第3日 <10月25日(月)>
【行 程】 吉和SA → (中国道)→ 山口IC → (R262) → 道の駅:あさひ(山口県萩市) → (R262・K32) → 道の駅:萩往還(山口県萩市) → (R262・191) → 道の駅:萩しーまーと(山口県萩市) → (R262・191) → 道の駅:萩往還(泊) <267km>
萩はとんでもなく遠い。遠かった。けれど今日は確実に萩に入ることが出来る。維新間近の幕末の時代、日本中を歩き回った志士と呼ばれる人たちのエネルギーは相当のものだったと感嘆する思いがある。今の時代に、救国の理想を掲げて我が身のことも忘れて、只管(ひたすら)に信念を貫こうと動いている人が、この国にどれだけいるのだろうか。自分のことは措くとして、評論家の目で見てもその数は幕末には遠く及ばないような気がする。今日はその中心にあって活動した武士(もののふ)たちの生まれ育った街を訪ねることが出来る。
昨夜は高速道SAの割には静かで、心乱されることもなく安眠の時を過すことができた。ここで夜を過ごした車は、もしかしたら我々1台だけだったのかも知れない。夜中に雨がかなり強くなりだして、天井を打つ音で眠りを覚まされたりしたけど、明け方になる頃は小降りになったようだった。何しろ早く寝るので、目覚めも早くなり、何とか二度目の眠りを押し付けるのに苦労するのである。今回の旅では、携帯からのブログ投稿をしないので、旅が本格化するまでは記録を書く気にもなれない。記録の方は明日から始めようと思っている。夜が長いのも明日までのことだ。尤も邦子どのの方からすれば、明日からは寝ている間にパソコンの不吉なキーボードの音に煩わされるということになるのかもしれない。ミニ1Kの住まいでは、この改善はいかんとも仕方なく、諦めて貰うしかない。
吉和のSAには直ぐそばに公園のようなものが造られており、そこにはペットの水飲み場なども設けられており、給水には何の心配も無い。ゴミ処理にも心配は無く、本当にありがたいことである。準備点検を終えて出発したのは、9時15分だった。車の殆ど走っていない高速道路を、最後の運転を味わうべくゆっくりと進行する。坂道は時速60kmくらいとなったが、後続車もなく迷惑をかける心配も無い。少し紅葉の始まっている両側の山の景色を味わいながら40分ほど走ると、鹿野SAがあった。ここが山口ICから出る前の最後のSAとなる。ちょっと寄って行くことにした。用を足してトイレから出掛かる時に俄かに携帯が騒ぎ出した。見ると福島県のIさんからの電話だった。出発前のブログをご覧になっていて、我々が萩に向っていることをご存知だったようで、気にかけられての電話だった。Iさんご夫妻も、何年か前に萩を訪れておられ、その時は丁度時代祭りの開催中だったとのこと。長州と会津は仇敵の間柄だったけど、今では友好姉妹都市(正式にはどう呼ぶのかは判らない)となっているとかで、その時にも萩の人たちに温かく迎えて頂いて嬉しかった思い出があるという様な話をされていた。我々のことを盛んに羨ましがられているようで、チョッピリ申し訳ないような気がした。その後の話で、Iさんは難病に取り付かれて2ヶ月ほどは歩くこともままならず、ようやく最近歩けるようになったとか。驚くと共に、羨ましがられる訳の一つがそこにあったのかも知れないと気づいた。健康あっての旅であり、いつ何時我が身に災厄が降りかかるかも知れず、改めて安全運転と健康管理の大切さを確認した次第である。Iさんの一日も早い本復を祈るばかりである。
鹿野SAを出発するとほんの少しで山口ICだった。長かった高速道の運転もこれにて終了である。運転の心構えのギアをチエンジして、一般道のR262に入り、山口市方向に向う。今までと違って車も多く、道路の両側にも様々な建物が連なっている。ようやく人間界に戻ってきたという感じがした。郊外のスーパーに立ち寄り少々食材などの買物をする。思いついた時に買っておかないと、先のことは状況によってどうなるか分からないからである。今日の泊りは萩市街から少し離れた道の駅を予定しており、そこに必要なものが売られているかどうかは分からないし、買物をするのを忘れてしまうかもしれない。何度も失敗経験があるので、要注意というわけ。
R9と一緒だった区間を走って、R262は山の中の分岐路から萩に向うことになる。これは初めて通る道である。今までの萩行は別の道ばかりで、萩往還と呼ばれるこの道は初めてなのだ。かなり厳しい山道だったので、その昔はもっと大変ではなかったかと、再び幕末辺りの人々のエネルギーのすごさを思わずにはいられなかった。この往還路は、萩から山口を通って瀬戸内側の三田尻(現防府市)に抜ける道を指すのだろうか。よく分からないけど、旅から戻ったら調べる必要があるなと思った。
山の中をしばらく走ると旭村というのがあり、そこの道の駅:あさひにちょっと立ち寄ったのだが、まあ、呆れ返るほど何もない。この村では野菜などは販売するほどは作っていないのかなと思った。この村の人たちは何で生計を立てているのだろうかと、不思議に思うくらいだった。何か獲物をと少し期待していただけに落胆は大きかった。しばらく走ると県道32という標示板が目に入った。確か道の駅:萩往還に行くにはこのナンバーの県道を左折するのだと思い込み、しばらくそこを走ったのだが、一向にそれらしき雰囲気が感ぜられない道なのである。おかしいなと思いながら走っていると、何といつの間にか秋芳洞に向うR490などという標示板となっているではないか。何だこれは!と、ようやく道を間違えたのに気がつく。改めて地図をよく見たら、R262から左折する県道32は二つあって、早まって間違った方へ行ってしまったのだった。7kmほど後戻りして、元のR262に出て、本物の県道32に出るまでにはかなりの無駄走りをしてしまった。こちらの県道の方は先日の大雨で地盤が緩み、現在は道の駅までしか行けないとのことで、問題を抱えているようだった。とにかく道の駅に行ってしばらく休むことにする。駅の駅:萩往還への到着は12時20分だった。
この道の駅には、吉田松蔭記念館というのがあり、吉田松陰の生涯に関する諸資料の展示・解説とその主な門下生のことなどについて紹介している建物が併設されており、その建物の前には、松下村塾の主な人物の銅像が建っていた。明治の元勲(げんくん)といわれる人たちも何人か居るかと思えば、又そこに至らぬままにこの世を去った人たちも並んで立っていた。この方たちは皆この往還を何度も通って、己の志を果たすために活躍したのであろう。トンネルを二つ潜った県道32の正面には、「萩にようこそ」という大きな歩道橋のような門のようなものが設えてあり、その先は有料道路となっているようである。今は交通が規制されており、先ほどのR262の分岐の所には通行止めとの表示もあった。萩に入るのはこの道の方が遙かに短距離であり、その昔はR262の道は、無かったのか、あっても阿武川沿いの細道程度で、メインはこの県道の方だったのではないか。その様に思った。
道の駅:萩往還にある、県道32号を跨いで作られた「ようこそ萩へ」の歓迎門。しかしこの日は大雨等の災害で、この往還を利用することはできなかった。
吉田松陰と松下村塾については、多少なりの知識は持っているつもりだけど、もう一度ここでおさらいをするのもいいなと思った。邦子どのはあまり知識もなさそうで、松陰先生のことを何故なのか松下さんなどといっている。いい機会なので、今日は二人とも萩について勉強する日とすることにした。邦子どのは早速道の駅の様子を見に行ったが、こちとらは先ずは腹ごしらえを優先することにして、先ほど買ってきたうどんを温めて昼食の準備をする。
昼食の後は早速吉田松蔭記念館へ。凡その略歴などは何冊かの本や資料で知っているつもりなので、見るものの中心は残された手紙や書などとなった。読めない字も多いが、書を見ているとそれなりの覚悟とか生き方の強さというようなものが伝わってくる。明日にも命が絶えるかもしれないという状況の中で、これだけのものが残せるとは! この人物には人間の限界を超えたようなものを感じたりした。こうやって、人物の過去を見ながら評価をしたり感嘆したりできるのは、今を生きていることが出来る人間に与えられた最高の特権なのかも知れない。往時の世の中の変転の激しさというものは、そしてその激動の渦を巻き起こした核に居た人たちの、現代に対するコメントは如何様なものなのであろうかと思った。
松蔭記念館。道の駅:萩往還の直ぐ隣に建てられている。吉田松陰を中心に、幕末・維新に貢献した人びとの紹介や諸資料等が展示されている。また、記念館の前には主だった塾生の銅像が造られている。
その後は道の駅の売店などを一通り覗いたが、地酒があるのを確認し、今夜はあれで一杯やろうと密かに心に決めたのだった。車に戻って旅の記録の整理に取り掛かることにした。邦子どのは、その後もしばらく館内に残って熱心に勉強しているようだった。この人の勉強方法は、自分で資料を読むというよりも、館内にいる人の解説を聞くことがお好きなようだ。、確かにその方が手っ取り早いのだと思うけど、後で聞かされる話の中では、肝心のことよりもその解説員の方の家庭の事情などの話が多いのは不思議なことだと思う。ま、その人なりの学びの流儀というものがあるのであろうから、それで良しということなのであろう。
車に戻ってしばらく休憩したのだが、日暮れまでにはまだかなり時間が残っているので、明日の散策の下見に行くことにした。萩市街近くにはもう一つの道の駅もあり、又駐車場などの様子はどうなのかを見ておきたいということもあった。直ぐに準備して出発する。20分くらいで萩の街に入る。今までは松蔭神社に寄ったほかは素通りしており、城下町としての萩を散策したことはない。従って町割りなどがどのようになっているのかさっぱり分からない。先ほど貰った案内図では、海に突き出た扇状地のような所に城と町が築かれているようである。博物館などの案内表示に従って川沿いの道を進んでゆくと、やがて海が近くなり、そこに指月山が迫ってきた。萩城は指月城とも呼ばれており、海に突き出た標高150m足らずの指月山は、真に目立った山塊である。その麓に城があったらしい。城跡への入口を過ぎると少し先に菊ケ浜というのがあり、そこに無料らしい駐車場があるのを邦子どのが見つけた。直ぐ海の傍で、街の中心街からも近い。ここに車を置けば、明日の市内散策はOKだと思った。でも道の駅で邦子どのが聞いた話では、博物館に有料駐車場があるとのことで、そちらの方が便利かも知れないと思い行ってみることにした。博物館は菊ケ浜の駐車場からは直ぐ近くだった。これならわざわざ300円也を払わなくてもいいと思った。
博物館の後は、近くにある道の駅:萩しーまーとに行ってみることにした。ここには以前立ち寄った記憶がある。しかし良く覚えてはいない。行って見るとチョッピリ記憶が甦ってきた。あまりきれいな駅舎ではないけど、まーとというのであれば市場風であるに違いないから、それで良いのかも知れない。ここには水を汲める所がないのが残念である。とにかく今日はここに泊るのはやめて、やはり道の駅:萩往還の方にすることにした。細かな探訪先は明日歩きながら確認してゆけば良い。今日のところはこれくらいにして引き上げることにした。既に16時が過ぎており、暗くなり出している。
道の駅に戻ったのは17時頃か。どうしても酒を買おうと、直ぐに売店に向う。地酒の宝船というのがあり、その中から一番好きな純米酒の西都の雫というのを買う。その夜はこれをしっかり味わいながら、早めの就寝となった。
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