山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

デンデラ野という文化的景観  

2014-07-06 02:28:42 | 旅のエッセー

 今年の東北への春旅の中では、楽しみの一つに国指定の「重要文化的景観の探訪」があった。文化財にもいろいろあるけど、景観が文化財として指定されているということを知っている人は意外と少ないのではないか。「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で、我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」というのが文化財法に規定されている定義である。現在全国で43地区が指定されており、最も多いのが九州地区で15カ所に及んでいる。最も少ないのは関東地区で、利根川・渡良瀬川合流域の水場景観(群馬県邑楽郡板倉町)のたった一つしかない。

 このような文化財があることに気づいたのは、7年前に東北は岩手県一関市の本寺地区を訪ねた時だった。その当時はまだ中世東北の藤原文化の遺産である中尊寺金堂や毛(もう)越寺(つうじ)などが世界遺産に登録されていなかった時で、その申請に当たって本寺地区も一緒に登録が考えられていたのだった。この地区はその昔は骨寺と呼ばれた中尊寺に関わる荘園があった所で、平安時代の古地図のままの景観が現代に残っている場所として、珍しいとされていたのである。しかし、世界遺産の審査関係者は、中尊寺を支えたその歴史的な価値を理解することが出来ず、ただ見てくれの派手な部分だけを世界遺産として認定しただけだった。これは驚くべき軽薄な認定だったと自分は思っている。

話が少し横に逸れたが、東北エリアには、この骨寺地区以外には2カ所の文化的景観の指定場所がある。その一つが岩手県遠野市の荒川高原牧場と土淵山口集落であり、もう一つが山形県大江町の左沢(あてらざわ)地区である。今回の旅では、幸いなことに、これらの全ての箇所を訪ねることが出来た。文化的というその景観の意味する価値がどれほどのものなのか、それを本当に理解するにはまだまだ往時のそのエリアにおけるくらしの在り様についての学びが不足していることは自覚しているところではある。

このテーマに取り上げた「デンデラ野」というのは、遠野市の土淵山口集落の景観の中の一つである。遠野といえば、誰でも思い浮かぶのは、我が国の民俗学の父と呼ばれる柳田国男の名著「遠野物語」であろう。遠野が全国に知られるようになったのはこの著作に負うところが大きいと思うし、また柳田を側面から支援した地元の佐々木喜善という方の力も大きかったのだと思う。重要文化的景観に選ばれたのも、このお二人のその昔の遠野に残る伝承を今に伝えた力に与(あずか)ることが大きいように思う。遠野物語は、その書名だけを知って実際は読んでいない人たちも多く、今の時代は特にダイジェストの知識で知ったかぶりの人が多いので要注意である。(もしかしたら、この自分もまた同類なのかもしれない)

今回の旅に出掛ける前に、遠野を訪ねて改めてその重要文化的景観なるものを見てみようと決めていた。今までにも遠野は何回か訪れており、語り部の民話を聴いたり、曲がり屋、或いはカッパ渕などの名のある所はそれなりに見ていたのだが、この文化的景観なるものには気づかず、特に山口という集落には行ったことがなかったのである。土淵集落の方は、伝承園や常堅寺やカッパ渕などがあるので、その一部を訪ねているのだけど、こちらも景観という視点からは考えたこともなく、ただカッパを釣るにはキュウリが有効だなどというバカ話を現地で笑い含みで確認しただけだった。

今回の旅では、佐々木喜善氏の生家のある山口集落を中心に、歩きながらそれらの文化的景観なるものを味わうことにした。勿論事前に改めて遠野物語をじっくり再読した。明治時代の半ば過ぎにまとめられたこの著作は、戦後の時代でさえも日本のチベットなどと揶揄(やゆ)された岩手県の山間の人々の暮らしのあり様を彷彿させる内容だと思う。しかし、それは又現地を訪れない限りは正確なイメージが浮かばないものでもあると思う。

現代の今では、遠野を訪れても、ほんの少し山奥の地方ということ以外は、全国どこにでもある郊外のショッピングモールがここにもあって、往時を思い起こせるようなものは少ない。昔の姿を今に残すとことがどれほど難しいかというのを、旅の中で様々な文化財などを見聞する度に強く感じている。人間の暮らしというのは、常により良いものを目指して進化しており、それが生きものの環境適応という本性でもあるのだから、昨日の暮らしを何の工夫も無く今日、明日も続けるというのは、出来そうでなかなかできないことなのである。隣家がTVを買えば、自分のところだって買うぞ、洗濯機が入ったと聞けば、自分のところだって、というふうに、人間の本性は止まることなくよりベターな暮らしを指向している。ましてや、今日のように情報の溢れる社会では、昔をそのままの姿で残してゆくというのは至難のことであろう。

そのように考えると、文化的景観というのは、往時の歴史背景を出来る限り正確にイメージアップ出来る準備をしておかないと、上っ面の理解に止まってしまう。遠野を知るためには、本当は最低でも半年くらいは現地に足を据えて、付近の集落や山の中を歩き回るなどして、昔の臭いを嗅ぎ出すという様な体験が必要なのかもしれない。しかし、研究者でもない自分にはそれは到底無理なので、文献などをベースに想像力を膨らませて景観を味わうしかない。そのようなつもりで遠野物語を読み、現地の景観に触れたのだった。

山口集落は遠野の駅からは東に位置する六角(ろっこう)牛山(しさん)を超えて釜石方向に向かう笛吹峠を背にした小さな谷あいの集落で、その奥手の方にある水車小屋近くの駐車場に車を置くことにした。水車小屋の少し下方に佐々木善喜氏の生家があり、又近くには遠野物語にも書かれているダンノハナがあり、ここには佐々木喜善氏の墓もあると聞いている。案内マップでは、近くにデンデラ野というのもあると書かれていた。とにかく、これらの場所を一つずつ見て歩くことにした。

   

遠野市山口集落の景観。まだ田植え前の田んぼが広がる山間の田園風景が広がっている。

先ずは水車小屋に行って見た。昔のままの姿で残っており、水車の臼の機能は、手入れをすれば直ぐにでも稼働させることが出来る様な感じがした。小屋の中に足踏み脱穀機や唐箕などが置かれていたが、水車とは何だか不似合いな感じがした。村の水車という風情が存分に残っている場所だった。

水車小屋を出て少し坂を下ると、左手に佐々木喜善氏の生家があった。今でも子孫の方が住んでおられるらしく、不躾に中を覗く気にはなれなかったが、堂々たる曲がり屋である。今は瓦葺きの屋根となっているけど、その昔は茅葺きだったに違いない。そう思うと、100年以上前のこの集落の中でのこの家の位置づけのようなものが窺われて、参考になった。この家の中で、喜善氏は柳田国男と語り合い、近郊の民話や伝承などを集め、書き遺されたのだなと思った。それにしても、そのきっかけは何だったのだろうかと、民俗云々とは違う意味で興味津々である。

   

柳田国男の支援者として又この地における民間伝承等の収集者として大きな役割・功績を残した佐々木善喜氏の生家。今でも現役の堂々たる曲がり屋である。

佐々木喜善氏の生家からほんの少し坂を下ると、左手にデンデラ野への案内板があった。デンデラ野の話は、何年か前に遠野物語とは別のもので知ったのだが、そこが姥捨て伝説につながる老人遺棄の場所であると聞いているだけだった。遠野物語の中では、デンデラ野ではなく蓮台野と書かれており、更に次のような説明がある。「昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野に追い遣(や)るの習いありき。老人はいたずらに死んで了(しま)うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(のり)したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。」

少し行くと小さな川があり、そこに橋が架かっていた。山口川、高室橋とあり、その表示の上に小さな親を背負ったその子と思しき大人の像が貼り付けられていた。どうやら還暦を過ぎた自分の親をこの橋を渡ってデンデラ野に送って行く姿をイメージしての像らしい。早い話が、親をおんぶして捨てに行くという姿である。山口川に架かるこの橋が、老人にとってのあの世への入口といった按配か。楢山節考のイメージと重なるものがある。棄(き)老(ろう)伝説は大昔の貧しい時代には、この国のあちこちに潜んでいたのかもしれない。デンデラ野というのは一体どの様な場所なのであろうかと、複雑な思いは一層膨らんだ。

   

デンデラ野の入口となる山口川に架かる高室橋に取り付けられたレリーフ。子が老いた親を背負って捨てに行くというモチーフは、何とも哀しい。

高室橋を渡って直ぐ先の左手にデンデラ野に向かう小さな坂道があり、そこを50mほど歩くと、小さな野球場ほどの草原があり、その端の方に草ぶきの小さな円形の掘っ立て小屋が作られていた。どうやらその掘っ立て小屋を含めたこの草原がデンデラ野というものらしい。あの掘っ立て小屋が、老人たちが共同生活を強いられた場所なのであろうか。

   

デンデラ野の景観。向こうの小さな森の手前の丸い掘っ立て小屋が、あがりの家である。往時は一体どの様な状況だったのであろうか。ここは、冬に訪れた方がその厳しさをより実感できるように思った。

そう思いながらそこへ近づいて中を覗くと、「あがりの家」と書かれた木の札が掛かっていた。その意味は良く解らないけど、遠野物語の「ハカアガリ」という文語から想像すると、老人たちが農事から上がって集う家という様な意味なのであろうか。或いは、「アガリ」ということばには、「戻る」という意味の他に「出来上がり」「一丁上がり」というように「終わる」という意味があるので、此処は老人となっての人生の終わりの場所であり、あの世への旅立ちの場所という様な意味が込められ名づけられていたのかも知れないと思った。

あがりの家の中は、まん中に石で囲った囲炉裏がつくられ、鉤(かぎ)吊るし(=自在鉤)に鍋や鉄瓶などを掛けられるようになっていたが、それ以外には囲炉裏を囲んで木製の腰掛が円形に並べて作られているだけで、寝床などは何もなかった。恐らくその昔は、木製のベンチなど無かっただろうから、老人は地べたに藁などを敷いて囲炉裏で暖を取りながら、そのまま眠りに就くという毎日だったに違いない。小さな集落にはそれほど多くの老人がいたとも思えず、恐らく2~3人で身を寄せ合って暮しながら最後の時が来るのを待っていたのではないか。人間が生きるということの残酷さをこれほど想わせる景色は無いなと思った。

   

あがりの家の内部の様子。縄文や弥生の時代の住居と変わらぬほどの、或いはそれ以上に厳しい環境だったに違いない。

今の時代、高齢者世代はこのあがりの家のことをどう受け止めるべきなのだろうか。65歳以上の老人が全人口の四分の一を占めようとしている今、もしあがり家のようなものがあったとしたら、この世は一体どうなるのだろうか。想像もできない恐ろしい世界が現出しているに違いない。幸いなことに、今のところ棄老伝説などの入り込む余地は無いようである。

しかし、それは本当なのだろうか。今の世の高齢者は、あがりの家に住む老人よりもより多く生き甲斐を感じながら日々を送れているのだろうか。個人差は大きいのかもしれないけど、例えば不幸にして認知症などになってしまったり、自分で自分の面倒が見られなくなった時には、身内の者が経済的負担を賄えるならば、恐らくは老人ホーム等へ追い遣られざるを得ない結果となるに違いない。そしてそれすらも叶わない場合には、孤独死という様なものが待っているのかも知れない。それはデンデラ野に追いやられる以上に悲惨なことのようにも思える。何故なら、デンデラ野の時代は恐らく認知症などになる余裕もなかったであろうし、仮になったとしたらたちまち待っているのはあの世からのお迎えだけということだったであろうから。

今の世に、生きていることの自覚さえも失った状態のままで生き続けるということは、デンデラ野のあがりの家に追い遣られた者が、哀しみを通り越して諦めの宿命を噛みしめながら生きているよりも層倍の悲惨さの中にあるようにも思えるのである。死に時を選ぶこともできず、生き続けることは真に哀しいことである。

デンデラ野の掘っ立て小屋を後にしながら、思いは一層複雑となった。ここに来てこの景観を見ている自分も家内も、もし往時ならばあの掘っ立て小屋の中に横たわって、元気な時はハカダチとハカアガリを繰り返しながら、あの世からのお迎えを待っている世代なのである。デンデラ野は、老人がどう生きて死を迎えるかについて、これから先もずっとその時代に生きる人々に課題を与え続けるに違いないと思った。そして、改めて老計と死計の難しさを思ったのだった。(2014年東北春旅より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする