山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘17年 東北・信越の春訪ね旅 レポート <第16回>

2017-05-06 05:03:45 | くるま旅くらしの話

【これから(5/6以降の予定】 

  今日10時にトヨタに車を持って行き、その診断の結果、これからの動向が決まることになる。

 

【今日までの凡その暮らしざま(5/2~5/5】 天気:概ね晴れ      

<滞在・宿泊>

 各日、終日イオン横手南駐車場にお世話になる。

<レポート>

  毎朝、城跡に造られた横手公園まで、コースを変えながら往復している。片道3.5kmほどあるので、往復すると7kmくらいは歩いたこととなる。万歩計はこれだけで約1万3千歩となる。この歩きは楽しい。天気の悪い時は気づかなかったのだが、風が吹いた晴れの日の翌日には、真っ白な雪を冠した鳥海山が南西の方向にくっきりと見えて、その神々しい景観は息をのむほどだった。今までの東北の旅では、鳥海山は日本海側の方からしか見たことがなかったのだが、内陸側の横手市からも遠望できることを初めて知った次第である。横手公園の桜はもうすっかり花を落とし、まだ若葉が出始めたばかりの、やや中途半端な状態なのだが、この鳥海山を眺めるのが、今のところ一番の楽しみとなっている。

市街地の彼方には、純白の雪化粧をした鳥海山が、神秘的な佇まいを見せている。この姿を見るたびに元気が回復するようだ。

  横手市といえば、我々の世代ではやはり石坂洋次郎という作家のことを思い出すことになるのかもしれない。石坂洋次郎は、若き頃にこの横手市で12年間当時の中学と女学校の教員を務めた人である。市内には文学記念館も建てられており、市に所縁のあった人物として大切にされているのが判る。彼の作品としては、「青い山脈」や「若い人」などが有名だ。自分もあの頃は相当に熱を上げて本を読んだのを思い出す。映画もかなりの評判だったようだが、若い頃の自分は殆ど映画というものを見たことがなかった。映画などという誰かの作ったイメージに捉われるよりも、本を読みながら自分自身が勝手に描くイメージの世界の方が層倍楽しく面白いと思っていた。だから、青い山脈の歌は知っていても、映画は見たことがないのである。青春時代の様々な出来事を描いたそれらの作品は、恐らくこの横手市での彼の暮らしがベースとなっていたに違いない。そのようなことを想いながら、横手の街中を、特に古い街の方を中心に歩きまわっている。

石坂洋次郎文学記念館。早朝なので中に入ることはできなかった。ここは彼が最初に赴任した女学校(現横手城南高校)の近くにつくられている。

  横手市は、人口が約10万人で、秋田県では秋田市に次ぐ2番目に多い都市だ。江戸時代は秋田佐竹家久保田藩の支藩として、地域の政治経済文化の中心地としての役割を果たしていた。それは現在でも変わらぬ位置づけとなっているようである。これほど長い時間横手市に滞在することは初めてのことなので、街中を歩いていると、様々な発見があって面白い。現在城跡の本丸近くには天守閣を模した建物が造られているけど、元々はこの城には天守閣は無かったということである。本丸跡には秋田神社が建っており、これは戊辰戦争で亡くなられた方たちの霊を弔うために建てられたとか。戦というのはまさに破壊行為であり、人命のみならず、そこにあるあらゆるものを失わせてしまう。愚かにも哀しい人間の本性なのかもしれない。このような碑や祀りを見る度に抱く感慨である。

横手城本丸には秋田神社が勧請されているが、この建物はそのすぐ下に建てられた資料館である。ちょっと見には城郭の櫓のように見えるけど、その昔この城に天守閣はなかったということである。

その他、城跡付近では、旧日新館というのがある。日新館といえば、会津の藩校のことを思い出すので、ここ横手にも同名の藩校のようなものがあったのかと思ったら、そうではなく明治の昔に横手中学に英語教師としてやって来たアメリカ人の住んでいた家ということだった。木造の洋風建築で、秋田県内では明治時代の木造建築物としては、残存ずる唯一の存在だとか。今でも健在でその姿を保っていた。前庭には丁度今花の最盛期を迎えたシラネアオイが薄紫の花を誇らしげに咲かせていたのが印象的だった。

旧日新館の建物。急坂を登って裁判所の少し先にこの建物があった。アメリカの人は、やはりアメリカ流の住まいでないと暮らしが難しかったのであろう。

また、旧日新館の少し先には本多上野介正純父子の墓が作られていた。本多正純といえば、徳川幕府の草創期に活躍した重臣の一人であり、その父正信のもとに幕府の体制を固めるに関して大いなる貢献をした人物と聞いているが、家康や正信が亡くなり、時代が秀忠になると、次第にうとまれるようになり、ついには失脚して久保田藩預かりの身となり、支藩であるここ横手の地に流され、厳しい監視の中に生涯を終えたということである。でき過ぎる人物が見舞われる不遇というか、哀しい人生の末路のようなものを感じて、人の世の難しさを改めて思わされたのだった。

本多上野介正純父子の墓。息子の方が先に亡くなったとのことであるが、権勢の中核にあった人物の思いは如何ほどのものだったか。人の世の変転の厳しさを思わせるものがあった。

神明社という鎮守社があり、4日と5日に大祭というのがあり、4日には例大祭で舞楽などの奉納が、5日は神輿の出御と還御の祭りが行われることをポスターで知り、とにかく時間を持て余しているので、好機とばかりに4日には例大祭を見に行って来た。停泊地からは約2km、歩いて30分ほどの距離に神明社がある。19時半から舞などが披歴されるというので、その時間に合わせて行ったのだが、何やら事前の儀式が数多くあって、舞の方は30分ほど遅れての開催となった。最初は朝日舞というもので、これは神主風の衣装をまとった男子が一人で神に奉納する舞を奉げるものだった。それが終わった後、今度は4人の巫女風の衣装の女性が扇と鈴とを両手に持っての舞だった。正式の筝や笛、鼓などが厳かに演奏される中での、清楚な装いの舞は、神様も満足されるに違いないと思われる雰囲気を持っていた。最後は舞楽ということだったが、これは男女二人の舞手が豪華絢爛とも言える衣装をまとい、頭にはどう呼べば良いのか判らないけど、烏帽子のような兜のような冠を抱いての優雅な舞だった。建物も境内全体もやや古びて元気を失った感じのする社だったが、これらの舞の中には、古来よりこの社を大切に守ってきた先人たちの思いがしっかり籠められている感じがして、とても充実した時間だった。21時少し前に例大祭は終了し、帰りは駅前からタクシーで異郷の我が家へ戻った。

横手神明社例大祭に奉納された浦安の舞の一場面。これらの舞などについては動画に収めてあるのだが、それは帰ってからじっくり鑑賞することにしている。

 

[ 滞在も9日目に入り、いよいよ今日はこの後どうなるのかが決まるのだが、今の予感としては、あと数日間は、部品などの到着を待つ暮らしを余儀なくされるのではないかと思っている。となると、この先更に、横手市の何を楽しむかを考えなければならない。さて、どうするか。 ]

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