goo blog サービス終了のお知らせ 

新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

『藤沢周平 残された手帳』 遠藤展子 文藝春秋

2019年11月18日 | 本・新聞小説
藤沢周平といえば、随分前にNHK「蝉しぐれ」を見ていました。義父を尊敬し信じて屈辱に耐える優しく強い男・文四郎を内野聖陽が演じます。内面の哀切を余すところなく演じ、余韻の残る素晴らしいテレビドラマだったのを覚えています。

他は「漆の実の実る国」を読んだくらいで、藤沢周平についてはこれくらいの認識しかありませんでした。

そこに友人から、この本「藤沢周平 遺された手帳」が回ってきたのです。



藤沢周平は死後4冊の手帳を遺していました。最初の結婚後の昭和38年から昭和51年までの記録です。
娘の遠藤展子はその手帳を見ながら『若い父の記憶をたどりながら、なぜ父が小説を書き続けたのか、私はどのように生まれ育てられたのか、触れておきたいと思うようになりました。そして、その辛い時期を乗り越え、現在の母と一緒になり、本格的に小説家として仕事をしていきますが、父の持つ「鬱屈」がどのように変化したのかを書き記しておこうと筆をとることにしました』というのがこの本の出版のきっかけです。

藤沢周平には昭和。38年2月に娘・展子が生まれますが、その8か月後妻悦子を癌で亡くします。幼子を抱え、「波のように淋しさが押し寄せる。狂いだすほどの寂しさが腹にこたえる。小説を書かねばならない」「生きているひとつひとつの行動に何の喜びもない。荒涼とした砂漠が私の前にある。そこへ私は歩き始める」とその苦悩は深く暗く、これが鬱屈の正体でした。
周りの手も借りながら乳飲み子の育児と家事と会社勤め。想像を絶する辛さ苦しさがありますが、亡き悦子のためにも小説を書こうと執筆活動は続けていました。
ここに出てくる「母」は藤沢が娘6歳の時に再婚した女性・和子で、賢い母とおっとりした娘はとてもうまくいっていたようで、なんの違和感もなく読めました。
そして藤沢は妻のサポートで執筆活動も軌道に乗り直木賞を受賞し作家として独立します。
毎月の複数の原稿の指定枚数と締め切りが細かに記されていて、作家の生活をハラハラしながらも、次々にストーリーをわきださせる能力に痛く感心させられました。

「成功しなかった人たちのことを書きたい」、「徹底して美文を削り落とす作業にかかろう。美文は鼻につくとどうしようもないほど嫌なものだ。いまどき、形容詞に憂身をやつ文士はいないだろうと思ったりする」と手帳に記されていますが、この言葉に藤沢周平の作家としての魂が集約されていると思いました。
確かに無駄がない文章で読みやすい小説と感じたのはここにあったのです。
駆け出しの頃にもかなりの執筆があり、刊行された本もたくさん知りました。歴史小説が好きで時代小説には興が引かれませんでしたが、今、藤沢作品のどれにしようかと思案中です。
コメント

重たいテーマでした・・・『原爆を見た少年』後藤勝彌 講談社

2019年11月14日 | 本・新聞小説
友人から借りた本は、後藤勝彌「原爆を見た少年」上下巻、講談社出版です。
友人の知人で脳血管外科医の方が書かれた本が新聞に載り、それをお借りしました。


主人公は、医者として世界的にも活躍しているものの医療界に矛盾を感じ、社会的な問題、若者の教育に目覚めます。
若者の脳外科手術に成功し命を救いますが、家庭が崩壊し両親を亡くし心を閉ざした孤独な彼と向き合うことにより、彼を伴って生地の長崎に戻ります。ここまでが上巻。
長崎では、その特異な歴史(殉教と原爆)の中で若者は多くの思索の機会を持ちました。
被爆して生き残った人との出会いや、原爆投下に至る世界の動き、原爆投下後の状況、戦後処理の不透明さ、天正遣欧少年使節のこと、殉教のこと、なぜ鎖国に至ったかを、その場所を二人で巡りながら考えます。
そして400年の時空を越えて遣欧使節のローマに飛び、長崎の地下道では原爆の爆発寸前を見た少年に出会い、話は壮大にきめ細かに展開していきます。
太平洋戦争の原点を探り出すところも、歴史をずっと遡り、遣欧使節の少年が帰国した後にそのルネサンスの新しい知識が抹殺されたところに行き着きます。この考察はとても新鮮でした。

長崎での思索と体験の中から、若者は自分の頑なな殻を破り自分のやるべきことを見つけていきます。厳しさと愛を持って生き方を導いた医者は、若者の真の自立を見届けたそのときに暴漢に襲われ命を失います。若者の生き方に平和を託せる安心を得たかのように・・・。

かなり難解な本で、完全には理解できない部分も多々ありましたが、途中で放り出せない、目をそらせない何かがありました。現代史も表裏から考察し分かりやすく書かれています。

巻末の膨大な参考文献に著者の真摯な姿勢が見え、国内外での多忙な医療活動の隙間の時間に著作されたことに驚きを禁じ得ません。
「長崎に生まれ二つの偶然で被曝を免れた」著者だからこそ、長崎を客観的に冷静に見て、心情を理解し、心からの愛をもって書かれていると思いました。

そういえば、医者で作家という肩書きは、帚木蓬生、芥川賞の南木佳士、北杜夫もそうでした。多才ですね~。
コメント

『マチネの終わりに』平野啓一郎著

2019年10月27日 | 本・新聞小説
「蜜蜂と遠雷」上映の予告編で見たのが「マチネの終わりに」でした。
この同名の本が、単行本でなく文庫で出版されたら読むつもりでしたが、先に映像で主人公のイメージを植え付けられ、それがかえってよかったのか福山雅治と石田ゆり子。

芸術に造形が深く常に世界を見ている平野啓一郎氏は、主人公の一人に世界的に有名なギタリスト蒔野聡史と、もう一人はグローバルに活躍する日本人とのハーフ・国際ジャーナリスト小峰洋子を登場させています。
たった3回会っただけで恋に落ちた二人。しかし偶然がいくつか重なり二人の運命が・・・。運命に抗うのか受け入れるのか。
芸術家の生き方、恋愛、師弟愛、家庭愛、親子愛、友情、中東の戦火、離婚、親権、映画界、民族、原爆、難民、PTSD、ニューヨークの社交界、リーマン・ショックと世に氾濫するテーマをストーリーの横糸に丁寧に、自然に挿入するところが平野さん流かな。
蒔野の会話『人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?』はこのテーマでもあると思いました。
頻繁に出てくるクラシックギターの曲名はその都度Youtubeで聴きながら重層的に読み進めました。
読み始めて直ぐ映画の主人公の顔は消えて自分のイメージの主人公に変わっていました。
ストーリーがとても緻密に構築された小説で、一冊の世界の枠を越えてイメージが膨らみます。
読み終わって余韻に浸るのではなく、少し重たさが残りましたが、終わりから10ページ分にその「解答」を見ました。

前に読んだ「葬送」のショパンとドラクロワの物語に比べると、恋愛の縦糸が分かりやすいだけにすらっと読めました。
多分映画は観ません。映画と原作を直ぐに比較してしまう悲しい性に縛られそうだから。
逆に先に映画を観たら、多分本は読まなかったでしょう。

\ 追記 \
スマホで投稿した記事をパソコンで見たら写真の「巨大さ」にびっくりしました。スマホの縦・横撮影でも違いが出ます。パソコンで訂正して「中」にしました。スマホでもサイズ変更はできるのでしょうかね・・・
コメント

伊集院静『ミチクサ先生』その②... いよいよ金之助(漱石)が誕生

2019年09月28日 | 本・新聞小説
「序章」はナポレオン登場から始まり、日本の幕末のパリ万博への参加です。国内外騒々しくなった幕末に、日本は恐る恐る、いや勇敢にも少しずつ世界に進出していきます。
万博で日本の養蚕、日本独特の工芸品、下絵の構図の大胆さは西欧に驚愕を与え、後にジャポニズムに発展していきます。ここまでが序章。

さて幕末の江戸。幕府の経済は逼迫し武家社会は既に斜陽の相を帯びていました。そんな慶応3年正月、金之助(夏目漱石)が誕生しました。
江戸から東京へ、駕篭屋が人力車に、町方名主制度の廃止など新政府の風は吹きまくります。その庶民の暮らしや風俗、町の組織が細かく描かれて、幕末と言えば尊皇攘夷の政治思想ばかりが先行し勝ちですが、さすが「ミチクサ先生」は違います。

親42歳で生まれた金之助は「恥かきっ子」、そのうえ庚申(かのえさる)に生まれた子は大出世か大泥棒になるという。
「金之助」の名前は、その大泥棒の筋を断ち切ると言われたために入れた「金」でした。

ほどなく古道具屋ヘ養子に出されますが、夜店の屋台の片隅に籠に入れて置かれていたのを売られていると勘違いした身内が連れ戻したのだとか。
この後、塩原家に養子に出されます。子の居なかった養母やすは金之助を溺愛します。
新政府は「種痘令」を発布し、種痘を受けていた金之助のですが、天然痘にかかってしまいます。大事には至らなかったけど、この時の傷が鼻の頭に残り、この事をずっと気に病んでおり、後の小説にも出てくるそうです。
鼻の頭の傷は頬杖をついたあの写真でも見えるとか。

やすの目から見ても東京の様変わりは凄じく、目と耳で実感したことが書かれていくようです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今年は遅く咲き始めた彼岸花。敷地内に植えるのは良くないと聞きますが、裏側の見えないところで残りの球根が強く生き残っています。





コメント

伊集院静『ミチクサ先生』その① 日経連載

2019年09月15日 | 本・新聞小説
11日から始まった伊集院静氏の『ミチクサ先生』 は最初の3行だけで、もうこの小説の未来が見えました。魅力的な内容になりそうです。

序章は1817年8月11日、いきなりナポレオンが配流されている大西洋の孤島セント・ヘレナ島が出てきます。訪ねるのは清と英国の通商交渉団を護送・護衛するベイジル・ホール艦長。清からの帰り道に立ち寄ったのでした。

うんっ?たしか夏目漱石の生涯が描かれるはずではではなかったかしら。漱石は幕末生まれだから、これは海の彼方の50年前の出来事になります。

そういえば、作者の言葉に『漱石が生まれた前後に、のちに日本の要となる大勢の人々が誕生し劇的な人生を送ったこと。同時に文明開化でさまざまなカルチャーが芽を出し、漱石も作者もあちこちミチクサをしながら、見つめながら、愉快に時には切なく物語りたい』という伊集院氏の言葉がありました。広ーく、深ーい内容ということになります。
こうなると面白いに決まっています。壮大なドラマの展開が期待されます。

小説3日目は、ベイジル・ホールが沖縄についての見聞をナポレオンに話すところです。挿し絵は王族の美しい琉球の衣装で、福山小夜氏のカラフルで落ち着いた絵です。

ベイジル・ホールが実在か架空か気になり調べて見ました。
ホールは実在しました。(記述はベイジルorバジル)
19世紀のイギリス海軍将校、旅行家、作家。インド洋、中国、朝鮮、琉球、中南米、北米を航海しました。
琉球の人々との交流を好意的な視点から描いた本は、世界に大きな反響をよんだそうです。
なみに、孫は東京帝大文学部名誉教師バジル・ホール・チェンバレンだそうです。

実在の人物が出てくると話が生き生きして、毎朝新聞を開くのが楽しみ!
目を覚ました瞬間のワクワク感は一日のいいスタートになります。起きるのが楽しみになります。
*******♪♪♪*******♪♪♪*****
今日は日陰の部分から順に草取りと芝かりを夕方まで4時間。夫が外出する時を狙ったので焦らずにすみ、はかどりました!
居るときは、「時間が長過ぎる、止めろ止めろ、熱中症になる」とうるさいのです。
作業をしながら夕食のメニューを考えました。料理をしなくても、切って並べるだけですみそうです。バッチリ!
作りおきの紅茶豚肉、ザワークラウトとピクルスは瓶詰、イチヂクだけはバター炒め。サラダはお昼に残した目玉焼きと冷凍した豆苗とカニかまをドレッシングで和えたもの。ポタージュはお湯注ぐだけ。クルトンを浮かべたのは気が引けるのを消すためのお慰み。

明日の作業は6ヵ所にこんもりと山になった草の後始末。夫がごみ袋に詰めてくれるそうです。袋の数を少なくして、詰め方が私より丁寧でうまいのです。
私の明日は読書タイムにします。作業の助手が要らなければの「は・な・し」ですが。

コメント

『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』秦新二

2019年08月15日 | 本・新聞小説
伊能忠敬の本を検索している時に偶然目にした『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』秦新二著 文藝春秋。
著者は歴史学者ではありません。オランダ語を専攻した著者はシーボルトの現存している書状をハーグ国立公文書館、ライデン大学図書館、ミュンヘン大学図書館、インドネシア国立公文書館、ミッテルビベラッハ城文庫/ブランデンシュタイン城文庫で調査しました。
北斎直筆の「武器・武具の図」、間宮林蔵直筆「黒竜江中之洲并天度」「江戸御城内御住居之図」等の新資料を発見して、各館のコレクションを系統立てて整理していくなかで、これまでと全く違う角度からシーボルトを見つめ直しました。

近代医学を身につけた有能な医者という定説を覆し、何らかの任務を帯びて来日したとして、シーボルト事件の裏を読み解きます。
ここまでは膨大な資料を元にした歴史小説ですが、極めつけは将軍家斉、岳父・島津重豪と密貿易、幕府用人が登場して歴史を大きくかき回す大胆な推理をして、「なるほど」と納得させられてしまいました。
単なる読み物ではなく、「検証」という副題がこの小説を重厚にしています。
久々に手応えのある読み物でした。


紡ぎの古布で作られたブックカバーは友人からのプレゼント。
革製、合皮製と複数のブックカバーを使っていますが、これは本の表紙がピッタリ収まりズレないのです。手に馴染んで使い易く、とても気に入っています。

コメント

『藝術のパトロン』矢代幸雄 中公文庫

2019年07月26日 | 本・新聞小説
ブログ「blue-moment」さんの、国立西洋美術館「松方コレクション展」の紹介にとても心が動きました。展覧会の見方に共通するものがあり、その後紹介してもらった本の中の一冊が『藝術のパトロン』です。



ここではコレクターとして、松方幸次郎、原三渓、大原孫三郎・総一郎、福島繁太郎が取り上げられています。

むか-し。私が開館3年目の国立西洋美術館に行ったのは高2の修学旅行のオプションで。とにかくすごいものだということで選んだのですが、松方コレクションと結び付いたのは後のことでした。

松方氏は1920年代に収集した絵画等をフランスに預けていましたが、第二次大戦中に敵国財産として没収。それが松方氏にではなく日本政府に返還されたのが1959年のことです。

この本の著者矢代幸雄は、留学中に若くして松方氏と出会い、そのお供で絵画の買い付けにも同行し、更に日本への返還にも携わりました。
そのロンドン、パリでの芸術家、文化人との交流を生身の人間として正直に語っているところも惹き付けられました。
西洋美術館開館 60周年の「松方コレクション展」の開催に合わせて、テレビの「新日曜美術館」「ぶらぶら美術館」でも分りやすく放送されました。

原三渓のコレクションと広大な三渓園にまつわる話に、家族揃って美術を愛する理想の形がそこにはありました。
タゴール、フリーア、日本画壇の著名人、文化人とここを訪れた人たちとの交流場面には胸躍ります。

本文中の三渓コレクションの名品、乾山「花籠」と「病の草紙」が、今では福岡市美術館の「松永コレクション」に入っていることをとても誇りに思いました。
三渓コレクションの最たるものといわれる「孔雀明王」は、数年前に九州国立博物館の「国宝展」で見ていました。ラッキー!

とにかくこの本には、国内外の著名な画家、文化人、知識人、美術館がたくさん出てきます。
過去に訪れた美術館や作品を思い出しながら、何回もページをめくることでしょう。私にとっては、そんな息の長い本になりそうです。





コメント

日経新聞小説『ワカタケル』の中の「国宝」

2019年05月17日 | 本・新聞小説
ついにヒエンソウを切り取りました・・・。



池澤夏樹氏連載の新聞小説がいよいよ佳境に入ってきました。ワカタケル(雄略天皇)の国造りの物語です。
荒々しく、猛々しく野を駆け巡り川をくだり、異国から来た知の人びとの話を聞き、意見を聞き、霊を操る女性の言葉を尊重しながら、徐々に国の統治の形を造り上げてきました。

今月の内容は、ワカタケルに長年使えてきたヲワケが武蔵国に帰ることになり、褒美として鉄剣を贈ることになりました。出雲の砂鉄とタタラを使って剣を作る場面が詳しく書かれています。

まだまだ文字が乏しかった時代に、大王は「李先生」にこの鉄剣の銘の撰文を命じます。
『・・・ワカタケル大王、天下を治める我が、この百度鍛えた名刀を作らせ、めでたさの由来をここに記す』と漢字で彫りこんだ115文字に金線を打ち込んで武蔵国の豪族ヲワケに下賜しました。

ワカタケルはその前にも同じように火の国の豪族ムリテに下賜した剣があります。
『大王ワカタケルの御代に典曽として仕えた者、名はムリテ。八月に、大釜を用いて太刀を作る。八十回練り、九十回打つ。三寸上好の名刀・・・』の75の銀文字はヲワケより格が下だからというものです。

この二つの太刀の話になったときに、「この二つの太刀をこの目で確かに見たことがある」という確信の記憶がよみがえりました。

九州国立博物館で10年ほど前に『古代九州の国宝』展がありました。
その中に錆びた2本の太刀があり、説明がないならとても足を止めるようなものではありません。
よーく見るとその錆の中にくっきりと金色の漢字が浮かび上がってきます。1500年前の耀きと厳かな息づかい!
その漢字は音を当てはめたもので意味は全くわかりません。ただ2本とも国宝に指定されるほどに文字の内容が重要だったのです。

そして今、その文字から天皇の統治体制、漢字文化、鉄の製造、刀剣の製法が分かることをこの小説で納得しました。
当然国宝に値するものだとわかり、その鉄剣2刀をこの目で見た事実に感激しました。華のない地味な展示品でしたが。

倭の五王の一人雄略が武蔵国と火の国、つまり東と西の豪族に貴重な刀剣を与えたことから、日本の国が広範囲に形造られていくのがわかります。
日本書紀でしか伺い知ることのできない時代をこうして垣間見ることができるのは、まさにロマン、素晴らしいことです。

鴻池朋子氏のさし絵、初めの頃は、秘めたうごめくエネルギーを押さえ込むような荒削りなタッチの抽象的なものでしたが、少しずつ具象の絵になっています。まさに国造りが形をなしていくように。
ストーリーも画も、これから先が楽しみです。
コメント

テレビ『なつぞら』と開高健『ロビンソンの末裔』

2019年05月04日 | 本・新聞小説
今放映の朝ドラのこと。ヒロイン「なつ」に絵を描く楽しみを教えてくれた友だちに「山田天陽」がいます。
彼は東京の家を戦災で失い、政府の勧める北海道開拓民として両親に連れられて移住して来た経歴を持っています。
夢の大地のはずが作物の育たない不毛の土壌、雪の降り込むバラックの家。開拓民の過酷な暮らしぶりがちらりと写し出されました。
身のすくむ思いのその光景を見てパッと思い起こしたのが、開高健『ロビンソンの末裔』です。
ずーっと前に読んだもので、茶色に変色した古本を送料込み1400円でやっと手に入れました。古本でこんなに高い文庫本は初めて。
昭和57年再発行本は文字が小さくて「行」の移動がうまくはかどりません。その頃の文庫本は今の若い世代でも読みにくいのではないかな。

やっぱりそうでした。ドラマとぴったり一致する時代の北海道への開拓移民の話でした。
太平洋戦争末期に無責任で行き当たりばったりに行われた開拓移民計画ですが、「東洋のウクライナ」という夢の宣伝文句を大勢の人が信じました。
こうして北海道に渡る最中、船上で突然の終戦を聞かされます。
情報も少ないまま、それまでの「既存農家」より20キロも奥の原野に連れていかれます。生い茂る熊笹の広大な荒れ地に放り出された移民。道もなく、畑もなく、家もなく、ランプもなく、在るのは近くの川だけ。
石をぎっしり敷き詰め、根太と厚板を敷いて床を作る。板を両側から斜めに立て掛けて屋根を作る。壁はなく、入り口と出口は二枚のムシロをぶら下げる。親子3人が寝られるだけの『拝み小屋』の作りです。

都庁職員を辞めて移民となった主人公は農業経験なし。兼業農家の町役場の指導員・久米田が時おりやって来て、誠実に現実的に指導してくれるのが唯一のたより。食料は川の魚と久米田が持ってくるジャガイモとカボチャ。
冬に向かい食料より大事だというブリキ板を張り合わせたルンペンストーブが配給されますが、吹雪けば雪はすき間から容赦なく小屋の中に入ってきます。
カレンダーも時計もない真冬の生活が客観的に克明に書かれていて、この部分がずーっと私の脳裏に凍りついていたのです。


戦後生まれとはいえ、昭和20年代の日本で育った私はこの場面をイメージするのに困難ではありませんが、多分今の若い人はイメージできず物語か創作の世界と思うかも。

本の中の開拓民の土壌はモヤシ1本育たない酸性土。川から水を引いて「毒」を薄めて流し、他から栄養分のある土を運んで客土をし、それを繰り返して3年~5年かかるという気の遠くなるものでした。その間役所からの当てがい扶持で乞食じみた暮らしをあと5年も・・・。
やっと少し耕しても撒く種がない。何回も役場へ足を運び種を手に入れても、ふた葉の後は枯れてしまうという悲惨なものでしでした。
前半はこの苦難の繰り返しですが、後半では、そんな中から組合を作って集団で交渉しようという話が持ち上がります。
寄せ集めの集団は紆余曲折しながら、土地を耕しながら、町役場、支庁、道庁へ、それでも埒が明かないので費用を出し合って上京し国会に詰め掛け抗議します。
知恵を絞った強行手段で一歩前進のお墨付きをやっと獲得することができました。 
そしてどうにか少しうまく行き始めたときに、大型の台風でおびただしい被害を受け全滅状態に陥りました。開拓の土地は人為で歯が立たず、天災で更に追い込まれたのです。
一人はタバコ一箱と土地を交換して東京に戻り、ある人は精神の障害に陥り、ある人は黙って去り、と開拓民たちは絶望して逃げ出し始め残る人はわずかになりました。
著者は、役場の人たち、既存農家の人たち、開拓民の心理と行動を感情を交えずに冷静に力強く表現しているので、私も悲愴感を押さえて読むことができました。

最終章の最後で『冬と夏と石ころだけの土があるだけです。死にはしないがまったく生きていません。来年はジャガイモを少し植えてみようかと思っています』という主人公の心情を述べて、読む側も未来に繋がるほんの少しの希望を見いだしました。

北海道の緑のあの美しいなだらかな丘、広い直線道路、カラフルな屋根。行ってみたい人気の観光地ナンバー1。北海道開拓の苦難の歴史はそのうちに伝説化することでしょう。
開拓史は日本、中南米移民を問わず過酷な自然に挑む苦難の繰り返しですが、その歴史を決して忘れてはいけない、記憶しておくべき事実だとしみじみ思っています。

コメント

天才を育てた二人の母親(千住家と五嶋ファミリー)

2019年03月03日 | 本・新聞小説

「天皇陛下在位三十年記念式典」がお二人にふさわしく格式高く、簡素に、厳かに行われました。その時にピアノ、ヴァイオリンを弾いたのが千住明、真理子のご兄妹です。こういう節目の大切な式典に兄妹揃って出演、何と素晴らしい才能・・・。千住家に関して読んだ本を思い出しました。教育評論家としても活躍された母親の千住文子『 千住家の教育白書』と千住真理子『千住家にストラディヴァリウスが来た日』です。

「千住3兄妹」を世界的な芸術家に育てた母親の記録です。
幼い子供の感性に時には戸惑いながらも、夫である鎮雄さんとのやり取りの中で同じ教育理念を見出し子育てに奮闘します。この夫婦のベクトルが同じ方向を向くというのが重要だと思いました。

行儀のいい良い人間に育て上げるのでなく、子供の持っている才能を明確にし本人が幸せに生きていけるように導きサポートするという事でした。具体的な場面場面で子供への向かい方や導き方が親の権威からでなく、子供の目線を大事にする聡明な姿が見えます。

この本を子育て中に読んだとしても、私は同じようなことはとてもできません。普通の家庭とは生まれた時からスタートが違い、横の文化的人間のつながりにも差があります。そのように恵まれた土台があったにしろ生まれつきの才能と導き方、サポートの仕方はやはり特異なものであり賞賛すべきものです。子育てが終わって客観的に読んでただただ感心し、感銘を受けました。

そして今、別の天才を育てた母親として、五嶋みどりさんの母・節さんのことを書いた『母と神童』を読み終わりました。「五嶋節物語」の副題がつくほどに波瀾に富んだ半生記は衝撃的でした。
  
節は幼いころからヴァイオリンを学び、その才能を見出されヴァイオリニストを目指します。が、時代も親もそれを許しません。大学の音楽部を中退、挫折の中で結婚、出産して娘・みどりを授かります。
そのみどりの才能に気づいた途端に、自分の夢を託して夫を残して二人で渡米します。みどりが10歳の時のこと。持参した300万円を費やしての節約生活、ジュリアード音楽院でもみどりのレッスンに立ち会い、家では厳しいトレーナー。
みどりのタングルウッドでの奇蹟。そう14歳、152センチの少女は
バーンスタインに呼ばれボストン交響楽団と共演。彼の作曲した難解な曲を演奏している時に、第5楽章で2度も弦が切れコンサートマスターとヴァイオリンを交換するというハプニングが起きましたが、何事もなかったように演奏を再開し最後まで弾き終えたのです。
《14歳の少女、タングルウッドを3本のヴァイオリンで征服》
《彼女の土曜の夜の勝利は音楽史に残るものだ》と新聞の一面に載り、さらに教科書にまで載るようになりました。 

そんな天才少女みどりを育てたのは強烈な個性の持ち主・節の感性と芸術性によるもの、また音楽家との交流という豊富な人間関係も後押しします。節を「猛烈教育ママ」といった佐渡裕もその真剣さを素晴らしいと評しています。その結果ヴァイオリンのために米国に在住する、夫とも離婚するという決断を下します。

このあと五嶋龍の父親となる金城摩承(かねしろまこと)と再婚します。出会ったのはみどりの通っていたジュリアード学院。

彼は17歳でヴァイオリンを始める遅いスタートですが、すんなり桐朋学園大学に入学し、ジュリアード音楽院に留学します。このころ節に出会います。
摩承はジュリアードに留学中の女性と結婚しますが、節と摩承がお互いに好意を持っていることを知り、摩承に「離婚するなら音楽を止めること」という厳しい条件をつけ、摩承はその通りに音楽をやめて節を選び結婚します。こうして生まれたのが五嶋龍です。摩承はその後イェール大学でMBAを取得し、「セガ・オブ・アメリカ」の副社長にまで昇進します。

みどりはこの頃、環境からくるストレス、音楽会のプレッシャー、レッスンの厳しさなどから拒食症に陥り、2か月半の入院生活をします。私から見れば過酷な音楽家の生活でした。精神療法家と接するうちに、ヴァイオリン以外はすべて母が取り仕切る自分を客観的にみられるようになり、自分を見つめ直すようになります。母親に頼らずに自分にできる何かを探して「みどり教育財団」を立ち上げ、そのNPOの奉仕活動を誇りを持って行うようになりました。私には、みどりさんのヴァイオリンは他と聴きくらべても繊細でその違いを聴き取れます。やはり素晴らしいヴァイオリニストだと思います。

みどりより16歳年下の弟・龍の絶対音感に早くから気づいた節は連日ヴァイオリンの厳しい過酷なレッスンを行います。時には父親の摩承が我慢できなくなるくらいに。みどりも龍も節の厳しすぎるレッスンに絶対服従するのは、それでも「ママが大好き」だったからです。こういうところが節の非凡さでしょうか。

若い音楽家を育てたいというバーンスタインの理想を実現した「パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)」で、龍は7歳のデビューを果たします。この時の指揮・佐渡裕は龍に未来の「大家の匂い」を感じ取ったそうです。

このデビューに当たっては節の思惑も決断も根回しもかなり力が入っています。7歳でデビューとは「賭け」ですが、それだけ龍に対して自信を持っていたのです。

節の父親が空手師範だったこともあり、龍は10歳で黒帯という伸びの速さを示します。節も摩承
も「ヴァイオリンはやめるならやめていい」と口にしてはいますが、ヴァイオリンの王様・クライスラーがエスプリに溢れた人柄で音楽以上に他の幅広い知識を持っているように、龍にも知的で温かい心の人間になって欲しい、強烈な個性と能力を持った自分たちを越えて理想の姿に近づく「精神の王者」を龍に望んでいたのです。

現にこのあと、龍はハーバード大学の物理学科を卒業し、世界中を飛び回って演奏活動をしています。

コメント

『父のソフト帽 ─ある婚外子の自叙伝─』鳥山二郎 Gakken

2019年01月29日 | 本・新聞小説

第23回北九州市自分史文学賞大賞受賞作品です。森鴎外記念事業として始まり、全国から寄せられた作品の審査員は柴田翔、久田恵、佐木隆三の三氏です。

著者は、古文書サークルの同じテーブルの方で、私が文学賞受賞のことを知ったのはつい最近でした。受賞から5年も経つのに温厚な紳士は、まさに武士は語らずで謙虚な方でした。
20名ほどのこのサークルはもう10年になるのに、不思議なほど個人情報がわかりません。それぞれが『爪』を表に出すことなく、古文書の静かな世界に浸っておられるようです
著者はマルチな能力で誰が見ても人生の成功者と思えるのに、タイトルの横の「─ある婚外子の自叙伝─」 の文字に違和感を覚えるほど強く心が捉えられました。

過去を剥き出しにする自分史はどちらかといえば暗くなりがちですが、子供時代ころから悲壮感がありません。
戦中戦後をたくましく生き抜きそこにはいつも笑いがあり、県下最難関といわれる修猷館から早稲田の政経学部に入学します。
子供時代から大学まで父と同じ柔道に励み、試合では群衆の中にいつも動きまわる父親のソフト帽がありました。それが精一杯の父親の愛情表現であり、その動く帽子が子供の心を支えたのだと思います。
私にとっても5、6数年の差はあるものの、克明に書かれた高度成長期のあの時代を実感しながら、学生時代の東京を懐かしみ身近に感じながら、同時代史として精神的にも共感しながら読みました。

帯に書かれた審査員の言葉を書いておきます。
柴田翔:『父親は毎日、夕食後に姿を見せて、九時には本宅へ帰っていく人だった。特にこの本が印象的なのは、事故で柔道を断念した主人公が大学卒業後に辿る人生を現在に至るまで、自分の職業生活と父の本宅の家族との関係の両面にわたって、しっかりと描ききっている点である。』

久田恵:『非嫡出子だった著者の「父を恋ふ」思いをテーマとした作品で、柔道を通して、自分のアイデンティティーを確立していった経緯が書かれている。著者の人生のハイライト場面に現れる父の中折れ帽、この構成が文学的な効果を産み出していて、胸を打たれた。』

佐木隆三:『作品のなかで、柔道の試合場面よく描かれている。柔道に不案内だけれども、興味津々で引き込まれた。中折れ帽をかぶった父親と、どこかで重なる気がしたから、文章の力というのは恐ろしい。良くできた作品で自分史を書く人の参考になる。』

コメント

原田マハ『暗幕のゲルニカ』

2018年11月25日 | 本・新聞小説

単行本『暗幕のゲルニカ』がやっと文庫本になったので早速購入しました。
森ビル森美術館設立に携わり、ニューヨーク近代美術館勤務の経験を持つ原田マハさんならではの力量と知識が満杯の小説です。

2001年9月の衝撃の同時多発テロ、その報復とも言えるアメリカのイラク攻撃。パウエル国務は国連安全保障理事会でイラクを糾弾します。彼がそのロビーで記者会見した時に後方の壁に掛けられた「ゲルニカ」には暗幕が掛けられていました。「なぜ?誰が指示した?」。それがマハさんがこの本を書く契機になったのです。



主人公八神瑤子は子供の頃「ゲルニカ」を見た体験がもとで今ではMoMAのキュレーター。婚約指輪の代わりにピカソのハトのドローイングを送った夫はアメリカ人。その夫が前触れもなく突然に貿易センタービルのテロに巻き込まれました。アメリカはイラクへの報復に踏み出します。憎しみに憎しみが・・・。

そんな時にMoMAはアートの力で平和を訴えるべくピカソ展を企画し、「ゲルニカ」の展示をめぐって瑤子が行動を起こしスペインを往復します。それが目次の2001~2003年。
そのゲルニカを描いたパリ在住のピカソと愛人ドラ・マールの生活とヒトラーも参加しての故郷スペインの内戦が交錯します。「ゲルニカ」完成までの準備と制作過程、苦悩と曲折がドラ・マールの語りで事細かに説明されています。それが目次の1937年~1945年。

この二つの時代の話が並行して進み、ここがマハさんの上手さです。この二つの時代をつなぐのが「ゲルニカ」であり、その絵を守るべく奔走するスペインの若き資産家パルドです。
マハさんのアート小説には欧米の大富豪が絵のコレクターとして文化人としてたびたび登場し、読者を夢に誘う要素にもなっています。
「ゲルニカ」を狙うのは大戦中はヒトラー、終戦後はスペイン本国やゲルニカ爆撃を受けたバスク地方に発生したテロ集団。
瑤子はこのテロ集団に拉致され一時は生命の危険にさらされますが、ロックフェラーやパルドの尽力で「ゲルニカ」を無事里帰りさせて国連に飾ることができました。

瑤子がバスクのテロ集団に襲われた時、その中のひとりの女性がピカソのハトの絵を持っていたことから、ピカソの別れた愛人ドラ・マールの孫娘だったことが分かります。ちょっと作為的な不自然さを感じ、そこは無かった方がよかったかな・・・とは私の感想です。

スタートから最後までハトの絵を登場させたことは、ピカソとマハさんの思い「平和」を伝えたかったのでしょうか。

MoMAの内部に精通したマハさんの豊富な知識がしなやかでメリハリのあるストーリーになっていて、誰が実在で何が創作か分からなくなり何度も検索、検索、検索。


ピカソは「ゲルニカ」をパリ万博のスペイン館に展示するために速乾性のある工業用ペンキを使いひと月で仕上げました。そのために劣化が進むそうで、貸し出しを禁じた今はソフィア芸術センターに厳重に保管されています。
私もマドリッドでこの絵を見ました。内容は図録で見ていた通りですが、先ず3.5m×7.7mの巨大さに驚き、そしてモノクロのインパクトの強さに衝撃を受けました。


貿易センタービル、MoMA、「ゲルニカ」のあるスペインのソフィア美術館、の3拠点をめぐるストーリーの展開は、その場所を訪れた事があるだけに映像の如く鮮明に映し出され、ドラマのように楽しみました。

コメント

吉二郎の壮絶なラストシーンから

2018年10月18日 | 本・新聞小説

先週の『西郷どん』のラストシーンは、隆盛の弟・吉二郎を渡部豪太さんが壮絶な最期で締めくくり、迫真の演技に魅了されました。
この北越戦争の中に「河井継之助」「ガトリング砲」の言葉は出たものの、余りにも素っ気なく通り過ぎたのが消化不良・・・。
司馬遼太郎『峠』に河井継之助を主人公に変革期の英雄の一生が書かれています。

長岡藩から江戸への学問修業や地方の学者を訪ねて旅を重ねる行動派。藩に戻ってからは重職に就き赤字財政を改革をし、その余剰金で洋式銃を買い求めて富国強兵に努めます。若い頃からすでに封建制度の崩壊を予測しており、先見性と知力は超一流と言われていました。
大政奉還後の北越戦争では、継之助は軍事総督として「局外中立」を構想しますが、新政府は外交の手をさしのべようとはせず改革には血の犠牲がいるとした政略でした。長岡藩は結局参戦に追い込まれ敗戦します。
北越戦争が維新の内乱で最も激烈と言われ、それを引き起こし長岡藩まで潰してしまった人物として、河井継之助は今でも人気がないと「長岡人」から聞いたことがあります。
負ければ賊軍で、その歩いた道のりも後世への功績も消されている人物だからこそ、返って読みたくなる本です。

歴史の中にはこうして名前を消された英雄、英傑が数多くいた事でしょう。

コメント

大河ドラマ『西郷どん』の中の慶喜

2018年09月25日 | 本・新聞小説

NHK大河『西郷どん』で、イケメンで切れ者を演じる「松田慶喜」はとにかくカッコよすぎ。時々感情的な言動がでてきて、今までの私のイメージとズレて少々戸惑うところもありますが。

司馬遼太郎「最後の将軍」をドラマと同時進行で読み直しました。尊皇、攘夷、開国、倒幕、列強の要素が複雑に絡みあい、撚りあい、反発しあい・・・の流れが整理されてわかりやすくなりました。しかし何回読んでも複雑さは変わりありません。

有能で、多才で、雄弁で、人一倍時勢を見るに敏であった慶喜。最後は都落ちして大阪へ。そして味方の集結した大阪城の兵を見捨てて夜逃げ同然に江戸へ一目散・・・。

時勢の遙か先までを見通し、「狐狸のような巧緻さ」で、あらがうことなく徳川と自分の傷をできるだけ少なくしようと画策した慶喜。薩摩側にもこれ以上の策謀家が揃っていましたが。

慶喜の味方であった松平春嶽でさえ最後は「百の才知があって、ただひとつの胆力もない・・・しょせんは猿芝居になるにすぎない」と慶喜の行動を評しました。

しかし、結果的には、徳川幕府を終わらせ大政奉還を成し遂げ、領地も返上、江戸を無血で明け渡した大仕事は、歴代の将軍にはとてもなし得なかったことでは・・・と。

鎖国を解いた幕末の激動の中で、最後の将軍として出現すべくして出現した特異な才幹を持った慶喜だったと思います。

鎖国といえども、地方からも新しい考えを持つ人々がでてきており、財政的にも、いずれ徳川の世が終わることは必然だったという見方があります。鳥羽伏見の戦い、全国の「士」のはく奪など大きな犠牲はありましたが、やはり自ら進み出た大政奉還は日本の行く末を決めた一番の節目だったと思います。

コメント

帚木蓬生 『水神』上巻・下巻

2018年09月10日 | 本・新聞小説

久留米有馬藩のことを書いた本が素晴らしかったという友人から、帚木蓬生『水神』(上・下巻)を借りました。かなり読み進んだとき、昨秋の浮羽散策中に筑後川の堰から引かれた水路の美しさにひどく感銘を受けたことを思い出し、まさにその水路の話と結びついたのです。
(ちなみに帚木蓬生の名前は、源氏物語の「帚木」「蓬生」からとったものだそうで、この作品は新田次郎文学賞を受賞しています)

これはその「大石堰」を作る5人の庄屋と農民たちの必死の努力と苦悩を描いた小説です。単なる時代小説ではなく、普請奉行、郡奉行、庄屋は実在の人物で、何よりも「大石堰」が筑後川周辺の田畑を潤し豊かで美しい農村地帯になっている厳然たる事実があります。



舞台は生葉郡(朝倉)。滔々と流れる筑後川の傍にありながら台地ゆえにその恵みを受けることが出来ずに、10m下の川面に桶を投げ入れ、水を汲んで引き上げ、それを田畑に流し込む。それを一日中、一年中繰り返す苛酷な仕事を続けるしかありませんでした。

稲は半分も育たず、さらに天災が追い打ちをかけ、疫病が流行・・・。少ない低地にやっとできた米は年貢米に。百姓はわずかに残った畑の雑穀で糊口をしのぎ、ある時は松皮粉、刻んだ藁を臼で挽いた藁餅で飢えをしのぐ過酷な暮らし・・・。それでも年貢が減らされることはありません。

1663年、忍耐の限界に来た5人の庄屋は、幅70間もある筑後川に大堰を作り、水門から水路に水を引き込み田畑を潤し、民の心も潤すという壮大な計画を立ち上げ、藩に堰渠造成の嘆願書を出します。庄屋・助左衛門が数年がかりで調査した精緻な絵図面を添えて。

それが普請奉行・丹羽頼母の心を動かし、藩主の英断を促しました。ただし、費用はすべて5人の庄屋の負担、過失が生じた場合には命に代えるという血判を添えた重たい決意でした。この頃は藩の経済状態も決してよくはなかったのです。

下巻は、この計画に40人の庄屋の合意を得る苦労と苦悩、資金繰りの大変さ、大堰と水門工事、水路づくりの進捗状況が細かく描かれていて、当時の土木技術の素晴らしさに感心しました。

工事の始まりは1664年1月。川幅70間。そこに上流下流から集めたり山から運んだ石を竹の籠に詰めて沈める方法、また船に石を積んで船ごと沈める方法で堰を作っていきます。取り込んだ水を流す水路は幅2間、深さ1間。既存の溝を広げたり、新しく掘り進む作業は長さ7000間。これを冬場の1月から3月までの農閑期にやり遂げるというのが藩からの厳しい条件でした。
この気の遠くなるような大工事をわずか2か月間で完了したというそのエネルギーのすごさ、驚き以外の何物でもありません。

土木機械も緻密な計算法もない時代に、経験と勘、そして1万人を越える農民の労力。ひたすら水を求めてひとつになった心で成し遂げた大工事に心を打たれました。たっぷりと流れる水、水の音は農民にとって明るい未来への原動力となったのです。

庄屋や町人や百姓のくらし、食生活、風俗などの丁寧な記述も興味をひき、当時の日常生活のイメージがふくらみます。武家屋敷の畳の上の生活でなく、農民の衣食住には日本人の原風景として身につまされます。

為政者、町人の成功者を主人公にした本が多い中、これは地方の農村の土に生きる人間の目線で書かれた小説です。角張った漢字の多い歴史小説ではなく、作者の心が見える平易な文体と方言の会話が心を掴むのかも知れません。

気になるのは、先頃読んだ上杉鷹山の本に出てきた18世紀半ばの久留米に関する記事です。過酷な年貢の取り立てに反抗して大規模な百姓一揆があったことが記されていました。処刑者も出たようです。
この大堰の夢のような話から1世紀も後のことですが、土地が潤い収穫が増えても、検見の度に厳しくなる年貢の取り立てがあったのでしょうか......

 ♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪

帚木蓬生について
1947年生まれ。東大仏文科卒業。TBS勤務。2年後に退職し、九州大学医学部を経て精神科医に。その傍らで執筆活動を続ける。2008年急性骨髄性白血病で半年入院後復帰。

吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞、柴田錬三郎賞、小学館児童出版文化賞、日本医療小説大賞、歴史時代作家クラブ作品賞、吉川英治文学賞。

コメント