山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘16年 東北春短か旅 レポート <第12回>

2016-05-27 05:03:56 | くるま旅くらしの話

【今日(5/27)の予定】 

  道の駅:さんない →(R107)→ 道の駅:東由利 →(R107・R7)→ 道の駅:象潟(泊)

 

【昨日(5/26)のレポート】  天気:曇り時々雨

<行程>

道の駅:なかせん →(R105他)→ 角館町観光駐車場 → 角館町並み散策 →(R105・R13・R107他)→ 道の駅:さんない →(R107・K1)→ 碧祥寺博物館 →(K1)→ 沢内バーデン(温泉入浴)→(K1・R107)→ 道の駅:さんない(泊)

<レポート>

 明け方になる前から雨だった。今日は終日の雨となるのかなと思いながら、いつものように朝の処理を済ます。今日は午前中に角館の重伝建を中心とする町並みの散策をし、その後は少し気分を変えて、まだ一度も行ったことのない西和賀町という和賀岳の西の山奥の集落にある博物館を訪ね、その後は途中にある温泉に入り、横手市の郊外の山間部エリアにある道の駅:さんない(=山内)に泊ることにしている。これは今朝ブログの投稿が済んでから決まったことで、段々行程計画がずさんというか、決まらなくなって来ている。

 8時半ごろに出発したのだが、雨は止んでいて、この分だとどうやら曇りのままで続いてくれそうな空模様である。15分ほどで着いて、車を駐車場に置いて早速早朝散歩に出かける。角館はもう何度も来ている場所で、桜の季節に係わらず、念に一度ほどは来訪している。我が家の味噌はこの町にある安藤醸造のものを愛用しており、無くなると取り寄せて賞味しているので、我が家の味噌汁や味噌を使った料理は角館の味ということになる。もう十数年も昔からそうなっている。今日の散策は、先ず武家屋敷の緑に染まる空気を堪能すること。その後はこれも必ず寄る武家屋敷小人町の組屋敷の姿を残す松本家を覗き(ここでは現在はイタヤ細工の名人が籠などを編んでデモをしている。今は代替わりして女性の方が担当されている)、その後は町の人たちの守護を受け持つ神明社に参拝し、あとは車に戻って相棒の帰りを待つだけである。

 武家屋敷の9時前の朝は、清新な新緑の世界に包まれており、未だ車も人も殆どない通りは、その昔の風情を僅かだけど漂わせており、観光まみれの地から抜け出ているのを感じた。ゆっくりと歩きその空気を味わいながら松本家に至る。早やくもイタヤ細工の女性が出勤して来ていて、準備に取り掛かられているようだった。相棒はここの先代の方から網籠を幾つかオーダーして買っており、女性の代になってからも笊などを手に入れている。今日も何やら長話となり出したようなので、別れて神明社の方に向かうことにした。途中に薬師堂というのがあり、ここか神社なのかお寺なのか判りにくいのだが、取り敢えずお教の方を選び般若心経を誦した。そこから600mほど歩いて神明社に参詣する。ここに参詣するのは、一つはちょっとした高台にあるので、角館の町が展望できること。それからもう一つは、旅の先達として尊敬する菅江真澄の碑があること。菅江真澄は、三重県の出身だけど、後世は秋田の久保田藩と深く係わり、この角館が終焉の地となっている。それで、何時も立ち寄ることにしている。参拝が終わった後は、町の裏側の細い路地などを歩き回って、観光地の表と裏の関係、表情などを見て回りながら車に戻る。1時間半ほどで万歩計は1万歩を越えていた。あとは相棒の帰りを待つだけ。

   

朝の武家屋敷の佇まい。静まり返った大通りには葉を目いっぱい茂らせたしだれ桜の大木が緑の世界をつくり出していた。

   

旧松本家の端正な佇まい。小人組というから微録の家だったのだと思うけど、いかにも真面目な家という住まう人の人柄が表れているようで、共感と親近感を覚える家だ。

     

神明社境内にある江戸時代の旅の名人の一人、菅江真澄の終焉の地の碑。

 朝の雨が嘘のように空には青空が見え出し、車の天井のソーラーが活躍し出した。かなりの蒸し暑さである。窓を開け風を通して相棒が戻るまでの間、パソコンに向かう。一段落をしても戻らず、未だどこかで獲物を見つけたのかなと思っていたら電話があって、これから戻るとのこと。しかし、その後もなかなか姿を表わさず、結局戻ったのは11時半近くだった。ま、満足顔なので、待ちくたびれた文句などはいうのを止めることにした。この後、昼食は横手焼きそばを味わうことにして、出発する。

 しかし、毎度判っていることなのだが、横手焼きそばをどこに行ったら食べられるのかが事前には不明なのだ。市内に入って、どこかにないかと探すのだが、あったためしがない。思うにこの遅れて有名になった食べ物は、夜の世界に活躍する類ではないか。看板を掲げる店が一つっ見つからないのは、何だか裏切られたようで、がっかりした。そのまま通りすぎて、西和賀町に向かう途中にある道の駅:さんないに行き、そこで何か適当なものを探して昼飯にすることにした。さんない(=山内)の道の駅は十年以上も前に一度寄ったきりで今回は2度目である。昔の記憶は薄れており、何だか違う場所に来た感じがした。レストランに入り、今日は軽めにしようと蕎麦を註文する。どうなのかと思いながら出汁を掬って飲んだら、うまい!のだ。蕎麦も美味かった。焼きそばよりもこの日本の正当の味の方が上のように思った。十二分に満足する。

 その後は、西和賀町にある碧祥寺というお寺にある博物館を訪ね、帰路に沢内バーデンという温泉に入って、この道の駅に戻って泊りにすることにしている。西和賀町というのは古い地図には載っていない。平成の大合併で湯田町と沢内村が一緒になって生まれた町なのだ。ここはもう岩手県となる。ついでに地図を見ると、西和賀町は何と花巻市や奥州市と境を一緒にしているのだから驚く。岩手県の自治体の面積は広く、守谷市などは西和賀町の10分の1にも満たないのではないか。R107から県道に入り、30分ほど走ると碧祥寺博物館の案内板があった。車を留め、中に入る。

   

碧祥寺博物館の一棟。この他に4棟もの資料館があり、今まで見た幾つのも歴史民俗資料館の中では最大規模ではないかと思った。今回は下見ということにして、次回は時間をかけてじっくりと見学したい。

誰もいない。声をかけると受付の女性が出て来られた。博物館は幾つかのテーマ別の建物に別れており、全部を見ると優に1時間を超えるというので、この後の入浴のこともあり、取り敢えず暮らしの用具などを集めた館とマタギの用具などを集めた館の二つを見ることにした。あとの残りは今度来た時にすることにした。それから40分ほどそれぞれの館内の展示物を見せて頂いたのだが、まあ、その数の多いことに驚かされた。江戸から明治、大正、昭和までのこの地における暮らしの歴史の変遷が手に取るように分かる気がした。撮影厳禁なので、掲載は出来ない。今回は予備知識なしでの野次馬見物なので、マタギのことなどは少し下調べをして勉強してからもう一度じっくり見させて頂こうと思った。アイヌの衣装や祭祀の用具なども展示されており、この地にはアイヌの人たちも住んでいたのだと理解した。山内をさんないと読むのは、その証左なのかもしれない、などと思った。

帰り際に受付の方から面白いものを紹介して頂いた。それは杉の木と橡(とち)の木が根元の下部のところで合体しているもので、どちらもかなりの巨木なのである。連理の木というのがあるけど、こちらは同じ種類の木なので何となく理解できるのだが、このような異種の木同士が合体しているのは見たことがない。自分的にはこの2本の木は根元の所でお互いに相手に食い込むほどの押しくらまんじゅうをしているのではないかと思った。不思議な樹の姿だった。

   

根元が合体しているように見える不思議な樹木たち。右側は杉、左は橡の樹である。根元の方には寄生樹なのか、名も判らない小さな木が芽生えていた。

その後は、来た道を少し戻って、沢内バーデンという入浴施設にゆく。ここも温泉博士誌の紹介での無料入浴である。少し熱かったけどいい湯だった。源泉は60度だという。それをそのまま使ったサウナもあって、北欧タイプのサウナとは違った味わいがあった。1時間ほど温泉を楽しみ、その後は今日の宿泊地の道の駅:さんないへ。入浴していることから雨が降り出し、道の駅に着いた時は地面はすっかり濡れていた。今夜からは本降りの雨になるのかもしれない。明日は移動日なので、雨の中の走りとなるのかもしれない。TVを見るよりも眠気の方が優先して、夕食のあとはたちまち寝床の中に。

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