山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

西海道&西国の旅の記録から(その5)

2024-07-12 16:54:54 | くるま旅くらしの話

<銀の馬車道>

最初これは何のことなのだろうと思いました。銀の馬車道というのはどういうものなのだろうと思ったのです。道の駅の名前なのです。神河町というのも初めて聞く名前でした。ここに泊ることを思いついたのは、初日に北陸道のSAに泊った後、翌日この辺りで泊るのが好都合と考えたからでした。この道の駅は、和田山から姫路に出る国道312号にあって、翌日岡山方面に向かうのに丁度よいポジションだからでした。それで、銀で思いついたのは、そう言えばこの辺りに生野銀山があったのだっけということでした。地図を見ると、生野峠というのがあり、近くに生野銀山があったことが書かれていました。生野銀山のことは土地勘も無く、ここが石見銀山と並ぶ我が国の銀の主産地だったというのは、名前だけ知っていただけで、今回初めて通る道なのでした。調べて見ると、生野銀山は千二百年を超える歴史を持ち、室町時代に本格的な開発が始まって以来、戦国時代には織田・豊臣氏が、徳川時代は天領となって、幕府の財政を支え、明治になっては、初の官営鉱山として外国の技術も導入して採掘が進められ、その後三菱合資会社に払い下げられ、昭和48年に閉山となったということでした。閉山後は昭和49年に史跡生野銀山としての事業が開始され、今日に至っているということでした。銀山といえば、何と言っても世界遺産となっている石見銀山が有名で、私たちも見学に訪れたことがあるのですが、生野銀山の方は、関東からは関心が薄れる距離にあり、今迄そのような歴史は知らずにおりました。時間があればその史跡を一度は見学しておく必要があると思いましたが、今回は後廻しとすることにしました。

道の駅に着いたのは18時頃で、既に売店等は閉まっており、銀の馬車道についての情報は、僅かしか得られませんでした。小さな道の駅で、交通量も少なくて、泊った一夜は静かに過ぎて行きました。

翌日朝になってから朝食の後、一人で付近を散策しました。銀の馬車道

というのは、明治以降採掘が本格化した頃に造られた生野から姫路の港まで銀鉱石を運ぶための馬車道が作られて、その道が丁度このエリアを通っていたということで、一部その面影が残っている場所があり、そこへ行って見ると、木造の馬が荷車を曳いている像がつくられて置かれておりました。生野から姫路まではかなりの距離があるので、往時はこの道をどれほどの馬たちが荷車を曳いて毎日通っていたのだろうと、その風景に思いを馳せました。山に囲まれた中を小さな川が流れ、その脇を行く道なので、道を作るのも、それを使うのもいろいろと苦労の多かったことだろうと思いました。まさに銀の馬車道だったのだと納得しました。

往時の人馬の喧騒は、今は山に吸い込まれて、ただ静けさだけが銀を運んだ歴史を包んでいると云った感じでした。

 

*銀の道消えても春の山深し

*銀(しろがね)は尽きて虚しき今の世に残る馬車道何を語るや

コメント
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