いので、一日のんびり湯浴みをして過ごしたい人は、城跡の下にある元湯という施設へ行くのが良いと思います。此処は3つの施設の中では最も大きくて、休憩室なども整備されていますので、長時間楽しむことが出来ます。もう一つ城跡(小高い丘の上にスカイタワーという展望塔が建っていますが、その近くにあります)にある施設は、内風呂の割には小さくて、地元の方専用のような感じがします。この他に、道の駅にもクアゾーンを持つ温泉が併設されていますので便利です。こちらの方は料金が少し高いようです。

喜連川の温泉には、家から比較的近いこともあって、年に10回近く訪れています。猿山の湯に浸かった後は、道の駅に行って泊り、翌朝お丸公園と呼ばれている古い城跡(大蔵ヶ崎城=喜連川城)を散策し、車に戻って温泉パンと温泉ナスを買って帰るのがいつものパターンとなっています。

今回は早朝に城跡を散策しましたが、オドリコ草、山吹草、一輪草、二輪草、ムラサキケマン、ヤマエンゴサクなどの野草たちが咲き溢れる天国を見つけて、かなり興奮しました。温泉を楽しむだけでなく、自然に触れる楽しみがここに来ると層倍するような気がします。温泉街という雰囲気がなく、何処に温泉があるのかわからないようなところなのですが、温泉の質は飛びっきり良くて、関東ではあまり知られてはいないようですが、名湯の一つに違いないと私は思い込んでいます。

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長文の功罪(携帯電話からの投稿に思う)

2007-06-02 03:59:02 | 宵宵妄話

今回の旅では、ブログ投稿の全てを携帯電話で行ないました。先回の房総の旅の時に、初めて携帯を使った投稿をして見ましたが、ものすごく手間と時間がかかって、こりゃ到底無理だわいと思ったのでした。しかし、旅先で携帯電話を中継器に使ったネット上では、スピードが遅く費用が重なりますので、とにかく携帯での投稿に慣れようと続けた次第です。

最初は出来る限り短文で済ませようと心がけたのですが、それではどうしても旅の楽しさや困惑などの状況は伝えられないと次第に思うようになり、字数を増して遂には2千字を超えるところまで行くようになりました。それでも伝えようとする半分にも届かない状況で、不満は残ります。

一体不断から、「あなたの文章は長くてくどいのが多い」と滅多にハガキすらも書かない家内から言われ、これまた滅多に本も読まない倅からは、「お父さんのブログを読むのは長くて大変だ」などとコメントされて、馬鹿なことをいうんじゃない!と、腹を曲げたりしてはいたのですが、今回は毎日投稿を続けながら、その意味が少し理解できたような気がします。

短い文章で、如何に多くの思いを伝えるかというテーマは、俳句ならずとも文字表現の世界では永遠の課題のような気がします。これをごまかすには、写真などの画像を多用すれば良いことは重々承知してはいるのですが、今の世の中は、視覚を刺激する傾向があまりに多く、強すぎる気がして、些か反抗する向きが宿っているのです。さりとて、五・七・五の表現では、日常的な旅くらしの様子を毎日伝えるのは、俳聖芭蕉といえども超困難だと思います。それで、結果的にはご覧のような中途半端な記事とは相成っている次第です。

携帯電話では、今までせいぜいメールのやり取りくらいで、千字を超えることはありませんでした。確か古い携帯では使える文字数に制限があり、そこまでは不可能だった様に思います。ブログ投稿のことも考えて、最近買い替えて写真の撮れる携帯にレベルアップしたのですが、なんと今では1万字まで投稿が可能なのですねえ。今回の最長の文でも3千字は超えなかったと思いますから、まだまだ存分に長文を投稿することは可能なわけです。

しかし、実際に文章を書くのには千字を打ち込むのに平均1時間はかかってしまいます。普段の会話をメールにするだけなら、慣れればもっと早く行けるのでしょうが、時には辞書を引きながら携帯の画面で文字を探すこともあり、それがなかなか見つからなかったり、或いは収納されていない文字もあったりで、なかなかスムースに打ち込めず、悪戦苦闘の毎日でした。朝3時に起き出し、ブログの投稿を終えたときは5時半を過ぎていたことも何度かありました。何でこんな馬鹿なことをやっているのかという自嘲の気持ちが何処かにあることは前にも書きましたが、何しろ旅の間は、それこそ超早寝・早起きとなりますので、6時間も寝れば眠り過ぎの私としては、毎晩20時には眠りに就いている毎日では、朝2時や3時の起床などは何でもないことで、とにかく時間が有り余っているのです。

30日近くも続けている内に、次第に欲が出てきて、この携帯を使いこなしてやろうと思うようになりました。1万字は無理ですが、2時間で5千字のレベルまで行ったら、これは表彰ものだと思います。携帯には変換や保存機能などAI(人工知能)の技術が取り入れられているようですが、中には向きになってしょうもない文字や文章を入れているようなところがあり、それにぶつかると無性に腹が立ってきて、思わず罵倒するような言を吐き、家内を起こしてしまうようなこともありました。携帯の文字変換などは普段使われている言葉の中で、最も素朴なものを最優先すべきだと思うのですが、作成者の気まぐれなのか、それが無視されているところが結構多いようで、不満があります。このような反抗してもしょうがないようなことに何時までも囚われていると先に進めなくなってしまいます。より平常心を持ち続けるようにして、もっと携帯での文章作成のスピードを上げてゆきたいと思っています。1ヵ月後には、北海道での旅くらしが控えていますので、この期間中に所期の目的をクリアーできたらいいなと思っている現在です。どうでもいいような話でした。

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旅が終わると、……

2007-06-01 05:57:35 | 宵宵妄話

旅が終わると、何時でもそうなのですが、何か精神の脱落状態となります。脱落といっても道元禅師のおっしゃる「身心(しんじん)脱落」というような世界とは無縁の、単なる倦怠感のようなものがやってきます。それを忘れるためには、庭や畑の草むしりなどに汗を流すのが一番なのです。2日間取り組んで、敵対する草たちは略退治を終えました。我が家の庭周辺では、難敵の草といえばカタバミです。一見弱弱しそうですが、相当にしぶとい侵食力があり、芝生の中にも蔓根を伸ばして入ってきます。葉だけを摘んでもなんのその、数日で元に戻るどころか、もっと葉数をまして勢力を誇示するのです。カタバミは、本当は薬草になったり、研磨用に使われたりしたらしくて、悪い草ではないようなのですが、我が家の場合は、あまりにしつこいので敵対関係になってしまっています。

畑に行くと、こちらの方のこれからの難敵はスベリヒユです。この草は飢饉の際に食用にすることを、彼の黄門様が推奨したというような話を、どこかで聞いたような記憶がありますが、つまりは他の作物が全滅するというような大飢饉の気象条件でも生き残って繁茂することができる植物ということで、相当に生命力逞しい存在なのでしょう。金のなる木の葉を小さくしたような肉厚の形をした植物ですが、手で引き抜くと大変もろく、根を残す前に折れてしまうような存在です。小さな苗を至る所に生えさせ、どんなに引き抜いても数日経つとしっかり再生しています。

植物の生存戦略には様々なものがあって、草を引き抜きながらいろいろ教えられることが多いのです。カタバミもスベリヒユも基本戦略は弱弱しき形をしていて、踏みつけられればいっぺんにクチャクチャに壊れ、引き抜かれれば力なく身を折っているように見せること。しかし、根は簡単に持ち去られることなく、ホンの僅かでも大地に残して、たちまち再生を期すパワーを発揮することにあるようです。生き残りには、強そうに力を誇示するよりも、一見弱弱しそうに振舞っていて、根はしたたかな存在が効を奏すようです。人間世界でも同様の戦略を持って巧みに生きている人は多いようです。草たちのその力には、人間は到底太刀打ちできるものではないと知りながら、一見きれいになった庭や畑の様子に満足しているのが、草取りの現実のように思えます。

畑には、旅に出る前にラディッシュを播いて、芽が少し出た頃に出発したのですが、戻ってみると巨大な赤い玉が出来上がっていました。いつものとは違う品種を播いたようで、葉が少ない割には根が大きいという、人間にとっては都合の良い出来上がりぶりでした。他に玉ねぎも予想以上の育ちぶりで満足でした。そして何よりも嬉しかったのは、なかなか芽を出してくれず、斑模様の生えぶりだったジャガイモが、畑一面(といっても僅かに30㎡ほどですが)を覆って花を咲かせていたことです。連作なので、今年はダメなのかなと半ば諦めていたのですが、この分だと豊作を期待できそうです。

ま、旅から戻った時は、今はこのような状況で、庭や畑の草や樹木達との関わりを楽しんでいます。

2日ほどブログを休みましたが、今日から6月。今月末辺りには北海道への旅に出発予定です。今回の旅の途中でも、北海道に向かうという何人かの人に出会いましたし、既に北海道入りをしている人の話も聞きました。北海道には東北とは違った旅の魅力があります。一度その虜になってしまった人は、中毒症にかかったように北海道へ向っているような気がします。私たちも又明らかな中毒症罹患者のようです。出発までの間に、東北春旅の記録を整理しなければならず、しばらくは(勝手な)忙しい時間が続きそうです。

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