山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ゴミ処理について

2008-10-27 03:07:13 | くるま旅くらしの話

ゴミ処理は、くるま旅、とりわけて長期間のくるま旅をする者にとっては、悩ましい問題である。ゴミ処理を受け入れてくれる施設や場所が次第に無くなってきているからである。今回の四国八十八ヶ所巡りの旅においても、この問題には悩まされ続けた。40Lのゴミ箱を携帯して、当座のゴミはそこに押し込めるようにし、ゴミ箱のある場所で分別に従って処理をさせて貰って、どうにかその場を凌いでは来たのだが、何故かスッキリしない。

家庭でのゴミを持ち込まないようにという注意書きのあるゴミ箱が多い。くるま旅の中で出るゴミは、家庭なのかそれともそのゴミ箱に入れて良いものなのか迷う。捨てられているゴミの中身を見て判断し、その可否を決めさせて貰っている。それが正しいことなのかどうかは良く判らない。

道の駅では、ゴミ箱が次第に無くなって来ており、それは道の駅を運営してゆく上の常識となってきているようである。新しい道の駅の場合は、先ず100%ゴミ箱は用意していない。それが決まりとなっている感じがする。

何故道の駅にゴミ箱が無いのか? 何故高速道のSAにはゴミ箱があるのか? 時々この問題を考えることがある。思うに、道の駅の場合は、ゴミ処理の費用と手間の問題が大きいのだと思う。その問題を大きくしているのが、道の駅の利用者の出すゴミの量の多さとマナーの悪さということになるのかも知れない。この解決法として採られているのが、ゴミ箱を無くすという方法なのであろう。如何にも合理的で、正論的な方法のように思える。ゴミ箱を無くせばゴミ処理は必要ではなくなる。従ってコストも掛からずスッキリした道の駅の運営が可能となるというわけである。

しかし、ちょっと待って貰いたい。道の駅そのものを利用することで発生するゴミはどうすれば良いのか。道の駅で買った野菜の屑は? 不要な包装箱は? 皆、持って帰れということなのであろうか?何だかムシが良すぎる話のように思えてならない。

ところで、高速道のSAなどには何故ゴミ箱があるのだろうか?車を利用した不特定多数の人が集まる場所としては、道の駅に似ているように思う。むしろ道の駅以上にゴミの発生する場所であり、マナーも決して良いとは思えない。コストだって相当なものだと思う。だとすれば何故ゴミ箱を撤収しないのだろうか? 

この答は、高速道路を経営している会社に訊いて見なければ解からないが、思うには、今のマナーの状態から言うと、ゴミ箱を無くすと高速道の運営に支障を来すようなゴミ捨て問題が発生する恐れがあるから、なのではないか。車の中から、弁当箱や空き瓶、空き缶などが飛んできたら、大事故となる危険性がある。本当はゴミ箱を無くしたいのだけど、それをやったら、経営に支障を来すような事態が発生する可能性があるので、やむなく我慢しているということなのではないか。どうもそのように思えてならない。利用者のために心底ゴミ処理を受け入れているとは思えない。

この二つの対応の根っ子にある発想は、基本的には同じように思えてならない。世の中が不信を前提に、自己の保身優先に動いている感がしてならない。それは人間不信という発想だ。人間不信を前提とする経営や運営は、やがては巡り巡って人間不信を増幅するに違いないのだが、競争や利益優先という発想が支配し出すと、世の中は心貧しい世界に向うに違いない。

たかがゴミ処理の話と言う勿れ。持論を言わせてもらえば、ゴミというのは生産と同じ意味を持つのである。生産が無ければゴミは無いのだ。生産者はゴミを生産しているのであり、消費者がゴミを生み出しているのではない。消費者は生産者が生み出したものを使い終えて、ゴミを捨てる役割を果たしているだけなのである。何やら詭弁の様に聞こえるかもしれないけど、生産の負の部分がゴミなのであり、生産とゴミは表裏一体のものなのである。このことは重要だと思う。

世の中は、常に生産優先、生産大事という発想がまかり通って来た。しかしここに来てこの発想は見直され出している。環境問題がそれである。あらゆる環境問題は、生産に対する負の部分の集合体であるといえよう。人間の生産に基づく営みの作り出したゴミが、地球をおかしくしているというのが環境問題の本質であるからである。

環境問題というのは、国家プロジェクト的な課題であり、さらには地球規模での対策を必要とする、世界全体の国々が一体となって取り組むべき問題でもある。現在世界の実力国は、一応の合意の下に、この問題解決に向って足を踏み出したように見えるけど、その実態は自国の利益を優先させざるをえないが故に、殆ど進捗してはいないように思う。この問題は、恐らく未解決のままに人類は地球を食いつぶして、やがて滅び去ってゆくというストーリーが、かなりの確率で見えてくる気がしてならない。

少し話がオーバーになり過ぎたが、戻ってわが国のゴミ処理のあり方を見てみると、ゴミ問題は地方自治の問題として、国としての対応は、殆どないがしろにされている感がしてならない。地方自治体の置かれた状況によって、その対応のあり方は区々(まちまち)である。分別も回収したゴミ処理のあり方も特にルールは無く、各地方自治体に任されている。旅をしていると、このことを目の当たりに実感する。ゴミ箱が無くなるのは当たり前ということが言えよう。予算に余裕のない自治体は、ゴミ処理に掛かるコストをできる限り削減したいと考え、その結果公共箇所におけるゴミ箱の撤去と相成るわけである。

開設してから時間の経った道の駅に、何年か前まで設置していたゴミを入れる分別の籠が、駅舎の裏の方に積んで残されてい居るのを見たりすると、この国が夫々のご都合主義で動いているのを目の当たりにするようで、何ともガッカリしてしまう。

改めて声を大にして言いたい。ゴミ処理というのは国の運営、すなわち国民生活のインフラの一つなのである。そこに定住している人のためだけのゴミ処理を考えるだけで、国が運営出来てゆくものなのかどうか。頻繁に人が移動し、錯綜しあいながら動いてゆく社会が当たり前となっている現実に対して、当該の行政を担当する大臣や役所の方には、このインフラに関するしっかりしたシステムを再構築して貰いたい。環境問題の根っ子を押さえずして、そこから派生して発生する問題現象ばかりに振り回されるような大臣や役所は、消え失せてもらいたい。

少し過激すぎる発言のようにも思っているけど、今のところ旅をする度にこのゴミ処理問題が、単に個人的な都合・不都合の問題などではなく、国全体の、大きな課題として手がつけていられないことを強く感ずるのである。

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