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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

「茹(ゆ)で蛙(かえる)」現象の怖さ

2008-01-24 05:39:46 | 宵宵妄話

 昨日初めて守谷に今年の初雪が降った。いや、二度目かな? 何だか雪らしくない雪の降り具合である。本場の雪国では、このような所感とは無縁だと思うが、関東のこのあたりでは雪といえば何とも中途半端なのである。だからといって、メリハリのある雪の降り方をして欲しいと願っているわけではない。

 最近の寒さについて考えてみた。今年の冬は例年になく寒いという感じ方が大勢を占めているようだけど、本当に寒いのだろうか。寒いという体感は、何と比べればそう言えるのかは結構難しいように思う。例えば、0℃とマイナス1℃の差は体感では殆ど変わらないし、2~3℃ほどの差ならば、体感は同じようなものではないか。一体どれほどの差があれば、その違いを人間が感じ取れるのか良く解らない。今年が寒いというのは、近年の暖冬の中では、かなりの差が出ているのだと思うが、もしかしたら統計的には大したことではないのかもしれない。人間の感じ方というのは、かなりいい加減なようだ。

 「茹で蛙現象」というのを、企業内教育の中で良く話をしたことがある。これは危機に対する感性不足を警告する場合に用いる事例である。水を張った鍋の中に蓋をせず蛙を入れ、火をつけてそれをゆっくりと沸かしてゆくと、蛙は温度上昇の危機に気づかず、温まったお湯の中で、跳び出そうともせずにのんびりしているのだが、ハッと(その危険さに気づくのかどうかは知らないけど)気づいた時には時既に遅く、そのまま蛙は茹で上げられて、一巻の終わりとなってしまうという話である。

 地球温暖化現象が、最早危機状況に達しつつあることは明白なように思うけど、世界の指導者や企業経営者は、自国の損得や自企業の利益追求に囚われて、そこから離れることができず、自ら茹で蛙現象の真っ只中を歩んでいるような感じがしてならない。京都議定書の問題がよく取り上げられるが、アメリカも中国もそして日本すらも、本気になってその指標が達成できるなどとは誰も考えていないのではないか。

 茹で蛙現象の中で最も大切なことは、危機に気づいたら直ちにそれを回避するための行動を起こすことなのであり、方法論を明らかにして、そのどれか一つでもいいから実行を徹底することだと思う。しかし、地球全体というレベルでの温暖化問題は、私の考えではきわめて悲観的である。恐らく人間は地球という住まいを破壊し、やがて沈黙の世界を作り上げるに違いないように思われる。(レイチェル・カーソン著「沈黙の春)新潮社版参照) 

沈黙の世界とは、動物の息遣いが絶えた世界である。息遣いを為す動物といえばかなり高度な動物であり、その頂点に人間がいると考えられるが、地球が壊れてしまった時に、真っ先に死に絶えてゆくのは実は高度な動物のような気がする。人間はトータルとしてはしぶとく生きているけど、個体では弱い存在のように思う。今人間が頂点に立って生き続けていられるのは、トータルとしての知恵が生かされているからに過ぎない。

今もし世界中がとてつもない飢饉に見舞われ、日本が如何なる国からの食料調達も不可能となったとしたら、道端に生えている野草を食べられると考える人よりも、食べられないと根っから思い込んでいる人の方が遙かに多いであろう。従って日本国には、直ぐ傍に生命をつなぐ物があるのに、それを知らずに飢えに身を任せて、その結果もの凄い数の餓死者が発生するに違いない。しかし、野に放たれた犬や猫は、人間の餓死者よりは遙かに被害は少ないだろう。彼らには個体としてのその本能が、人間よりも遙かに強いレベルで生きているからである。

現在の流れの果てに、地球が壊れてしまったなら、生き残るのは植物類と、原生動物くらいになってしまうのかもしれない。現在でもオゾン層の破壊によって大地に進入する悪性の紫外線にDNAを壊され、その結果異常な形状をした昆虫や両生類などが発見され続けているという。人間は自然界の中では、明らかに思い上がっており、破壊者に成り下がっている。このことを真摯に受け止め、本気になった時は、最早手遅れで、地球破滅のエネルギーは止まらなくなってしまっているのではないか。少し怖い話となったが、これは本当の話だと思う。

それにしても昔は今よりも遙かに寒かった。子供の頃でも、長袖の下着類を着るのは当たり前だったように思う。田舎の道は未舗装で、砂利の敷かれた県道に出るまでの間は、霜柱が高く盛り上がって凍てついた道を踏みしめながら朝学校へ行き、帰りはめちゃくちゃにぬかるんだ道の脇に、僅かに枯れ草の残る箇所を探しながら歩いて家に戻ったものだった。夜は満天に星が煌(きら)めき、子供心にそれを美しいと感じたものだった。それが今は日本の何処にもそのような夜空を仰げる場所はない。僅か60年という時間経過の中で、我々が失っているものは大きい。

還暦を迎える前辺りから、冬に長袖の下着を着ることはなくなった。今でも半袖の下着と7分のロングパンツを履くだけで、その上にシャツとセーターを着るだけである。外出や歩きの時はウインドブレーカーやジャンバーを羽織るだけである。寒いなどと言っても、昔の大地を凍み渡らせるほどの鋭さはない。これをありがたいと考えるか、怖いと考えるかは、茹で蛙現象を知っているか、知らないかで大いに差の出ることであろう。

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