新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

石光真人 『ある明治人の記録』 会津人柴五郎の遺書

2013年01月08日 | 本・新聞小説

今年の大河ドラマは会津が舞台の「八重の桜」。何かそれに関する本を、と思っていた時に、tocoさんのブログで『放送が始まる前に予習のつもりで・・・』というおすすめの記事が目に留まりこの本を知りました。

Photo_2(カバーについている説明書きから)
『明治維新に際し、一方的に朝敵の汚名を着せられた会津藩は、降伏後下北の辺地に移封され、藩士は寒さと飢えの生活を強いられた。明治三十三年の北清事変で、その沈着な行動により世界の賞賛を得た柴五郎は、会津藩士の子であり、会津落城の際に自刃した祖母、母、姉妹を偲びながら、維新の裏面史ともいうべき、惨苦の少年時代の思い出を遺した。』 

この本は、柴五郎翁が八十歳を過ぎて書いた追想の記録を、石光真人氏が整理編集したものです。柴五郎がかかわった人々やその時代の知らされなかった部分を、きちんと後世に残す仕事をした石光氏の功績も大きいと思います。

幼年期から明治10年の西南戦争で西郷隆盛が自刃し、翌11年大久保利通が暗殺されるまでが書かれています。
『会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べリ』 そして『これらの感慨はすべて青少年の純なる心情の発露にして、今もなお咎むる気なし』と薩長への憎悪が深かったことを書いています。


いつの世にも新しい政権が登場すると、その威信を守り権力を誇示し正当化するために、記録の抹殺や誇張、装飾がなされます。維新前後の会津藩の記録もそうだったのです。

会津藩丸ごとの流罪に等しい北辺への移封。史上でも珍しい過酷な戦後処理を具体的に知ったのは初めてでした。読むほどに衝撃を受け、決して目をそらしてはいけない歴史の真実に触れ、襟を正して一気に読めました。

中公新書で160ページほどの薄めの本ですが、1971年初版、2012年53版の出版を重ねていることも素晴らしい本であることを証明しています。

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 柴五郎氏略歴 (本書よりの抜粋)

安政6年 (1859) 1歳  会津若松に生まる
明治元年(1868)10歳 会津若松城落城
   2年 (1869)11歳 俘虜となり東京に護送さる。年末脱走流浪。下僕生活。 
   3年 (1870)12歳 下北半島斗南に移封。野辺地、田名部に住む。
   4年 (1871)13歳 青森県庁給仕。
   5年 (1872)14歳 東京に再び流浪。下僕生活。
   6年 (1873)15歳 陸軍幼年学校。
   10年 (1877)19歳 陸軍士官学校。
   12年 (1879)21歳 陸軍砲兵少尉。
   22年 (1889)31歳 清国福州にて特別任務に就く。
   27年 (1894)36歳 大本営陸軍部参謀。
   33年 (1900)42歳 北京駐在武官。義和団事件にて北京籠城。
   37年 (1904)46歳 砲兵連隊長。
   40年(1907)49歳 陸軍少尉、重砲兵旅団長、要塞司令官、大十二師団長、東京衛戍総督
大正 8年 (1919)61歳 陸軍大将、台湾軍司令官、軍事参議官。
   12年 (1923)65歳 予備役被仰付。
昭和20年(1645)87歳 十二月十三日没。
 

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