山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第6日(その1)

2011-12-03 00:20:25 | くるま旅くらしの話

 第6日 道の駅:津田の松原から道の駅:あぐり窪川まで

 

6日目の朝です。津田の松原は、文字通り津田町にある白砂青松の地です。いや、でしたというべきかも知れません。もうそれほど白さを自慢できるほどの砂ではなくなっているようです。白砂というのは日本中探してもそれほど残ってはいないように思います。幸い松の方はこの地にもまだたくさん残っているようです。一体何本ほどあるのか数えたこともないので見当もつきませんが、松原の名を貶めないだけの数はまだ残っていると思います。砂の中に黒松が植えられているのは、防風・防砂林として先人の人たちのご苦労の賜物なのだと思います。松林の中に入ると潮騒と一緒に海の香りが漂って来て、気分が落ち着きます。少し遠い所に水飲み場があり、給水のために重いポリタンを下げて何度か往復しました。

 

今日は高松在住の知人に会えればと思っていたのですが、その後何度か電話しても通ぜず、さりとて現役の人には迷惑をかけるので、今回はそっと通過することにしました。一応高知の方へ行って見ようと思っていますが、その前に家内の要望で観音寺近くにある第七十番札所の本山寺に参詣することにしています。本山寺は本堂が国宝となっているということです。高松市内を横切ってゆくわけですが、高速道を利用してみることにしました。というのも一般道では高松以外の都市部などを通過するのに結構時間がかかるのではないかと心配したからです。

 

高松市内で高速道の入り口を探すのに少し迷いました。20数年前とは道の様子も街の様子もすっかり変わっており、高松市内に入ると何が何だか判らない感じで、あてずっぽうに走ってようやく高松西ICというのを見つけて入ることが出来ました。あの当時はまだ高速道などは計画段階で基礎工事すらも始まってはおらず、どこにどんなICが出来るのかなど全く知りませんでした。松山に行くにもR11に頼りっぱなしでした。それが今では四国の各拠点都市に行くには、列車を待って乗るよりも早く車で到着できるというのですから、まあ便利になったものです。ま、その良し悪しや功罪はいろいろとあるとは思いますが、急ぎの用件の時にはありがたい道路環境となったことは間違いありません。

 

善通寺ICで降りて、R11を少し観音寺の方に向かって走ると、本山寺は直ぐに判りました。何度か訪れているお寺なのですから、迷わないのが当たり前ありましょう。途中の善通寺は弘法大師の生誕の地です。ちょっと寄るのがエチケットのようにも思いましたが、今日は失礼して本山寺の方に行かせて頂くことにしました。本山寺に着いて、ゆっくりと境内を一回りしました。四国八十八カ所のお寺はどれも規模が大きくて、歴史の重みを感じさせる風格のようなものがありますが、本山寺もその一つです。このお寺はどの建物も古くて貫禄があります。本堂が国宝となっているのは、それらの建物の中で一番古いものであるからなのかもしれません。五重塔もあり、これなども如何にも古寺の趣を示しています。10年前に自転車での巡礼の際には、このお寺の境内のベンチに一人座って、コンビニで買って来たおにぎりを食べたのを思い出します。52歳でしたなあ、あん時は。真夏のお盆近い時期で、冷夏と言われていた割には、その日はめっぽう暑かったのでした。納経を終えた後のホッとしたひと時が思い出されます。

今日は札所の売店でぼけ封じの六文銭のお守りを二つ買いました。一つは我々のため、もう一つは家内の母にプレゼントするつもりです。このお守りがどれほどの威力を発揮してくれるのか判りませんが、あの世に行くまで自分が自分であることを家内が家内であることを忘れないように守って欲しいものです。

 

参詣を終えて、さあ、いよいよ高知に向かいます。一般道を財田町の道の駅まで行き、そこからはR32を走って高知方面へ向かう考えです。高松に住んでいてもこの観音寺市へは札所めぐり以外では殆ど来たことがありませんでした。普段の暮らしというのはそのようなものです。特別の係わりが無い限りは、同じ県であっても行ったことも見たこともないという場所は結構多いものです。財田町も同じです。財田町といえば、冤罪に絡む殺人事件として長期に渡って話題をなした財田川事件が有名ですが、その地をまだ一度も訪ねたことはなく今日が初めての財田町の道の駅への立ち寄りでした。ところが行って見ると道の駅は今日は生憎とお休みで、野菜などの販売所も閉ざされており、トイレにお世話になっただけでした。小高い丘のような場所に道の駅はあり、財田町というのはどちらかといえば平野ではなく山地に近いロケーションなのだなと思いました。近くには温泉もあるようで、今度来るチャンスがあった時は是非入ってみたいと思いました。

 

財田からはR32に入りました。R32は香川県と高知県を結ぶ四国の大動脈ともいうべき国道です。この辺りからかなりの山道となり、しばらく走ると吉野川の上流にある池田町のある小さな盆地を通過します。池田町といえば高校野球の池田高校です。こんな山の中の小さな町の学舎の子どもたちが伸び伸びとした野球で他の有名校を次々と破り倒しての頂点到達は、胸のすくような痛快事でした。最近あまりその名を聞かないのはさびしい感じがします。今でも町全体を巻き込んだ早朝野球は続けられているのかな、などと思いながらの通過でした。

 

ここから先は、四国山脈の真ん中辺を切り裂いて流れる吉野川の急崖に沿った道となります。難所といって良いと思います。その名も大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)といわれている様に、その昔はここを通行するのに旅人たちは決死の覚悟を要したのではないかと思います。今は道は幹線の国道となって、それなりに整備されていますし、更なる山の上の方を高知自動車道という高速道が走っているようです。人間の欲望というのか願望というのは果てしなく膨らんで、限りが無いように思います。その昔仕事で高知へ行く用があって、ここを夜中に通ったことがあるのですが、雨降りなのに山の中腹やその又上の方に星のような輝きがあって、一瞬どうなっているのだと思ったことを思い出します。かなりの山の山腹に人の住む家が点在していて、それが星のような光を放っていたのでした。平家の落人伝説で著名な祖谷の集落はこの大歩危・小歩危の谷あいのその又向こうの山奥なのですから、如何に負け戦の末路であったとしても、往時の落人の人たちの恐怖心というものは想像を絶するものがあったように思います。こんな山奥に家族共々に逃れ込んだのですから。

 

さて、この山奥の中に豊楽寺というお寺があり、そこに国宝の薬師堂なるものがあるのでそれを見たいというのが家内の要望です。今回の旅では重点的に文化財としての国宝指定のものを見てみたいということなのです。それらの国宝に関する資料もかなり持ち込んでいるようです。急崖の上に造られた道をしばらく走って、大豊町の寺内という所にそのお寺はあります。入り口の案内板がありましたので、そこから入ることにしました。しかし、しかしです。道が狭いのです。しかもかなりの上り坂です。薬師堂までは3kmと書かれていました。こんな細い坂道を3kmも行くなんて何だか無謀のような気がしました。離合もUターンも出来ない感じなのです。心配なので、近くにいた地元のお母さんに、この車で行っても道は大丈夫?と訊きますと、大丈夫だよ、観光バスも通っているから、とのこと。よし、それじゃあ思い切って行ってみるべえと先に進みました。

 

いやあ、それからのこの3kmの長かったこと。山からはみ出た崖の上を細い曲がりくねった道が続いており、なかなかそのお寺が現れてこないのです。眼下には遥か下方に細い白糸のようになった吉野川が見えます。高所恐怖症の気のある運転者には、肝の冷える走行でした。下を走るR32との標高差は300m以上はあったと思います。ようやく小さな広場があり、そこがお寺の駐車場でした。その上に法楽時があり、更にお寺の奥にある森の中に国宝の薬師堂が鎮座していました。ところが只今鐘楼は修理の最中で、がんじがらめの工事用の囲いが邪魔をして薬師堂も落ち着いて見るのが難しい雰囲気でした。鎌倉時代の創建とか、お堂の方はさすがに国宝の貫録を見せていました。それにしても今から800年以上も前の建築物が現在まで良く保存されてきたものだなと思いました。この地に住む人々の深い信仰心のお蔭だったのかもしれません。それにしてもこのような高地によくもまあ暮せるものだなと驚嘆します。昔の人々には、現代人には考えも及ばぬ別種の知恵が備わっていたのかもしれません。参詣の後、しばらく眼下の景色を眺望しながら一息入れたのでした。(つづく)

 

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