山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

出羽の国 最上川

2017-06-21 02:46:59 | 旅のエッセー

最上川は、山形県を流れる東北有数の大河である。大河などというと、世界諸外国のそれと比べて、日本には大河などないと声を挙げる向きもあると思うが、それは河川の絶対的な側面だけを見ているからであって、仮に100kmに足りない川であっても、この国では大河と呼んでも差し支えない川が幾つもある。それは、そこに住む人々の暮らしの、川との密着度によって決まるからである。

最上川は出羽の国(≒山形県)一国だけを流れる川であり、今の世では一県一川ということになる。全長229km、全国第7位の長さであり、流域面積は9位となるけど、そのすべてが山形県ということになるだから、このような川は珍しいと言っていいのだと思う。

 山形県の中を何度も通りながら、最上川に架かる数多くの橋を何度も通っているのに、今までこの川について考えて見なかったのは真に迂闊だった。そう気づいたのは今年(2017)の東北の春を訪ねる旅で、置賜の桜を見ようと長井市に立ち寄ったのがきっかけだった。

 丁度その時、長井市に新しく開設した道の駅のオープニングセレモニーがあり、偶々通りがかりに面白半分に立ち寄って、その人だかりを覗いていたのだが、その道の駅の名称が「川のみなと長井」というので、一寸興味を抱いたのだった。川のみなととは何なのだろうと思ったのである。港といえば海だけのもので、日本には川の港などというものは無いのではないかと思っていたからである。

でも、よく考えて見れば、港というのは人や物を運ぶ舟が出入りする場所なのだから、河岸といわずに港と呼んでも良い場所もあって不思議ではない、そう思ったのだった。しかし、なぜこの長井という場所が港なのか?というのは見当もつかない。傍を最上川が流れてはいるのだけど、港らしい場所など全く見当たらず、理由が解らなかったのである。

 しかし、オープニングセレモニーの会場の中に、何故川の港なのかの由来が書かれた表示板を見て、なるほどと納得がいった。それによると、江戸時代のこの地は米沢藩の治める所であり、長井は最上川の舟運を利用した藩の交易のための一大基地だったということである。往時の輸送手段の最大のものは船便であり、米沢藩においては、藩内で生産された諸物資を長井まで陸送し、そこからは最上川の舟運で日本海の最大の交易港ともいえる酒田まで運んで、全国各地との交易をおこなっていたということなのだ。従って長井という所は、舟運によって栄えた米沢藩の一大交易港都市だったわけである。

 このような歴史のことは、地元の人たちにとっては真に当たり前のことなのだと思うけど、いつも通過するだけの者にとっては、全く気づかない無知の世界だった。セレモニーが終わった後、街の中や最上川の河畔などを歩いて見たのだが、往時の繁栄の証と思われる建物が街中に幾つか見られたものの、港の名残のようなものはどこにも見当たらなかった。今更ながらに、舟運が消え、鉄道さえも活力を失いつつある今の時代では、昔の面影を残すことが難しいことを思い知らされた感じがした。

その昔の面影などどこ吹く風のごとくに、長井市の中心部脇を悠然と流れる最上川。この時期は雪解けの水を集めて水量は豊だ。

 このことがあってから、最上川に対する関心が高まったように思う。こあと、最上川の少し下流にある朝日町の道の駅に泊った翌朝、2時間ほど早朝に最上川に沿った国道や県道を歩いたのだが、雪解けの水で量を増した川は、幾重にも曲がって流れており、一所とてまっすぐに流れている箇所は見当たらなかった。このような川を本当に酒田まで舟を操ることが出来たのかと思うほど流れは急で、危険個所ばかりが続いているように思えてならなかった。往時の船頭さんや船乗りの人たちは本当に命がけで舟を操っていたのだと思った。

長井市の少し下流にある朝日町辺りを流れる最上川。遠望できるのは、昭和12年に造られた旧明鏡橋。今は土木遺産となっている。

 最上川舟唄というのがある。難し過ぎて自分には到底歌えない唄なのだが、聴くことはできる。その歌詞に耳を傾けて見る。

 

酒田さ行ぐさげ 達者(まめ)でろちゃ

流行(はやり)風邪など ひかねよに

股大根(まっかんだいご)の塩汁煮(しゅっしるに) 塩(しんにょ)しょぱくて くらわにゃえちゃ

碁点(ごてん) 隼(はやぶさ) ヤレ 三ヶの瀬(みがのせ)も

達者(まめ)でくだったと頼むぞえ

あの女(へな) 居んねげりゃ小鵜飼乗り(こうがいぬり)もすねがったちゃ

山背風(やませかぜ)だよ あきらめしゃんせ

おれを恨むな風うらめ

あの女(へな)ためだ 何んぼとっても足らんこたんだ  

            (正調 最上川舟唄 ※掛け声は省略)

 

これらのことばを話しているのをまともに耳にしたら、土地の人でない限り、恐らく殆ど意味不明としか受け取れないと思う。でも、こうして書いて見ると、しみじみと土地の船乗りの男の心情が伝わってくる。愛する女性を想いながら、彼女のために命がけで舟に乗って荷を運んでいる、その厳しさ、哀しさが伝わってくるのである。

 唄の中にも入っている難所の、碁点、三ヶの瀬、隼の瀬などの近くを何度も通っており、特に三ヶの瀬辺りは、どうしてこれほど曲がるの?と言いたくなるほど「つ」の字状の流れであり、こんな危険な場所を一体どうやって舟を操るのかと思うほどである。

 この最上川舟唄は、大江町の左沢(あてらざわ)が発祥の地だとか。この左沢は何度も訪れている。最上川の川筋で繁栄したのはこの左沢だけだと思っていたのだが、ターミナルとしての長井があったというのを知って、又新たな気分で左沢を見て見ようと思った。

左沢は現在国の重要文化的景観に指定された場所であり、この地にある楯山公園(元古城のあった場所)に上ると、最上川の舟運で栄えた左沢の町の様子が俯瞰できる。この場所も最上川が大きく湾曲しており、それを巧みに利用して、舟運を以て発展した町の様子を見下ろすことが出来るのである。舟唄から、何度も訪れている左沢の景観を思い出した。

大江町の楯山公園から見た左沢地区。川の両岸の河岸を中心に、最上川の中間の港として栄えた所である。今は国の重要文化的景観に指定されている。

 最上川には、現在は舟運なるものは消え去って、僅かに観光用としての舟が運行されているようだ。何年か前に、最上峡近くの道の駅で休んだ時は、近くに舟乗り場があって、観光客が舟に乗りこむのを、少し驚きを持って見たのを思い出す。舟に乗れば恐らくあの舟唄が流れるのであろうけど、それを聴きながら、舟乗りたちの命がけの思いを思い浮かべることが出来る人がいるのか、どうか。唄は残っても、歴史の持つ厳しさや哀しさが次第に色褪せて行くのは、これはもう運命としか言えないのかもしれない。

 今回の旅で初めて最上川が出羽の国に住む人たちにとって大河であるということを、そしてその意味なるものを知ったような気がした。この川は出羽の国を形成する大動脈であったのだ。この地に住む人たちの暮らしを自在に操って、時に厳しく時に温かく、そして少しずつ豊かにしてきたのである。大自然のその力を、改めて畏敬の念を以て感じたのだった。

 

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