2011年の東日本大震災以降丸3年ぶりの東北三陸沿岸を通る旅だった。大震災のあまりの被害の大きさに度肝を抜かれ、その跡を訪ねるのに気後れがあり、ずっと現地を訪ねるのをためらっていた。被災の現状を知ったら直ちにすっ飛んで行って救済や支援に身を乗り出すというのが人の道なのかもしれない。しかし、それが出来ない奴もいるのである。やれないのではなく、出来ないのである。人の道からは外れているのかも知れないけど、被災者に対する支援や復興への祈りの思いは、決しておろそかにしてはいない。自分はそのような人たちの中の一人である。
大変な出来事から3年が経って、ようやく今年は東北への旅を再開する気持ちとなれた。茨城県からは、大平洋側を遡るコースを辿れば、被災のその後のかなりの状況が判るのだろうけど、福島県では大地震という自然災害に加えて原発事故というそれを上回る人災問題発生して、今なお終息の見通しすらも立っていない状況にあり、通るにも通れない道路が通せんぼをしている。それで、今回は福島県を避けて、東北の真ん中を行って花巻まで行き、そこから遠野を通って釜石に抜け、その後陸中海岸沿いの道を久慈まで北上することにした。
釜石に入るまでは、大地震や津波による被災の痕跡はあまり感じられなかったのだが、釜石から国道45号線に入って北の方に少し行くと、大津波で冠水した場所を示す標示板があった。それらの箇所は予想をはるかに超えた場所にあり、こんなところまで海が押し寄せたのかと思うとぞっとする気持ちになった。そのような浸水箇所を示す標示板がその後も幾つも現れて、改めてあの時の津波の大きさ、凄まじさを実感したのだった。
更に北上を続けてゆくと、海岸付近の景色は7年前とは一変している感じの場所が幾つも現れた。一番感じたことは、以前よりも海が見える場所が増えたということである。以前は道路の脇にあった家々の連なりが、そこに海があるのを気づかせなかったのに、津波によって全ての家が流されて消滅してしまったために、見通しが利くようになったということなのであろう。しかし、何とも不自然な感じを拭い去ることは出来なかった。そして流された家々のあとには、破壊されたコンクリートの土台ばかりが残り、それを黄色い花を咲かせた名も知らぬ雑草が覆い隠そうとしているかのようにはびこっていた。荒野という感じの景観が随所に表れていた。その荒野の中に半ば壊れかけた家屋がそのままに放置されている所があり、そこに住んでおられた方たちの無念さが、そこに封じ込められたままになって、時間が止まっているように見えた。
流された家々の跡地にはいつどこから侵入したのか、黄色い花を咲かせた雑草がはびこっていた。前方の山の手前に応急の防潮堤らしきものがつくられていたが、その向こうは海。
それらの風景を見ながら、人々の平和な暮らしを一瞬にして奪い去った大津波のあの日の様子が鮮烈に脳裏に甦った。あの時はTVにくぎ付けになって、あれよあれよという間に押し寄せる大波の威力に息をのむばかりだったけど、現地にあっては、どういう思いでここに住む人たちは津波の恐怖に耐えたのだろうか。やがて波が去って、残された住まいの跡かたもないその暮らしの場を、どんな思いで見やったのだろうか。3年以上が経った今だからこのような思いを抱くだけで済むのかもしれないけど、往時の現地の人々の恐怖と絶望の思いを改めて強く感じたのだった。
更に30分ほど走ると少し平らな場所に出たのだが、そこは後で地図を見たらどうやら大槌町の鵜住居(うのすまい)という地区の辺りらしかった。左手の小高い山の裾に辛うじて残ったと思われる神社があった。車を止めてその近くまで行って見ると、何やら張り紙がしてあり、そこには鵜住神社とあった。この神社も津波に襲われたようである。30段ほどの石段の上が境内の広場らしいのだが、恐らく津波はそこまで押し寄せたのに違いない。門前の木製の鳥居は残っていたけど、恐らくその付近にあったであろうと思われる建物や民家は流されてしまったのか、全く何も残っていなくて、ただ雑草がはびこるばかりだった。神社の下方の平地にはかなりの数の民家があった筈に違いないのだけど、今はもうただ土台の残骸が残るだけで、新しい家も殆ど再建されてはいなかった。国道45号線を挟んだ右手側の海に近い方の土地は、もう完全に荒野化しており、これから先人が住もうという気配は全く感じられなかった。この辺りは本当に復興というコンセプトに含まれているのかと思われるほど、具体的な再建の進捗が見受けられなかった。
海に近い山際にある鵜住神社。本殿を除く他の建物はすべて流失してしまったらしい。又、この手前左右には民家が密集していたと思われるが、今は荒野と化していた。
傍に独立行政法人都市再生機構発注の「震災復興の調査をしています」と書かれた看板があり、期間は平成27年の2月28日までとあった。調査すらも未だ終わっていないこのようなペースでは、復興などは間もなく押し流されて、消え去ってしまうのではないかと思った。また、なぜ都市再生機構なのかなとも思った。役人たちの考えやることは到底理解できないことばかりである。現地に住んでいる人たちとの大きな意識と行動の乖離を垣間見た感じがした。
少し先に行くと、黄色い花を咲かせた雑草の彼方の丘の袂に、横に長く墓標の連なる墓が遠望できた。もしかしたらあそこまで津波が押し寄せて行ったのかもしれないなと思った。黒く光る墓石を見ていると、そこには津波による災害で突然命を失った人々の悲しみの涙が光っている様にも見えて、胸を締めつけられる思いがした。その少し先に、幾つもの新しいお墓があるのを見た時には、一層悲しみの思いを止めることが出来なかった。
山際には剥き出しとなった墓が連なっていた。以前はこの手前に民家が幾つもあって、墓の存在など気付かなかったのだが。
そのあとの国道45号線は、同じような悲しみの風景をずっと左右に展開しながらどこまでも続いているように思えた。過去にも何度も大地震の起きる度に大津波に襲われて暮らしを奪われ、途方にくれた筈なのに、人はなぜこの地に暮らしを求めるのだろうか。ふとそのような疑問を抱いたりした。その答えが何なのかは解らないけど、恐らく人間はこの海に近い場所が好きなのであろう。どんなにそこに危険があることを知っていても、この大自然との共存を諦めることが出来ない何かがあるに違いない。いろいろ理屈はあるのだろうけど、究極的に人間は海の傍のこの地が好きなのだと思う。それ以外にどんな理由もないような気がした。
その後も走っては停まり、停まっては走り続けて宮古市の港にある道の駅に到着した。ここで遅い昼食を摂ったのだが、震災の前の道の駅とは場所は同じでも建物も景色も少し違うように感じた。「シートピアなあど」という名の駅舎の建物は、以前にもあったように記憶しているけど、恐らく大津波に洗われてしまって、それまでの姿を喪失してしまい、新たに作りなおされたのではないかと思った。建物の外壁の一部に、津波に襲われた時の海面の高さが線表示されていたけど、それは3mを遥かに超えており、恐らく波が収まった後には抜け殻となった建物が残っただけだったのではないか。中に入って見ると、以前にもまして洗練された売り場が用意されていたのだが、何だか宮古の海の野性味が削がれた感じがして、寂しく思った。自分のような老人には、あまりきれいになった魚売り場などには魅力を感ずることが出来ないのだが、若い世代は清潔などという価値観がそれほど大切に思われているのかと、少しがっかりした。
道の駅:宮古は港の中にあり、駅舎のシートピアなあどの壁には、津波の高さを示すライン表示がしてあった。
その後、更に北上を続けて、久慈市の街中の道の駅まで行き、そこから先は海岸線を離れて山の中の道を行くことにしたのだが、釜石から久慈までの国道45号線沿いの被災跡の景観は、名も知らぬ黄色の雑草(図鑑で調べても不明だったので、黄色いペンペン草と呼ぶことにした。イヌナズナという黄色い花を咲かせるナズナがあるけど、津波の跡地にはびこる野草は、それとは違ってより菜の花に近い花を咲かせていた)が勢いを増して進出した荒野が幾つも広がっており、復興を実感するには程遠い現状だなと思った。
大震災から3年が経って、どれくらい復興が進んでいるのかを見てみたいという思いがあったのだが、ほんの一部を見ただけではその状況を判断するのは到底無理だなと思った。あまりにも規模の大きい災害だったので、復興には優先順位などもあるだろうから、その全容を確認するのは担当大臣ですらも困難なのかもしれない。しかし、庶民の旅人の目から見る限りでは、復興は庶民の被災者に期待と希望を抱かせるような、そのような施策からはかなり遠くにあるように感じられてならなかった。 (2014年東北春旅より)