【今日(5/30)の予定】
道の駅:はが →(県道・R294)→ 自宅
【昨日(5月29日)のレポート】
<行程>
道の駅:喜多の郷 →(R121・R49他)→ 会津藩校日新館見学 →(R49他)→ 会津若松市内(猛暑のため散策中止)→(R118・R49・R294)→ 道の駅:天栄 →(R294)→ 道の駅:東山道伊王野 →(R294・県道)→ 道の駅:はが(泊)
<レポート>
昨夜は初めて出会ったSさんとの話が大いに弾んだ楽しいひと時を過ごすことができて、酒も美味く眠りも満ちて、朝の4時にはすっきりと目覚めることができた。計画した出会いの喜びも嬉しいものだが、突然の新しい出会いはもっと喜びが大きいように思う。
今日の天気も朝から太陽が照りつけて、かなり暑くなりそうである。TVの予報画面を見ていたら,いわき市の最高気温が20度と出ていたので、間違いだろうと思ったら、やはりその通りのようで、福島県は、浜通りと会津や中通りとでは随分と気象のあり方が違うのだなと改めてその広さを思った。いまさら海側まで行くこともならず、今日は暑い会津の街中を探訪するつもりでいる。8時半ごろにSさんは、今日は直行の帰宅です、と出発されていった。我々の方は、先ずは会津藩の藩校の日新館に行くことにして、9時過ぎに出発する。
日新館は、復元したものが城からはかなり離れた場所に建てられている。何度もその近くを通っているのだけど、今まで一度も訪ねたことがないのが不思議なくらいである。心のどこかに、あれは本物ではないという意識があり、そのことが進んで見学することの邪魔をしていたのかもしれない。しかし、早乙女貢氏の「会津士魂」全巻を読み終え、更には大河ドラマで、幕末の会津藩の悲劇のストーリーが山本八重という一人の女性にスポットを当てて語られたこともあり、どうしても、もっと深く会津のことを知りたいと思うようになった。やはりそれを知ろうとする時には、その精神的な支えを創り出した源泉は何かということを考えることになる。たとえば、会津では子どもの躾教育に関して有名な什の掟というのがあるけど、その掟を生み出し形成していったのは何なのかというのを考えると、これはもう教育しかない。とすればやはり藩校の日新館のことを知らなければならないと思ったのである。
日新館は、今は城からかなり離れた旧河東町の高台に復元されて建っている。初めて訪れたそこは、元の建物を忠実に復元したものだと説明にあったが、確かに往時の威厳を感じさせる立派なものだった。620円也を払って中に入ると先ずは解説用の映写が用意されており、日新館の生い立ちとその後のあらましが上映された。ただ、少し物足りなさを覚えるのは、取り急ぎ大勢の来訪者に手っ取り早く概要を伝えようとしているのか、情報が少な過ぎるような気がした。もう少し事例などを入れた丁寧な説明の作品が用意されていても良いのではないかと思った。もしかしたら既に幾つか用意されているのかもしれないが、何のガイドもないのが残念である。
復元された日新館の入口である戟門。往時の学び舎に入る子供たちの心を引き締めるかのごとき威厳さを覚えた。
映写を見た後、中庭に入り、先ずは孔子を祀る大成殿に参拝する。儒学の祖の孔子を中心に、孟子や曽子などの像が並んで祀られていた。印象的だったのは、大成殿の前に植えられていた数本の楷の木だった。秋になると鮮やかに紅葉するこの木は、孔子の出身地の曲阜の廟の植えられていると伝え聞く。以前、岡山池田藩の閑谷学校を訪ねた時、この木を初めて見たのが強く印象に残っており、今ここでその木の春の柔らかな緑を見て感動した。土地と種や苗があればぜひ自宅の庭に植えて見たい木である。
大成殿の前に植えられた楷の木。この他にも数本が学舎の中庭に植えられていた。なんとも言えない柔らかく穏やかな新緑だった。秋になると真っ赤な紅葉が見られるに違いない。
大成殿の後は、中庭を取り巻くように造られている、様々な勉強や訓練の部屋などを順次見て回った。きめ細かに教育・訓練が行われていたことが良く解った。確かに立派人材を生み出す環境にあったに違いない。しかし、幕末のあの悲劇は一体何だったのだろうか。学びの結果作り上げられた信念を曲げずにそれに従った行動に徹したことが、悲劇につながったとするなら、この教育のことをどう評価すべきなのか。世界の様々な国で現代でも同じような出来事が生み出されているのかもしれない。教育というのは時に悲劇や不幸を生み出すのかもしれない。多少教育に係った者として、複雑な思いにとらわれたのだった。
日新館の入口に掲出されていた什の掟。往時もこのような物が掲げられていたのか。それは不明。今の世は、このようなこともわきまえぬ大人たちが溢れている。
40分ほどで見学を終え、車に戻る。相棒は、あまりに暑いので、見学で歩き回るのを敬遠して、中には入らずに売店のおばさんたちと歓談していたようである。確かに今日の暑さも真夏に負けないほどジリジリと大地を焼くかのごとくの厳しさである。その後、市内の散策をすべく鶴ケ城に向かって出発する。で、20分ほどで城の傍に着いたのだが、何とも暑い。相棒は城の見物にはあまり乗り気ではなさそうだった。城といっても本物ではなく復元されたものに過ぎないし、疲れるために入るようなものである。かといって、街中の散策も、この暑さでは熱中症にもなりかねない。当初の計画や目論見を破壊するほどの暑さなのである。しばし迷った結果、城の見物も散策も止めることにして、帰途に就くことにした。予報によれば、この後も暑い日はしばらく続くようなので、これじゃあ探訪や散策は無理だと判断した次第。となれば選択肢は一つしかない。すなわち帰宅することである。
というわけで、それからは急遽帰途に就くことになった。先ほどの日新館の方へ引き返す。帰りは我が家の傍を通っているR294を通って行くつもりである。R294は、福島県の猪苗代湖近くでR49から別れて、茨城県の取手市内でR6につながる茨城街道とも呼ばれる国道である。途中白河市街で複雑になるけど、それ以外は大半が山間地や田園地帯の中を通っている。茨城県に入って、下妻市辺りからは道も片側2車線の都市の道路に変化したりしている。この道の起点から終点までを走る人はそれほど多くはいないのかもしれない。今日はその半分ほどを走って、途中から栃木県の芳賀町にある道の駅まで行き、そこに泊って旅の最後の夜を送り、明日家に帰るつもりでいる。
R49から別れてR294に入り、しばらく山間の農村地帯を走って、至勢峠を上り下って、天栄村に出ると、そこに新しい道の駅が作られていた。新しいといっても何年か前にオープンしたのであろう。我々には初めての来訪だった。ここで昼食休憩。相棒は暑さと冷房に参ったらしいので、1時間ほど寝床に横たわってもらうことにした。道の駅が坂の途中に造られているため、車の往来の度にかなりの騒音がして、落ち着かないとは相棒の愚痴だった。平らな土地がいくらでもあるのに、よりによってどうしてこのような場所に道の駅を作ったのか不可解とのコメントもあった。それは村長さんにでも聞いてみなければ解らない。
14時少し過ぎに出発。白河市の市街地を通過して、再び郊外からR294に入り南下を続ける。那須町の道の駅の東山道伊王野に寄り、一息入れた後更に南下を続ける。この辺りは一雨驟雨が通過したらしく、道路が濡れていた。そういえば、先ほどから遠く雷鳴が届いているような気がしていた。余りの暑さに天も狂気を発したのかもしれない。しばらく走って那珂川沿いに黒羽町、那珂川町、那須烏山市となじみの深い名前の町筋を通過する。間もなく右折して県道に入り、しばらく田畑の中を走ってようやく芳賀町の道の駅に着いたのは、17時頃だった。この辺りはうす雲がかかっていて、さほど暑さを感じない。会津がこれくらいだったら街中の探訪もできたのになどと思ったけれど、これは仕方がない。
芳賀の道の駅には温泉の入浴施設があるので、さっそく入りに行く。以前は500円だった入浴料が100円挙って600円となっていた。消費税の値上げ幅よりも大き過ぎるなと思った。この手の値上げが旅をしていると所々見られて、何とも不愉快な気分になる。ここの湯に入るのは久しぶりだったけど、もうこれからは入るのは止めようと思った。なぜなら少し先に喜連川温泉があり、こちらの方は300円で本物の温泉に入れるからである。風呂場の中での地元の人たちの話題にもここの値上げが取り上げられており、皆さんかなり批判的だった。値上げして収益が改善されるとは限らない。この先大丈夫なのかなと少し気になった。ま、料金はともかくとしてお湯の方はそれなりに満足できるものだった。車に戻り、旅の最後の夜の祝杯(?)を挙げて眠りに就く。
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