村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

松花堂昭乗

2015-08-06 23:35:54 | 茶の事
木曜稽古
今日は昼間だけ
坂誓さんと県々と樺ちゃんの三名
今日も暑い

写真は昨日の茄子の画の落款
南山道人
惺々翁



茄子を書いたのは
松花堂昭乗
複製だが


さてその松花堂
天正10年(1582年) - 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、
江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。
俗名は中沼式部。
堺の出身。
豊臣秀次の子息との俗説もある。

書道、絵画、茶道に堪能で、
特に能書家として高名であり、
書を近衛前久に学び、
大師流や定家流も学び,
独自の松花堂流(滝本流ともいう)
という書風を編み出し、
近衛信尹、本阿弥光悦とともに
「寛永の三筆」と称せられた。

天正10年(1582年)和泉国堺に生まれる『中沼家譜』。
天正12年(1584年)説は『松花堂行状記』による。
文禄2年(1593年)この頃近衛信尹に仕える。これは、
昭乗の兄(中沼左京)が一乗院門跡尊勢(近衛信尹の次弟)に仕えていたことによる。

慶長3年(1598年)石清水八幡宮に入り出家、
瀧本坊実乗に師事して密教を学ぶ。
その後、権僧都宝弁について両部灌頂をうけ阿闍梨位に上がった。

慶長20年(1615年)5月 大坂落城後、狩野山楽を匿っていたことで
徳川方の厳しい詮索を受けたが、
昭乗は「山楽は絵師であって武士にあらず」と言い張り、
事なきを得る。『本朝画史』

元和5年(1619年)5月~6月、徳川義直と近衛信尋を
対面させるため奔走する。『昭乗書状』

元和9年(1623年)6月 将軍秀忠・家光の上洛に際しての準備に奔走。

寛永元年(1624年)近衛信尋の推挙で将軍家書道師範として江戸に下向する。

寛永3年(1626年)6月11日、徳川義直を席主とした茶会
(昭乗は小堀遠州とともに近衛信尋、一条昭良、一乗院尊覚法親王、八条宮智仁親王等を招待)を催し、公武間の斡旋に尽力する。

寛永4年(1627年)実乗の死後(3月23日没)、瀧本坊住職となる。

寛永5年(1628年)7月 大徳寺龍光院密庵で、江月宗玩のために小堀遠州、狩野探幽とともに絵筆をふるう(床脇小襖絵)。
<典拠不明>小堀遠州は昭乗のために瀧本坊に茶室「閑雲軒」をつくる。

寛永6年(1629年)沢庵宗彭の紫衣事件による配流を嘆き和歌を贈る。

寛永8年~寛永10年(1631年 - 1633年)この間の茶会については『松花堂茶会記』。

寛永11年(1635年)6月 この頃徳川義直と面会。

寛永14年(1637年)11月、瀧本坊の焼失を期に瀧本坊を弟子の
乗淳(昭乗の兄中沼左京の子)に譲り、
自らは猩々と号して風雅の生活を送る。
12月、住坊泉坊の一隅に方丈を建てて松花堂と称した。
「12月16日付『昭乗宛遠州書状』及び12月23日付『永井直清宛昭乗書状』」

寛永15年(1638年)3月 江月宗玩とともに吉野の桜を見に奈良を旅する(『松花堂芳野道之記』)。
帰路、奈良野田の長闇堂に久保利世を訪ねる。
《ウィキペディアより》





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瓜茄子 うりなすび

2015-08-06 00:21:43 | 村雨庵 稽古 
水桶にうなづきあふや瓜茄子 蕪村


村雨庵八月の水曜稽古
八月でも休まず稽古をしよう
しかし
この暑さはなんだ
尋常ではない暑さだ
花を切りに外へ出た
水引と檜扇を切り
駆け足で家に入る

お弟子様はお越しだろうか
でも
お昼頃 さわわさんと
カズ様がお出まし
カズ様は夏の涼やかな着物
夏大島と羅の帯
見ているだけで良い気分
夏の着物姿は着るよりも
見るに限る
夜は鶴仙人と森金さん
暑くとも稽古に通う
少しずつ積み重ねよう


今日は
行の行台子
頭を使って暑さを忘れる
点前に集中しよう




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