山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

遠くへ行きたいなあ

2014-03-07 00:05:35 | くるま旅くらしの話

 去年の秋以降どこへも出かけておらず、せいぜい時々筑波山に登って帰ってくるくらいで、旅らしきことは何一つ実現していません。元々冬場は安全のことを考えて遠出の旅はしないことにしているのですが、今年は近場の旅も叶わない状態です。南房総の温暖地では、もう菜の花を初め、ストックやポピーなどの様々な花たちが畑を彩っているに違いないのですが、出掛けようとすると何かの支障などが起きたりして、あれよあれよと思う間に、とうとう三月も半ば近くになってしまいました。この後も三月には孫の誕生を控えており、旅に出掛けられないなどと愚痴を言っているどころではないことになっています。

 「遠くへ行きたい」という歌があります。永六輔、中村八大コンビの作詩・作曲によるいい歌ですね。ジェリー藤尾が歌って、もう何年になるのでしょうか。この歌を時々思い出し、口ずさみます。

<遠くへ行きたい>

知らない町を 歩いてみたい

どこか遠くへ 行きたい

知らない海を 眺めていたい

どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海

夢はるか 一人旅

愛する人と めぐり逢いたい

どこか遠くへ 行きたい

 

愛し合い 信じ合い

いつの日か 幸せを

愛する人と めぐり逢いたい

どこか遠くへ 行きたい

 もはや、愛する人とめぐり逢いたいという様な気持ちは殆どありませんが、新たな出会いにめぐり逢いたいとは強く思います。この歌には人が旅を求める本質のようなものがしっかり捉えられ、詩われているように思います。遠い、知らない町、知らない海、そしてそこに待ち受けている新しい出逢いは、旅ごころの源泉から湧いてくるイメージを含むことばだと思います。

時々、人は何故旅に出ることに憧れるのだろうか、と考えることがあります。自分は何故くるま旅くらしなどというものを取り上げて騒ぐのだろうか。ま、騒ぐほどではないとしても、もう十年以上に渡ってそれに囚われています。これはどうしてなのだろうかと思うのです。前述の詩の文句でいえば、何故遠くへ行きたいのか、知らない町や海を訪ねたいのかということになります。つまり旅への衝動といったものでしょうか。

今ごろ思っているのは、人間が旅を求めるのは動物だからという簡単な理由が根本に横たわっていて、そこから旅への衝動が生まれてくるのではないかということです。動物というのは、文字通り動くものです。動物が何故動くかといえば、動かないと生きて行けないようにつくられているからだと思うのです。じっとしていたのでは、生きるための環境適応が出来ないからなのです。動物は、動くことによって食べ物を手に入れ、新たな変化を受け入れて、自らの生命を保持することが可能となるのだと思うのです。

もし何年もの間少しも動かずにいたなら、動物は生き長らえるのは不可能でありましょう。それは、もはや動物ではなくなってしまいます。でも人間の場合は、人間の力を以って動かなくても生命を維持できることが可能ですが、ご本人の辛さはどんなにきついものかと思います。動けない辛さほど心身に堪(こた)えることはないと思うのです。人間は疑いもなく動物なのですから。

旅に出掛けたいという衝動は、動物としての人間の欲求の上位に位置するものであり、普段の暮らしの中で動き回っている人でさえも求めている願望なのだと思います。もしかしたら、自己実現の欲求の中に含まれるものなのかもしれません。とても大切な欲求に違いありません。

とまあ、このような理屈を思い巡らしながら、早く寒さが遠ざかって、花粉が消え去り、孫が無事に誕生して、桜が咲いて、新緑が輝き始めて、………等々、動物としての本能を満たし、自己実現の欲求を満足させる、遠くへの旅が実現できる日が手元にやって来る日を切願しているこの頃なのでした。ボヤきとなりました

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