村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

村雨庵歳暮の茶事 二日目

2014-12-15 23:28:27 | 村雨庵 茶事茶会
今日も茶事
午年生まれのA先生をお招きして
正午茶事
先生は私の師匠の宗栄先生と同じおとし
いつも、なくなられた宗栄先生をA先生に重ねて思っている
私が若いころ一度お越し頂いた事はあるが
その後お誘いするのも憚られていた 
まえまえから午年に因んで
是非ともお出まし頂きたくと
強く願っていたものの
私の体調のせいで遅れた
でも漸く
年末にお出ましいただいた

茶事を終えると
大変疲れてはいるものの
充実感とただただ安堵感に満たされた
だから茶は やめられない


お客様は四名
ご正客は午年のA先生
お詰には来年年女 羊年のストライプ様
中のお二人は戌年生まれ
歳暮ならでは
干支の話も盛り上がる

寄付きは柴田義董筆 宝舟
本席床は歌色紙
書かれている歌は
和漢朗詠集の 歳暮より
行く年の惜しくもあるかなます鏡みるべき影さへ暮れぬと思えば
紀貫之の歌
近衛信尋筆

近衞 信尋(このえ のぶひろ、慶長4年5月2日(1599年6月24日) - 慶安2年10月11日(1649年11月15日))は、
江戸時代前期の公家・藤氏長者。
官位は従一位関白。
幼称は二宮。
法号は応山。



慶長4年(1599年)5月2日、後陽成天皇の第四皇子。
八條宮智仁親王の甥。
母は近衛前久の娘・前子。
母方の伯父・近衛信尹の養子となる。

和歌に極めて優れ、
叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、
桂離宮における交流は有名である。

正保2年(1645年)3月11日、出家し応山(おうざん)と号する。
慶安2年(1649年)10月11日薨去、享年51。
近衛家の菩提寺・京都大徳寺に葬られた。

近衛前久や信尹の文化人としての資質を受け継ぎ、
諸芸道に精通した。
書道は養父信尹の三藐院流を継承し、卓越した能書家だった。
茶道は古田重然に学び、
連歌も巧みだった。
実兄にあたる後水尾天皇を中心とする
宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らとともに中心的人物として担った。また、松花堂昭乗などの文人と宮廷の橋渡しも行っていた。
≪ウィキペディアより≫




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