山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

俳句の楽しみ雑感

2008-10-28 06:00:20 | くるま旅くらしの話

時々俳句を作ったりしている。俳句はたった17文字のリズムで、感じた思いを表現する最短の文学形式だと思う。そこには凝縮された思いの輝きや感動がある。その深さや大きさは兎も角として、この表現方式というのは、日本人としては捨てがたい。

ま、そのような偉そうな言い方は別として、旅をしながら時々俳句に思いを寄せる時がある。自分の場合は、無理して俳句を作ろうという考えはない。思いついたときに、俳句で表現してみたいと思うだけなので、ことばを深く練って表現しているわけではなく、作品としての出来栄えといえば、個人の勝手な趣味、それも自己満足のレベルに過ぎないと思っている。

秋になると空の青さが一段と深まって、その青さをどう表現すれば本物に近いのかと、若い頃から妙に気になっている。ある時から柿の実一個でその空の青さを計ることが出来るのではないかと思うようになった。それで、

「輝ける柿の実ひとつ青い空  馬骨」

という句を作ってみた。これが究極の表現とはとても思えないが、自分なりには今のところこの程度の表現しか出来ない。

    

青空をバックに映える柿の赤さは、秋の深まりを何よりもはっきりと教えてくれるような気がする。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という子規の句は有名だが、これは青空とは関係が無い。どうしてこの句が有名なのか、長いこと解からなかった。しかし旅をするようになって、このところ毎年奈良の各地を訪ねるようになって、ようやくこの句の持つ深い意味が見えるようになってきたように思う。今回の旅でも八十八ヶ所巡りが済んだ後、一日奈良の山の辺の道を歩き、又一日法隆寺ならぬ薬師寺と唐招提寺に参詣したのだったが、彼の地に行くと、子規のこの句の意味が良くわかるのである。

奈良は、古来柿や蜜柑栽培の発祥の地であり、その栽培は今日でも変わりなく継続されているようで、秋になると郊外の果樹園にはたわわに実る柿や蜜柑を見ることが出来るし、街中の庭にも柿の木が当たり前のように生活風景の中に溶け込んでいる。

古都の趣は、柿を食しながら法隆寺の鐘の音を聴く中に、存分に表現されているように思えるのである。柿と法隆寺はみごとにマッチしているのである。瞬間的にそれを捉えて詠んだ子規の感覚はさすがだと思わずにはいられない。関東に居ては、とうていこの句の味わいはモノには出来ないように思う。

話は変るけど、今回の旅で、香川県の第75番札所善通寺で、NHKのBS放送の「街道てくてく旅」の撮影現場とぶつかった。プロ卓球選手の四元奈生美さんが四国八十八ヶ所巡礼の遍路路を歩くという番組である。この日は、本当は第72番曼荼羅寺から参詣を始める予定だったのが、道を間違えて、先に善通寺へ来てしまったのだった。善通寺は、言わずと知れた弘法大師生誕の地のお寺である。駐車場を探すのに手間取って、ようやく見つけて駐車したところ、そこにNHKのエコカーというのが停まっていて、相棒がたちまち近寄って、話しかけ今日がここの撮影現場だという情報を仕入れて来たのだった。

この番組にそれほど関心があったわけではないが、四元さんという方が、毎日の放映の中で、とても素直な句を毎日作って発表しているのを、感心しながら見ていたので、この番組を覚えていたのだった。相棒の方は、自分とは別の野次馬根性を大いに発揮して、その後彼女の側まで近づいて写真などを撮りまくっていた。好奇心を大いに満足させたようだった。

   

NHK「街道てくてく旅」撮影中の四元さん。このような場所では、写真撮影はサービスタイムとなっているようだった。

八十八ヶ所巡りの遍路の旅には、俳句での感興の表現はフィットしていると思う。自分は般若心経のことで頭の中が一杯で、句作は何もしなかったけど、四元さんの句は視聴者の心を和ませたに違いない。その日の一句がどのようなものだったのかは、残念ながら旅の中では知ることが出来なかった。

今日は旅から戻って、久しぶりにいつもの散歩道の歩きを2時間ほど楽しんだ。守谷のこの地にも、庭先の柿の木がたくさんの実をつけて青空に輝いていた。旅のことを思い出しながら、思いつくままに俳句に絡むことなどを記してみた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ゴミ処理について | トップ | 安眠の天敵 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

くるま旅くらしの話」カテゴリの最新記事