山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第8回>

2013-11-03 02:46:48 | くるま旅くらしの話

【今日(11/3)の予定】 

  道の駅:椿はなの湯 →(R42)→ この先未定なれど、R42を辿って、伊勢近くまで行くつもり。

【昨日(11月2日)のレポート】      

<行程>

道の駅:明恵ふるさと館 →(R480・R42他)→ 湯浅町重伝建エリア探訪 →(R42)→ 南部町ドライブイン他 → 道の駅:椿はなの湯(泊)

<レポート>

明恵とは「みょうえ」と読むらしい。ここは元金谷町という所で、明恵上人という偉いお坊さんの生まれた土地なのだという。その名を初めて知ったのだけど、帰宅してから調べる必要があると思った。金谷町は合併して有田川町となったのだが、この辺りも見渡す限りのミカン畑で、道の駅のすぐ傍の畑にもたわわに実をつけたミカンの木がほほ笑んでいた。食べたいという思いは消し飛んで、ただ凄いなあと思うだけの景観だった。妹の所にミカンを送ることにして、昨日売店の人にお願いしており、それが9時過ぎに農家の方が箱に詰めて持ってきてくれることになっているので、朝食の後しばらく付近を歩いたりして有田ミカンの栽培の凄さを実感したのだった。9時半過ぎに農家の方が来られて、発送の手続きを済ませた。小ぶりのミカンだけど、味の方は甘さと酸味が調和した見事な出来具合となっているので、先ずは心配ないだろうと思った。

      

道の駅:明恵ふるさと館のすぐ傍にまでミカン畑が迫って来ており、枝も折れそうなほどに、たわわに稔った黄金色のミカンが輝いていた。

10時近くに道の駅を出発する。今日のメインは、湯浅町の重伝建地区の探訪である。この町を訪ねるのは、まったくの初めてであり、重伝建の存在を知らなかったら、一生訪ねることのない町ではないかと思う。資料による醸造町としての重伝建エリアの存在しか知らず、その醸造の内容も味噌や醤油といったものが中心で、酒がメインではないというのも興味を覚えるところである。道の駅:明恵ふるさと館からは10kmほどしか離れておらず、ごく近い場所である。走り出してしばらく行くと、ミカンなど農産物の直売所があったので、親戚にもミカンを送ったりした。溢れるほどのミカンの山で、滅法安いのである。ミカンは1袋15個くらいも入ったのが、100円くらいの価格なのだ。山の辺の道の大和のミカンも安かったけど、この本場では、それ以上の恵まれた価格に驚かされた。何しろ周囲見渡す限りのミカン畑なのだから、高値などつけたら買う人がいなくなってしまうという環境なのであろう。生産者には厳しいけど、ミカン好きの消費者には天国のような場所だなと思った。

間もなく湯浅町の重伝建エリアに到着する。どこに車を置こうかと駐車場を探したが見つからない。どうするかと少し先に行ってみたら、ボランティア駐車場というのがあったので驚いた。民間企業の駐車場なのだが、土・日休日だけは来訪者に開放してくれている。このような形の駐車場は初めてのことだった。嬉しくもありがたいことである。そこに車を置かせて貰って、さっそく探訪に出かける。

      

ボランティアパーキングの案内版。このようなスタイルの駐車場は全国でも珍しいように思う。グッドアイデアだと、深謝、感謝。

先ずは「醤油発祥の地」と書かれた看板が書かれた古い建物の方へ行ってみた。角長という屋号のその店の建物は、慶応年間に建てられたとかで、その近くにある資料館に入って見ると、醤油製造に係る様々な用具が展示されていた。相当に大きな規模で醤油製造が為されていたらしい。そこの資料館の説明によると、醤油というのは、法燈国師という留学僧が、帰国して隣町の由良に禅寺を開かれたときに、中国から持ち帰った金山寺味噌の製法を伝えた際に、味噌製造の際にそこに溜まった液が大変美味いのを知り、これをもとに醤油が生み出されたとのこと。国師が留学で留守の間、国師の母上をお世話していた女性の方が、その後得度されて覚性尼と呼ばれたが、その方がこの湯浅の出身で、その後の醤油の製造、普及に大きな尽力をされたということである。味噌と醤油は親戚関係にあるとは知ってはいたけど、そもそもの始まりは味噌を親としていたのかと、改めて面白いなと思った。江戸時代には、紀州藩の庇護を受けて、これらの産業はこの地で大いに発展したということである。まだ現役の店も幾つか残っているけど、今は昔の面影は弱くなっているようである。

      

醤油発祥の地と書かれた、角長の看板。黒っぽい建物は醤油の製造蔵。この建物の向かい側左手の方は港の船溜まりとなっている。

その後、幾つかの筋を歩き回った。人がすれ違うのがやっとと思われるほどの細い露地道を歩いてみたけど、櫛比している家の軒下を通る道は、幾重にも曲がりくねっていて、そこはもはや道ではなく、共通の軒下の様な感じだった。中に、上新町の七曲り早口言葉と書かれたのがあり、そこには「七曲り、曲がりにくい七曲り、曲がって見れば、曲がり易い七曲り」とあった。上新町というのは、メインの筋道の中にある場所の様で、細い露地で仕切られているらしい。これだけ密集していると、自分の家も、隣の家も、みんな筒抜けになって、プライバシーもへちまもないなと思ったりした。

       

上新町の細道。真っ直ぐ行くとたちまち角の塀に突き当たり、左に行っても、右に行っても、直ぐに又角が待っている。

更に歩き続けていると、熊野古道と書かれた筋道に出た。予期していなかったのだが、考えて見るとこの地は熊野山に参詣する道が通っていたのだった。熊野古道といえば、すぐに中辺路や那智の辺りの山の中をイメージしてしまうけど、都からはこの辺りを通るのが普通のコースだったのだ。熊野の参詣の道はそのほとんどが山道だった中で、唯一町中を通っていたのがこの湯浅だとか。熊野参詣には、王子と呼ばれる遥拝所が幾つもあるけど、湯浅にもそれが残っているらしい。機会があれば訪ねて見ようと思った。

      

その昔この道は熊野参詣の通り道だった。街道なので、近くには遊郭などもあったとか。

1時間ほど歩いて、そろそろ昼食にしようかと車に戻りかけた頃に、津浦家という資料館を開示している所に出た。ここは麹を作っている家で、内伝という屋号で呼ばれている家でもある。相棒が足を停め、中を覗き込んでいたら、そこの資料館の関係者の方が戻って来られて、何やら相棒に教え始められたようだった。相棒もかなり乗り気になっており、店先に「もやしあります」と書かれているのを見て、興味を深めたらしい。もやしというのは、麹のことなのだと、その方が丁寧に説明されていた。一人外にいるのもまずいかなと中に入ることにした。

      

津浦家こうじ資料館。自家をこうじ資料館として一般に公開されている。

      

江戸末期、伊豆松崎の漆喰彫刻の名人、長八作の麹屋の看板。作る人も、それを頼む人もすごいなと思った。

さあ、それからが大変な勉強の時間となった。麹の勉強ではなく、その昔の湯浅町の様子などを学ばせて頂いたのだった。その女性はこの家の方で、その兄上がこの資料館の代表を務められているとのこと。その方の説明も要領を得ていて見事だったが、その兄上の方が作られたという行燈、湯浅の昔日のジオラマなどの作品が素晴らしかった。それらの作品は、昔の絵図などをもとに全て手作りで作られており、まるで江戸の昔からそこに置かれていたかのようである。特に凄いなと思ったのは、絵図をもとに復元した湯浅港の町の様子を作り上げたジオラマの作品である。港町の全体俯瞰だけではなく、建物の前の通りを歩く人々の姿までが生き生きと作られていた。それらの材料はすべて200年以上も前に使われていた材木であり、布なのである。これはもう、この方は天才というべき才能の持ち主なのだなと思った。何枚も写真を撮った。

      

資料館の代表者の津浦裕さんの作られた行燈の数々。皆昔の古い資料をもとに手づくりで製作されている。

      

津浦さんがつくられたその昔の湯浅港のジオラマ作品。右が港の様子。左は店と蔵の様子。

      

ジオラマ製作の元となった江戸時代に描かれた湯浅の港町の絵図。

      

ジオラマの細部を写したもの。店の前の通りを歩く往時の人々の姿が、実に巧みにリアルに作られている。まるで生きているような躍動感すら感ぜられる。

すっかり興奮してしまい、気がつけばもう12時半を過ぎていた。お礼を述べて車に向かう。その途中、相棒は別の所に首を突っ込んでしまい、自分だけが先に戻るこことなった。結局相棒が戻ったのは、13時を過ぎた頃だった。遅い昼食が済んだのは、14時少し前だった。一休みをして出発となる。

今回の旅の中では、今迄訪ねた重伝建エリアの中では今日の湯浅町が一番印象深いものとなった。この町はかの有名な豪商紀伊国屋文左衛門の出身地であり、活躍の基点となった町でもあった。わが国最初のノーベル物理学賞を受賞した湯川博士も近くに養子入りされていたとか。有名人を輩出している町なのでもあった。関東の片田舎で育った者には、紀州のことはさっぱり判らない。ここに来て見て、ようやく道の世界に風穴が開いたような感じがした。もう何回かは来なければならないなと思った。

さて、これからはもう特に予定はない。明後日に岐阜県の郡上八幡を訪ねるまでは、ちんたら過ごせばいいだけの時間である。今日はこれからとりあえず、白浜町の少し先にある新しい道の駅:椿はなの湯という所まで行って、併設されているという温泉に入り、そこに泊る予定でいる。予報では明日は雨降りとなるらしいけど、空の雲がだんだんと増えてきて、確かに予報は当りそうである。とことどころ渋滞に巻き込まれながら、目的地の道の駅に着いたのは、16時過ぎだった。さっそく温泉に出かける。思ったよりもこじんまりとした施設だったが、お湯の方はすべすべしていて、穏やかな泉質の温泉だった。たっぷり湯に浸って疲れを癒し、車に戻って、ビールで乾杯して、その後はいつもの通りの行動パターンだった。楽天が負けたのを知ったのは、勿論翌朝になってからである。

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