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新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

アメリカ経由の「上杉鷹山」

2018年08月23日 | 本・新聞小説

上杉鷹山の名前がはっきりと私の心に刻まれたのは、故ケネディ大統領が「尊敬する日本人に鷹山の名前を挙げた」ことを知ったつい最近のことです。アメリカのトップによる高い評価は、日本に居ながら無知だった私には衝撃的でした。そこで先ず読んだのが童門冬二『小説 上杉鷹山』。

そしてまた少し前、北米の大自然の中で凛として生きる主婦のブログで鷹山を描いた藤沢周平『漆の実のみのる国』を知り、これまたアメリカ経由の情報が心に残りました。

江戸時代18世紀半ば、九州南国の小さな藩から東北の上杉家に養子に入った治憲(鷹山)は17歳で9代藩主になります。上杉家は豊臣政権下で景勝の会津藩120万石だったのが、家康に30万石に減封されて米沢に移り、さらに跡継ぎ問題で15万石にまで減らされます。(因みに米沢は家臣・直江兼続の領地で、米沢の町計画の基礎や農業振興の元を作っており、彼は喜んで景勝を迎え入れました。)

代々藩主には吉良上野介の血も流れて武士の格式がことさら重んじられ、また名門の誇りも捨てられず、更には藩士は景勝の時のままの5000人、藩の収支は合わずじまいで借金は16万両(160億円)にも膨らんでいました。

前藩主の重定は領地返上を検討するほど追い込まれていましたが、その時鷹山に託されたのが破たん寸前の藩の改革でした。
ブレーンに選んだのは細井平洲門下生で、いわば米沢藩の保守派とは対立する改革派でした。「大倹約令」を出し自らも実行、武士もクワを持ち開拓地を広げます。
身分制度が秩序だった江戸時代には武士の優位は常識、なかなか理解の得られる改革ではありませんでしたが、少しずつ鷹山の心を共有できる武士が増えていきました。
改革が進みつつある中で、改革派に対抗する重臣7名のいわばクーデターが起き広間に閉じ込められますが、最後は側近と前藩主重定の助けもあり脱出します。愛情と優しさを持つ鷹山でしたが、改革を実行するために7人に対して断固たる意志で厳しい処罰を科しました。

鷹山が行った改革は、漆、桑、楮を100万本ずつ植え、絹糸、和紙、そして漆の実から蝋をとり江戸に売りさばくことでした。しかし不運にも、その頃は西日本から櫨の実のロウソクが安価に出回るようになり計画は失敗。折から浅間山が噴火し「天明の大飢饉」が襲います。藩の収入を上回る損害、餓死者・・・と農村は再び荒れ果て、僅かに成果を出し始めていた改革も水泡に帰しました。
改革では鷹山の存在が大き過ぎ頼られ過ぎること、強硬な改革がうまくいかなかった責任などを考えて藩主を引退し隠居、家定の子・治広が10代藩主になります。

隠居から5年、借金はさらに膨れ上がっていました。鷹山は心を痛めながらも隠居の身分を固く守っていました。
そんな時に、鷹山の復帰を願うかつてのブレーンで引退している竹俣当綱がやってきて、政治の舞台に戻るように、更には莅戸義政を取り立てるように策をとります。

強硬に進めた第1次改革の失敗を冷静に反省し、藩の借金を公開して藩の苦しい状況を共有し藩民の理解を求めます。復帰した鷹山は町民、農民、下級武士からも意見を求める意見箱も設置しました。藩民の知恵と力を合わせて再建する道が開かれたのです。藩政のトップも反対しませんでした。「堰作り」を投書した武士にすべてを任せて実行、水の確保もできました。絹糸は織物に商品化。織り手は武家の子女、商品の流れが始まりました。鷹山はこうして米沢の土地と人に息を吹き込み、大地も人も豊かな藩へと導いていったのです。

ここには書き切れず、複雑な全体が見えてきませんが、2冊共に、藩の置かれた特異な状況、改革の実例、自然環境、幕藩体制、米から通貨へ移り変わろうとする江戸の経済状況など細かく、視野を広げて書いてあります。
特に藤沢周平の経済の細かなデータの記述は古文書をやっていると参考になりました。


鷹山の「藩主は藩と領民の安全のためにある」「藩主の贅沢を維持するために、藩と領民があるのではない」という、人権、民主の思想があったことは驚愕でした。
この頃儒学は官学の朱子学と、対する伊藤仁斎、荻生徂徠の三派が主流。細井平洲はそれぞれの長所を採用する折衷派で「訓詁の学識よりも、修身経世の実践を尊ぶ」ものでした。
その師の教えを幼い時から学んだという事が、根っこのところで鷹山の思想を形成したものでしょう。


『漆の実のみのる国』を読み終えて、再度『小説・上杉鷹山』を読み直しました。細井門下の竹俣当綱、莅戸(のぞき)善政、木村高広、藁科松柏などの個性的な藩士の能力を見いだし登用したところ、前例の失敗を分析する冷静さなど、鷹山はリーダーとしての手腕を持ち合わせていました。両方を読めばこの中に出てくる名前にもすっかり親しみを覚えました。

『成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり』有名な鷹山公の言葉です。
ちなみにケネディが鷹山を知ったのは、内村鑑三の5人の『代表的日本人』の英訳の本から。その5人に鷹山が入っていたのです。

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ハンミョウ…・・・『砂の女』

2018年05月07日 | 本・新聞小説

最近、庭で3度ほど珍しいあやしげな虫を見ました。新種?カラフルでふわっと1mぐらい跳び、近づくとまた1m位跳びます。虫の苦手な私は、半分見て半分目を背ける…といった感じでしたが、その時に脈絡もなく頭に浮かんでのが「ハンミョウ」という虫の名前。たぶん初めて見た虫だから、見たことのない虫「ハンミョウ」と結びつけたのかもしれません。

「ハンミョウ」は、ずーっと以前読んだ「砂の女」の冒頭にでてきました。昆虫を探しに砂丘に向かう教師が追い求めたのが「ハンミョウ」で、私は初めて聞く名前でした。(厳密に言えば、ハンミョウ属の「ニワハンミョウ」ですが)

「ハンミョウ」は事あるごとに私の頭に浮かび、口をついて出ました。ストーリーの不可解さとともに、私には幻の昆虫だったのです。
「砂の女」の不可思議な世界を思い出しながら「絶対にハンミョウに間違いない」と、なぜか根拠のない確信のようなものが広がりました。
ネットで調べると「当たり!」。私が見た虫はまさに「ハンミョウ」でした!数十年来の謎が、思いがけない形でやっと解決したことは喜びでした。この虫を追ったが故に、教師はアリジゴクのような砂の穴でもがき苦しむことになったのです・・・・・・。

現実でありながら、現実離れしたストーリーにまた引き戻されて、もう一度読み直しています。安部公房はやはり難解です。眠る前に読むものだから怖い、不安な夢を見るこの頃です。

          
               ハンミョウの写真はネットからお借りしました

ところで、「ハンミョウ」は近年生息地が減少しており、県によっては絶滅危惧種に指定されているところもあるそうです。でも「私は見た!」。幸運なチャンスでしたが、それ以降は見ていません。
ニワハンミョウはもっと地味な色ですが、カラフルの方が神秘性を添えてストーリーにも合いそうな気が・・・。

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『官僚たちの夏』

2018年04月18日 | 本・新聞小説

今テレビは「モリカケ」の資料改ざん問題とセクハラ疑惑と、唯一明るい情報の大谷選手の大活躍。回り灯籠のようにめまぐるしく変わる国際情勢そっちのけです。
国会の緊張した証人喚問での高級官僚の答弁を見ながら、ふと城山三郎著『官僚たちの夏』の通産官僚の野太い生き様を思い出し、読み直しました。

 

時は’60~’70年代の高度成長期の通産省。欧米は膨張する日本市場を狙っています。放任しておけば日本の企業は大打撃を受けるに違いない、安定するまでは保護するべきだというのが、主人公、風越信吾の一貫した考えでした。
人事こそ通産省を動かす鍵だという考えのもと理想的な布陣を敷き、国を守るために「指定産業振興法」の法案作成に全省を挙げて取り組みます。特定の業種に利益をもたらすものでないという通産官僚の理想の法案でした。

もともと風越には、上司、政治家、財界人への周到な根回しの考えはなく、国会審議で法案は廃案という惨憺たる結果に終わります。すでに日本経済は成長しつつあり保護や規制を必要としないというのも理由の一つでした。廃案は、皮肉にもそれまでの通産行政の成果とも言えるもので、時代はどんどん変わリ始めていました。

高度成長期に、「風越の人事カード」筆頭の高級官僚たちがどのように悩み、どのように行動し、どのように変化していったかが力強く描き出されています。
時代は50年近く前の話ですが、最難関を突破して入省した高級官僚たちの視線は確かに国民を見ていました。気概とプライドをかけた闘いには、上への目線も忖度もない潔さが感じられます。

あれから半世紀、通産省は経産省と名を変え、時代も世界も大きく変わったといういうのが実感です。

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静かなひととき···『日の名残り』『侍』

2018年04月03日 | 本・新聞小説

桜も散り始め4月になると周りが急に静かになっていました。春休みの4歳の孫娘が「きのうも、きのうのきのうも、きょうもいっぱいあそんでたのしかったー!」と、嬉しい言葉を残して帰っていきました。

 

ホテルのランチでも周りに気遣うマナーも心得て、ばぁばとしてはこれだけで成長したと心から嬉しくなりました。
生後半年で川崎病にかかりましたが、それももう大丈夫と太鼓判をもらい、心臓に小さな穴が開いていると言われ手術まで覚悟していたようですが、今ではすっかりふさがってしまったという事でこれもクリア。元気いっぱいに年中さんに進みます。

絶好の洗濯日和のはずが、爆弾マークのようなヒノキの花粉情報にままなりません。花粉症ではないのですが気をつけておきます。こんな日は久々にチャイをのんでゆっくり読書です。
 

紅茶に合うのはカズオ・イシグロ「日の名残り」。イギリスの美しい田園風景をすんなりと思い描くことができます。主人公の品格ある頑迷な執事の思いと仕事ぶり、使用人同士の人間関係、背景には屋敷で行われた世界史的な重要な会議、と奥深さを感じさせます。
イギリス社会にしか存在しないガチガチの「執事」。本の最後に桟橋で出会った男の言葉「人生、楽しまなくちゃ。夕方が一日で一番いい時間なんだ・・・」。そして、すぐ後ろにいた若い男女の会話を聞いて、人間同士を温かく結びつけるのはジョークだと気づくのです。「決意を新たにしてジョークの練習に取り組んでみること」を執事は決心しました。
お屋敷の今度の新しい主人はアメリカ人。その主人を、「立派なジョークでびっくりさせて差し上げよう」というところで本は終わります。イギリスとアメリカの歴史の違いを感じました。執事役がアンソニー・ホプキンスの同名のこの映画を先に知り、ずっと観たかったのですがいまだに観れていません。

寝る前のベッドでの本は遠藤周作「侍」。支倉常長と同じ船旅をしたパードレとの物語ですが、夜に読むには、報われないことばかりの辛すぎる内容でした。
以前にも支倉常長の本は読んでいましたが、今回はクリスチャンである遠藤氏の本。内省的な記述だったから余計にぐさりと心に突き刺さりました。

     

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NHK大河 『西郷どん』 始まります!

2018年01月06日 | 本・新聞小説

「せごどん」がいよいよ始まります。秋頃から予告の映像が流れ、NHKも相当に力を入れているのが感じられました。林真理子氏描く西郷像にも期待が膨らみます。

書店には幕末・維新・西郷の派手な文字の本が目立ち、A4サイズの2種類を購入しました。『歴史人 別冊』と『忘却の日本史 特集号』です。
尊王攘夷を巡っての複雑な幕末の動きと、西郷さん本人の解説を分かりやすく書いてあるのでドラマを理解するのにきっと役立ちます。

 

『歴史人』には粗雑な紙の付録がついており、これが傑作。「西郷に対峙した佐幕派の忠臣たち」を66ページにわたって書いてあります。
面白いのは、「リーダーシップ」「先進性」「剣術」「学問」「影響力」を五角形のレーダーチャートで示してあるので、その人物の評価が一目瞭然で、自分で人物像を膨らませることが出来ます。ドラマを観るにはますます強い味方です。

 

『西郷どん』の公式HPには、青空を背景に西郷どんが飛び上がっている写真が出ています。

薩摩藩士を『上代の隼人が翔ぶが如く襲い、翔ぶがごとく退いたという集団』と表現した司馬遼太郎氏の文章を意識しているのかな、とは私の勝手な想像。

その著『翔ぶが如く』は以前読みましたが、あまりに膨大すぎて大まかな筋しか記憶にありません。とにかく歴史に名を残したたくさんの個性豊かな人物の記憶を手繰り寄せてみます。

 

これら数冊の本を合わせ読みながら、50回に及ぶドラマが楽しみです。何よりも鈴木亮平さんの西郷どんと、瑛太さんの大久保利通がどんなふうに展開していくかも楽しみです。勝海舟は?龍馬は?誰が演じるのだろう・・・。

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司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』

2017年12月13日 | 本・新聞小説

この本を教えていただいたのは、サークルの会話の中に出てきた言葉からです。主人公は沈壽官で、そのタイトルがとても心を惹きました。秀吉の朝鮮出兵と沈壽官に至る関係は悲劇としてのマイナスイメージがあったからです。
月曜の「鶴瓶の家族に乾杯」で尋ねた家で沈壽官作のぐい飲みがでてきて、そこに沈氏の声の出演場面がありました。たまたまこの本を再読中だったので、この偶然に喜び、素晴らしい本を記録して残しておきたく思いました。

今から14年前に、韓国の水原(スウォン)の古都と利川(イチョン)の焼き物を訪ねようとハングル語もわからないままに4日間の旅をしました。
   
利川の「海剛陶磁美術館」で、古代から現代の素晴らしい作品群の展示を見てスタッフの女性に質問したときのこと。
こんなに素晴らしい陶磁器があるのに、今はなぜ金属の食器を使うのか尋ねた時に、「秀吉が全部日本に連れて行ってしまったからです」と実に冷たい態度と言葉が返ってきました。敵とみなされている感じがしました。相手の感情を無視した自分の愚問、しっかりとした歴史認識をしていない自分の甘さを恥じ入り、その光景がずっと心に澱のように溜まっていました。しかし、この本を読んで心の中の澱が少し澄んだように思います。

*゜...あらすじ ...*:.::.*゜:.::.*゜

司馬氏は京都のある寺の庭で一片の茶碗のかけらを目にし、同席していた人の「薩摩の苗代川の焼き物では」という言葉を耳にします。
そして20年の月日が経ち、鹿児島の空港でひょんなことから苗代川を思いだし、出発までの時間を利用してそこに向かいます。

苗代川は秀吉の朝鮮出兵の折に捕虜として日本に連れてこられた朝鮮人の村でした。そこで14代沈寿官と出会います。「どの程度この村には三世紀半前の朝鮮が残っているか」が司馬氏の関心でした。
その後、日が経つにつれて『沈寿官氏と苗代川の一種神寂びた村のたたずまい』が司馬氏の脳裏に増幅し小説を書こうと思いたちます。

18世紀の江戸、医家の橘南谿が憧れていた苗代川に旅をしています。そのとき薩摩藩が苗代川の民に母国(朝鮮)どおりの暮しさせ、年貢を免じ、士礼を持って待遇していることに感じ入ります。
そこで村の荘官に「もう朝鮮のことなど思い出されることもございますまい」と尋ねると「さにあらず。…このように厚遇を受けているにも関わらず、人の心は不思議で、帰国いたしたき心地に候…故郷忘じがたしとは誰人のいいけることにや」と語りおさめました。

慶長の役の折、薩摩は沈姓等70人ほどの男女を捕虜にしましたが、突如の秀吉の死で困難と混乱を伴う撤退をした折に、奇妙なことに一部の陶工たちは船団を離れ漂流して、翌年薩摩半島・串木野の浜に漂着したのです。
折からの関ヶ原の戦いで、半ば放っておかれた状態で島平で3年ほど窯を築いて生活しますが、現地民の迫害を受けさらに奥に進みます。
そこで見つけたのが、どこか故郷の南原(ナモン)の土地に似た苗代川でした。近くの倭人は心優しく両三年過ごすうちに、漂着民のことがようやく島津藩主の耳に入ります。

そのころ、鹿児島城下では別ルートで来た相当数の韓人を高麗町に住まわせていました。藩主は城下に住むことを命令しますが、長老は高恩に感謝しながらも頑固に拒否します。
朝鮮を裏切って薩摩についた朱嘉全とは居住をともにしないこと、故郷を偲べる東シナ海の見える丘に住みたいことの理由が許されて苗代川に定着することになりました。
土地と屋敷と扶持を与えられて、彼ら島平の漂着組十七姓の身分が決定したのです。武士同様の礼遇でした。

活発な作陶活動が始まります。独自の白薩摩、黒薩摩を世に送り出しました。幕末の薩摩藩は十二代沈寿官を中心に洋食器も作り、長崎経由で輸出して巨利を得ました。パリ万博、オーストリア万博での出品も薩摩焼の評判をさらに高め、この時が苗代川のもっとも盛んな時でした。

島津義弘の頃から、この村は藩規として学問を強制され高い学力を誇ってきました。
明治以後の政府はかれらをただの日本人としましたが、姓と血筋だけが特異なものとして残り、その特異さが世間の目を惹いたのです。
旧制中学校では、十三代も十四代も、「朝鮮人」として暴力を受けたのです。
苗代川の住民はむしろ能力の高い選民として戊辰戦争、西南戦争と日本的でありすぎるほど日本人として生きてきました。それが、突如、日本人でない「朝鮮人」として暴力を受けたのでした。
韓国人の血、日本人の血を真剣に考え闘ううちに、14代はそれが誤りであることを突き止め、この世で生きていく姿勢を得たのでした。十三代沈寿官は京都帝大法学部へ、十四代は早稲田大学政経学部へ。

14代沈寿官氏が招かれて渡韓した時に、ソウル大学で講演をしました。
『韓国の若者は誰もが口をそろえて三十六年間の日本の圧政について語ります。もっともであるが、それを言いすぎることは若い韓国にとってどうであろう。言う事はよくても言い過ぎるとその時の心情は後ろ向きである。新しい国家は前へ前へと進まなけばならないというのに・・・・・・あなた方が三十六年を言うなら、私は三百七十年を言わねばならない。』
この時、沈氏の言葉は学生たちの本意に一致しているという合図を歌声にして湧き上がらせました。
この言葉を日本人が言ったとするなら学生は反発したでしょう。しかし沈氏が何者であるかを学生はすでに知っていました。学生たちは沈氏へ友情の気持ちを込めて歌ったのでした。

沈氏は壇上で呆然となり涙が止まりません。しかし背負うべき伝統の多すぎる沈寿官氏は「ここで薩摩人らしく振舞おうという気持ち」が反射的に起こり、涙を冗談に変えようとします。友人の間ではもっとも薩摩人らしい薩摩人と認められているからです。しかしその感情は大合唱に飲みこまれてそのまま壇上で身を震わせていました。
二つの祖国・・・、いつの時代も難しい命題です。私は、沈寿官氏が心の奥にずっと祖国から引き離されてきた悲しみと恨みを持っているように感じていましたが、沈氏の人柄や人物像を知り、何かホッとしたような救われた気持ちになりました。
司馬氏にしては60ページほどの短編ですが、じっくりと心にしみわたる余韻のある内容でした。

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コスパ、最高!

2017年10月13日 | 本・新聞小説

天神のど真ん中に、見える「隠れ家」を発見しました。騒ぐこともないのですが、新しくつたや書店にカフェが入ったのです。
文庫本を買って2時間余り、コーヒーを飲みながらゆったりと読書をしてきました。主婦にとっては最高の時間空間です。
新刊に混じってリユースが陳列されていたらしく、私が買ったのがそれでした。料金を払う時にわかり、なんとラッキー!新刊と比べてもリユースも遜色ありません。大型書店もいろいろな工夫をしており意外でした。大歓迎です。

それにカフェも安い!2階の窓辺に席を取ると、目の前の街路樹の向うはパルコ。なのに騒音もなく実に静かです。何よりもその場所は路線価1㎡785万円で、これほどのコスパの良い場所と時間はざらにはありません。超低価格でリッチな気分、サイコーでした。

ところが読み終えて分かったのが、買った本は(一)だったので、(二)(三)(四)巻が必要です。Amazonでリユースを探すとなんと「1円」なのです!こんなの初めて。司馬さんに申し訳ない様な・・・。
でも背に腹は代えられません。早速マウスをポチッ!各巻に送料258円は必要ですが、二日後には届きました。本の好きな人は丁寧に扱うのでしょうね。紙の色が黄ばんだ経年劣化だけでした。

       

テレビではちょうど出版社の記者会見があっていました。各図書館に対して「出版不況をもたらすので、新刊本は1年間貸し出さないでほしい」という要望です。本が売れないのだそうです。それぞれが死活問題を抱えているのですね~。
写真は3円で購入した本。「貸出」よりも「リユース」の方が問題かも・・・。出版社さん、ゴメンナサイ。

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カズオ・イシグロ 「わたしを離さないで」

2017年10月09日 | 本・新聞小説

ノーベル文学賞受賞のニュースは、テレビのテロップよりいち早くスマホのライブニュースで知りました。マイクの前で発表された言葉の中に確かに日本人の名前の響きが・・・。ムラカミ・・・ではありません。かすかに聞き取れた「イシグロ・・・」に、瞬間的に数年前から話題に上るイギリス在住の日本語を話せない日本人作家が頭をよぎりました。
少し遅れて同時通訳の「カズオ・イシグロ」の名が。やはりあの作家でした。「えっ?・・・」と夫が急いで書斎に行き一冊の本を持ってきました。カズオ・イシグロ「私を離さないで」。

読書家だった夫の友人S氏が、亡くなる数年前に面白かったからとわざわざ我が家まで持ってこられた数冊の本の中にそれが入っていたのです。
S氏は無類の本好きという事もあって、丁寧に扱われていた本の扉には蔵書印を押した紙が几帳面に貼ってありました。夫もこの系統の文学書はあまり好みでないのでそのままになっていたようです。人文科学、社会科学と多岐にわたったS氏の愛読書と想い出話をひとしきり・・・。

ページをぱらぱらとめくると、何か読みにくそう・・・。「アルジャーノンに花束を」系の本はどうも苦手なのです。歴史上に生きた人間の生き様の方が興味を引きますが、S氏の送ってくれた気持ちとノーベル賞受賞作家の本ということで読み始めました。

    

ところが、ところが、夜の9時に読み始めて朝方4時まで一気に読み終わりました。ここでひとまず終わろうという切れ目がないのです。ひとつの謎が次の章でわかる、というような自然な流れになっています。

「介護人」「提供者」「ヘールシャム」「特別な場所」「保護官」など、最初はよく理解できない言葉が出てきますが、その謎がページを追うごとにおぼろげにわかってきます。それでも臓器提供はほのめかされながら明確に話題にされる事はありません。子供たちの背景や家族が全く出てこない閉鎖的な環境なのに、恵まれた施設と教育内容・・・。とても不可思議な、そして怖さのある世界です。

三分の一ぐらい読み進んだところで、保護官の「・・・あなた方の人生はもう決まっています。これから大人になっていきますが、あなた方に老後はありません。いえ、中年もあるかどうか……。いずれ臓器提供が始まります。あなた方はそのために作られた存在で、提供が使命です。………あなた方は一つの目的のためにこの世に産み出されていて、将来は決定ずみです。……遠からず、最初の提供を準備する日が来るでしょう。それを覚えておいてください。みっともない人生にしないため、自分が何者で、先に何が待っているかを知っておいてください」という決定的な言葉に、「ヘールシャム」がクローン人間の施設なのだと確信しました。

牧歌的なイギリスのなだらかな丘に建つ「ヘールシャム」で、運命を静かに受け入れた生活は16歳で終わります。前半に比べて、「ヘールシャム」を出た後半の15年は、介護人生活のこと、数回にわたる提供者達の生活の支援など重苦しく進行します。
クローンゆえ子供を産めない身体にも、だからこそ、心身の恋愛は肉体の健康のためにむしろ推奨されます。クローンでも人間としてルーツへの苦悩、知りたいという願望、自分に似た2~30歳上の「ポシブル(親)」を探しに行くところなど身をつまされます。
医学の進歩と弊害、倫理感、クローン人間を作り出した人間がクローン人間に持つ恐怖感、差別感、恋愛、3年間の命の延長のための粘り強い抵抗と交渉など、奇怪な進展の中に多くの問題が含まれ、真実が含まれ、SF の世界のすぐ隣にある現実のように考えさせられました。

イシグロ氏の英文は土屋政雄氏の日本語訳です。ネイティブの英国人作家作品を日本語訳した角ばった文章とは違った趣があります。あたかも最初から日本語で書かれた様な流れるような優しい文体は、訳者が素晴らしいばかりではないように感じました。
きっと、友人S氏も自分の愛読書がノーベル文学賞作家の本になったことを天上で喜んでいることでしょう。                                                                                                                                                                                                                                           

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壮絶、「政次」の最後

2017年08月23日 | 本・新聞小説

今、「政次」と聞けば、書けば、すぐ「小野但馬守政次」だとわかります。大河「直虎」に出てくる井伊家の家老です。

主人公の直虎をしのぐ人気の高橋一生さんが「小野但馬守政次」を演じました。「高橋一生」でなく丸ごと「政次」一色に染まってしまう、いや政次になってしまう程の好演でした。

大河が始まる前に2冊の本を読みました。「直虎」自体が本当に存在したのか、男ではなかったか、との疑問もあるようですし、登場するのもあまり知られていない地味な人物ばかりです。
 
                

2冊とも小説としてではなく、古文書や地図などの資料を解き明かしながら書かれています。あんまり面白くはない、退屈しがちな内容・・・・です。だから1年間のドラマがどういう風に展開するのか想像がつきませんでした。
ところがテレビでは、高橋一生が登場するたびに、政次の存在が深みを増し、なくてはならない大きな人物になってきました。週を追うごとに視聴率はぐんぐん上がっていきます。さすが脚本家です。

史実は小野但馬守政次は、井伊家の家老でありながら今川と結び井伊を乗っ取った裏切り者で、攻めて来た徳川家康によって滅ぼされます。だから、政次の初期の頃の冷たい表情に憎らしささえ覚え適役だと思っていました。
が、途中から、一生氏の表情の巧みさの中に「えっ?ひょっとしたら井伊家を守ってるの?いい人?」「どんな展開になるの?」と混乱してきました。

自由奔放な女城主直虎を陰ながら支え、厳しく叱り、つき放ち、優しさと冷たさの織り交ざった好演でマスコミの話題をさらっていましたが、ついに20日放映の磔場面で大河から去っていきました。

クールさを失わない熱演で「直虎」の番組を引っ張ってきただけに、ネットでは「政次ロス」の言葉さえ出てきています。

政次の本心が周りの人々によって少しづつ理解され、口にされて、視聴者もやっと政次の本当の人物像がわかってきました。政次の口からは「今川への忠誠を装いながら、実際は井伊家存続に奔走している」という台詞はひと言も出てきませんでした。
今川の敵、徳川に弓を引いたという濡れ衣を着せられて、最後ははりつけにされます。井伊を存続させるためには自分は直虎の敵だと周知させること、それこそ「このために自分は生まれてきたのだ」と重たい台詞を吐きます。

直虎は政次を助けたい気持ちを封印して、政次の深い心を理解し、お互いの胸の内を分かり合ったうえで、はり付けの政次に自ら穂先鋭い槍を向けたのでした。

二人の心がひとつになった場面、政次の死は壮絶でした。裏切り者を演じながら、ほのかな恋心を寄せながら、井伊を守るための同士でもあったのです。
さて来週からはどんな展開になるでしょう。まだ4か月もあります。菅田将暉が演じる井伊直政が楽しみです。。

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「お休み、ロジャー」、ラジオで、新聞で、テレビで、たびたび目にしたので買ってしまいました。何といっても「たった10分で、寝かしつけ!」の魅力的な言葉からです。


内容は、眠れないうさぎのロジャーが、親切な魔法使いのあくびおじさんの家に会いに行くというストーリーです。途中何人かの友達にも会います。眠りおじさんに眠たくなるという薬を振りかけてもらい、家に帰ってきて眠るという、メリハリのないシンプルな話です。

読み方に抑揚をつけたり、強調したり、指摘された場面で読み手があくびをしたりします。繰り返しの言葉が多いし、ストーリーも面白くないので緊張して聞かなくてもいいし、体が弛緩してくる感じはします。
10分、孫二人ともまだ寝ません。13分、一人から寝息が聞こえだしました。30分、眠りかけています。読む方もウトウトしてきて、文字とは関係ない言葉を発してはっと目が覚めました。35分、やっと寝ました・・・。
35分か・・・・、これくらいの時間をかけると大体眠るのでは・・・?

二回目はもっと早く眠りにつきました。寝つきの悪い孫二人には、確かに早めに眠気が来た気がします。

この本はスウェーデンの研究者が、心理学的要素を入れ込み、科学的な効果を狙って書いたものだそうです。繰り返しの言葉で、自分がその状態にあるという暗示の効果を高めるし、一種の催眠術でもありリラックス効果で安眠に繋がるという事です。

試した結果はこれでした。10分とはいきませんでしたが、少しは効果があった・・・と思うようにしました。

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原田マハ「楽園のカンヴァス」

2016年06月22日 | 本・新聞小説

夫の永年勤続に贈られる恩典。それを使って行ったのがニューヨーク。私は歴史のあるヨーロッパの方がよかったのですが、ニューヨークはエネルギーのいる街だから若い時に行った方がいいという理由で。もう20年ほど前の話です。
夫は何度か訪れており、その感動を家に閉じ込められている私に「今見せておきたい」と配慮してくれたようです。

その時にニューヨーク近代美術館(MoMA)で見た1枚の絵、ルソー『夢』。2m×3mの大作がこの本「楽園のカンヴァス」の始まりです。

主人公は大原美術館の監視員早川織絵。監視員と言っても経歴はパリで美術史を学び若くして博士号をとった研究者ですが、事情があり日本に戻りひっそりと暮らす女性。もう一人の登場人物がMoMAのアシスタントキュレーター、ティム。
この二人がスイスの大コレクターのバイラーから指名を受けて所蔵品の真贋鑑定を依頼されます。
それはMoMAが誇る『夢』と同じ構図の大作。こちらのタイトルは『夢を見た』。ルソーは2点の絵を描いていたのか・・・?
バイラーの出した鑑定の条件は1冊の古書をそれぞれが読んで判定を下すというものでした。
ルソーの生きた20世紀初頭のパリと、鑑定を行った1980年代のスイスと、鑑定した二人のその後の2000年という時空を駆け巡って話が進みます。

ルソーの画家生活ばかりでなく、ピカソも重要な決め手として登場します。何よりもコレクターの生活様式、巨大美術館の内部と学芸員の活躍と誇り、母娘の関係、ライバルでありながら心惹かれていく二人の複雑な心情に人間ドラマを見るようです。

本にも出てきますが、大富豪のコレクターの邸宅というのがまたとてもすごいのです。私が訪れたのが、ニューヨークのフリック・コレクション、ワシントンのフィリップス・コレクション、スイスのオスカーラインハルト・コレクション、パリのマルモッタンなど。
邸宅に飾られた絵が、調度品を交えて
当時の大富豪の生活を偲びながら鑑賞できるというとても贅沢な鑑賞方法です。巨大美術館に比べて温かみがあり、私の大好きな邸宅美術館です。

歴史と画家は史実に忠実に、その隙間を埋める人物関係の綾の緻密さに舌を巻きました。美術館で仕事をした現場感覚も持つマハさんのすごいところです。

登場する作品名も26点。有名な絵ばかりです。この話は本物では・・・と思ってしまい、何度も年表をめくり、ネットで探しました。
その真贋の結末は・・・?心拍数のあがる、わくわくするミステリー小説、いやいやこういう事は有名絵画にはありうることかもしれない・・・。ぜひお勧めしたい本です。
世界のどこかで、屋根裏部屋に忘れ去られた絵の下に、もう一つの絵が眠っているかもしれない・・・。夢をつないでくれる美しいストーリーでした。

最初に出てくる大原美術館から最後のMoMAまでぐいぐいと引き込まれ一気に読みました。というのは、20世紀初頭のパリと現代を行ったり来たりする世界を股に掛けた話は、私が訪れた世界の美術館やそこで見た名画、美術館ボランティアの目線など自分の経験で容易に組み立てることができたのです。
私にとって、いわば自分の経験の感動を網羅した内容で、「うん、うん」と納得し心に刻み込み、深く印象に残った本です。

訪問地を選別しながら興味と好奇心で回った旅行ですが、今の世界情勢や年齢的にも海外旅行はもう無理かも・・・。
ただ、「これが最後の海外旅行」と銘打った旅行が存在していないのがとても心残りでした。
しかし、この本はそんな不完全燃焼のあいまいな終わり方と気持ちを充分に納得させ得る内容でした。
私の心を満たしてくれる素敵なレゼントをもらったような・・・。原田マハさんに感謝です。

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原田マハ『ジヴェルニーの食卓』

2016年05月08日 | 本・新聞小説

友人の間を回りまわって私のもとに届いた文庫本、原田マハ「ジヴェルニーの食卓」集英社文庫。マティス、ドガ、セザンヌ、モネにかかわる4話の短編集です。ちょうど司馬遼太郎「この国のかたち」の角ばった文章を読んでいた目には、マハさんの透明感のある優しい文章とストーリーにホッと心を和ませました。

第1話「うつくしい墓」はマティスの晩年を描いた小説です。第二次大戦後のニースで孤児になった絵の好きな少女マリアが、富豪で絵画コレクターの未亡人の家政婦になり信頼を得たことから物語は展開していきます。

ある日女主人の命を受け、広大な庭のマグノリア(タイサンボク)の大木から3輪の花を切り取ってマティスに届けます。84歳の車椅子のマティスは、マグノリアを飾るためにマリアに花瓶を選ばせます。マリアが選んだのは翡翠色の花瓶、それも1輪だけ挿して。この行動がすっかりマティスの心をとらえて、今度はマティスの家のお手伝いとして働くことになりました。

ネット「季節の花300」からお借りしたタイサンボクの花

実はマティスは1941年に『マグノリアのある静物』で、全く同じ花瓶に1輪だけのマグノリアを描いていたのです。その頃は戦争も長引きそうで、マティスは十二指腸がんの手術後で、と明るいニュースは何もない時。マティスは騒がしい時期にあっても調和を表現すること、それが「私の勝利」だと絵に没頭します。
マリアのこのセッティングは「ほんとうにほんとうの、偶然の一致」でした。1枚の絵からこんなストーリーを膨らませていくマハさんのしなやかな頭脳に感服しました。キュレーターの履歴を持つマハさんの力量発揮というところでしょうか。この絵は私もポンピドーセンターで単なる静物画として見ていはいたのでしたが…。

          マティス「マグノリアのある静物」1941年

その日からマリアは、マティスの死に至るまでの6か月間を「悲しみは描かない・・・・ただ生きる喜びだけを描き続けたい」というマティスの傍で過ごします。
車椅子のマティスは、油彩画はやめて切り絵画に専念していました。その作業は秘書のリディアが手伝います。実際はリディアはマティスのモデルもつとめ、ミューズであり若き伴侶のはずですが、ここではマティスとリディアや富豪の未亡人との関係を詮索することなく、マハさんは陽光がきらめくニースの、美しいハーモニーのある明るい生活に仕立てています。
   

   
  ロックフェラー礼拝堂のバラ窓          ベッドでドローイングするマティス

この頃、マティスは車椅子で切り絵をしたりベッドでドローイングをしたりしてロックフェラー礼拝堂のバラ窓の制作中でした。その作業を終えて間もなくマティスは84歳の生涯を閉じます。その魂はマティスが「生涯を通して、もっとも重要で、かつ集大成となる仕事と認められているロザリオ礼拝堂」に息づいています。
         
    ニースのロザリオ礼拝堂             ロザリオ礼拝堂「生命の木」

「生涯を通して闘い続け、愛し続けた友」であるピカソとの交流にも触れています。ピカソは26歳の頃マティス『生きる喜び』をパリのアンデパンダン展で目にして虜になります。「マティスがいてピカソと出会った」瞬間です。

ピカソ『血のソーセージのある静物』。同じ1941年に、平静さを追及していたマティスはマグノリアを、ピカソは戦争に対する抑えようもない激しい感情を描いています。まさに正反対の静と動の画家。反発しつつも交錯しあいながら二人の人生はマティスの死まで太い糸で結ばれていました。

  

  マティス「生きる喜び」1905年      ピカソ「血のソーセージのある静物」1941年

この物語はマリアの思い出語りとして書いてあるので文章も美しく、読むだけでカラフルな場面をイメージでき、口調までもが耳に響きます。場所がパリでなくニースというのもうなずけます。
4話を通して歴史上の人物、印象派、ポスト印象派の画家たち、作品のタイトルがずらりと出てきてフィクションなのに本当にあったのでは…と思わせます。文中に出てくる作品をどうしてもアップしたくてネットで探しました。

私がマティスの絵で深く心を動かされたのが、エルミタージュ美術館で見た大型の「赤の食卓」。今もその感動は薄らぎません。以来どこに行ってもマティスの絵を探してしまいます。そのマティスがこの本の最初に出てきたので夢中になって読みました。この偶然にも気をよくしています。

              マティス「赤の食卓」1908年 180×220

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「しんがり 山一證券最後の12人」 清武英利 講談社+α文庫

2015年12月11日 | 本・新聞小説

白内障手術後の最初の一冊を探していた時に、たまたま目にしたのが「しんがり 山一證券 最後の12人」です。山一と言えば、18年前自主廃業を公表した際の野沢社長の号泣会見が今でもすぐに瞼に浮かびます。

1997年11月、山一證券が自主廃業を発表したときに、野沢社長が『社員は悪くありませんから!悪いのはわれわれなんですから!お願いします。再就職できるようにお願いします』と会見場で号泣しながら訴えた姿は衝撃的でした。
大企業がまさか!しかし同じころ拓銀、長銀、三洋証券と次々に倒産していました。バブルがはじけたのです。

この本には、山一はなぜ「自主廃業」に踏み切らなければならなかったのか、会社更生法は適応されなかったのか、日銀から特別融資を受けられなかったのか・・・、という疑問が素人の私にも納得が行くように書かれています。

山一を滅亡に追いやった巨額の簿外債務が『いつ、どのようにして、誰の決断で発生したのか…・・・その原因は何だったのか……どこに隠され、なぜ発覚しなかったのか』を究明するために、廃業後「調査委員会」が設置されます。
ほとんどの役員や社員が再就職へと奔走する中で、最後の調査を引き受けた人たちが「しんがり」つまり『最後の12人』なのです。

「しんがり(殿)」とは『後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊を指す』言葉です。
しんがりは、戦術的に劣勢な状態の時に敵の追撃を阻止し本隊の後退を援護するのが目的なのです。本隊からは支援を受けることもなく限られた戦力で戦う危険で損な任務なのです。 
自ら進んで貧乏くじを引いて清算業務に当たり最後まで筋を通し、人より1年半も遅れて第2の人生に踏み出さねばならなかった人たちの人生ドラマが感動的です。
「とばし」「含み損」「にぎり」など業界用語も出てきて、日常生活では知ることのできない金融、証券業界のことが少しだけわかりました。

このように書くと難しい内容に思われますが、WOWOで連続ドラマ化されているという程の感動の物語なのです。(主演は江口洋介)

「バブル」。孫が6歳だったころ「バブルって大人がめっちゃ無駄遣いしたんでしょ」と言ったのでドキッとしました。アニメで「バブル」を知ったそうです。
言い得て妙。バブルの頃個人所得は増加、消費需要も上昇。確かに浮かれていました・・・・。

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司馬遼太郎「世に棲む日日」 と 「花燃ゆ」

2015年06月15日 | 本・新聞小説

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の放映が始まり半年が経ちますが、聞こえてくるのは視聴率の低さ・・・故の雑音です。
当初キャスティングを見て、これなら若い人たちも取り込んで高視聴率だと確信していたので、この不評をちょっと残念な思いで見ています。

文春文庫の全4巻の「世に棲む日日」は前半が吉田松陰を中心に、後半が高杉晋作を中心に書かれています。

司馬さん自身は松陰をあまり好きでなかったようですが、晋作を書くのに避けては通れないというところもあり、前半びっしりと松陰になっています。

私の松陰のイメージは、教科書に載った肖像画と「松下村塾」の数行の知識しかなくピンとくる人物ではありませんでした。

この本を読んでいくうちにその考え方が少しずつわかり、ドラマの楽観的で明るい「伊勢谷松陰」でイメージが一変し、「狂いなさい」のセリフが心に残りました。

主人公の「文」は、本では「杉家」の家族構成の一員としてわずかに出てくるくらいですが、この女性を主人公にしてストーリーを広げていったところが脚本家のすごいところだと思います。

2巻めで、司馬さんが松陰の革命についての考え方を3つに分けているのが、このドラマをざっと理解するのに役立ちます。

①革命の初動期は世の中から追い詰められて非業の死を遂げる、例えば松陰。

②中期には卓抜な行動家が現れ奇策縦横の行動で彼らもまた多くは死ぬ、高杉晋作や坂本竜馬。

③次にそれらの果実を採って先駆者の理想を容赦なく捨て、処理可能な形で革命の世をつくり大いに栄達する「処理家」、伊藤博文など。

『松陰の松下村塾は世界史的な例から見てもきわめてまれなことに、その三種類の人間を備えることが出来た』と書かれていますが、長州藩の特異さもあったと思います。

藩主毛利敬親は何にでも「そうせい」という台詞をはき、ともすれば「そうせい侯」と揶揄的に言われますが、この時代にトップの坐にある人が、他人の意見を聞くという姿勢に敬親の力量を見る思いです。
松陰が長州の人たちを作り上げたのでなく、松陰の考え方が育成される土壌がすでに長州藩そのものに存在していて、新しい考え方をしようとする若者を吸引していったように思います。

ドラマも後半に向かっています。②から③へ。文が鹿鳴館の衣裳を身につけているチラシの写真を見ましたが、それが③の部分でしょうか。
視聴率を上げるべく「大奥」のきらびやかな場面が設定されているとのこと・・・。視聴率を気にしない番組もあっていいと思うのですが。

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坂口安吾著『二流の人』  と 武田鉄矢『二流の人』

2014年09月03日 | 本・新聞小説

2014083011540000_2 母の入所先に通う電車の中での出来事。夏休みの終わりはもう子供の姿すら見えません。子供の頃の長い夏休みの終わりのあのいやーな心理状態・・・。今でも鮮明です。


ゆったりとシートを独り占めにして本を読んでいると後方からなにやら騒がしい声が近づいてきます。何かのトラブル?と思ってやり過ごし、ふと足元を見ると何と武士集団なのです。
それが官兵衛ゆかり武士たちだと気づくのにちょっと時間がかかりました。


その時に読んでいたのが葉室麟『風の軍師』で、官兵衛をキリシタンという視点からとらえた緻密なストーリーです。その偶然が嬉しくてつい声をかけてしまいました。

「ちょうど今、官兵衛を読んでいたところです。写真を撮ってもいいですか?」というと、声をかけてもらって嬉しいと勇ましいポーズを取ってくれました。

福岡市の広報活動をしているとのことで、左は井上九郎右衛門、官兵衛の有能な三人の部下の一人です。右は柳川城主の立花宗茂。電車の終点が柳川なので立花宗茂がいるんだそうです。
実際は官兵衛との接点は何度かあったくらいですが、武勇、人間性ともに宗茂の逸話も事欠きません。

NHKの黒田官兵衛は、表情に凄味も加わってだんだん策謀家の顔になってきました。初めは「岡田准一の黒田官兵衛」でしたが、何の何の今では一体化して「黒田官兵衛」そのものになってしまいました。一年間の素晴らしい成長を目の当たりにした思いです。


坂口安吾『二流の人』は官兵衛が主人公の歴史小説ですが、彼を取り巻く人物の心の動きを見事にとらえ、ここまで放送禁止用語を使っていても反発を感じないほど小気味いい文体とすぐれた人物分析です。
官兵衛がなぜ一流たりえなかったのか・・・がわかってきます。


ウォーキングの折にラジオで武田鉄矢の『二流の人』を聴いて一人で笑いこけました。限られた歌詞のスペースに官兵衛の一生が盛り込まれています。

「二流の人」 作詞:武田鉄也 作曲:中牟田俊夫 (クリックするとYoutube で聴くことが出来ます)

『そんなに欲しい天下なら 家康お前にくれてやろう まぐれで勝った関ヶ原 さぞやよろいも軽かろう せめて百日関ヶ原 続いておればこの天下 オレのものにしていたものを  信長、秀吉、家康と仕えて戦に明け暮れた 水の如くと流れてきたが 今は天下に未練なし 黒田官兵衛苦笑い 一生ツキがなかったと 黒田官兵衛苦笑い     

弓もひかずにただ待つだけで 天下とったか家康よ 十万の兵士ひきいて敗れた石田三成おろかもの せめてひと月関ヶ原 続いておれば博多から大阪、京まで攻め込んだ  天下を取れば船を出し バテレンの国や絹の道 ただの一人で駆けめぐる そ
れも今は夢の夢 黒田官兵衛苦笑い 一生ツキがなかったと 黒田官兵衛苦笑い       

流れる水に文字を書く そんなムダな一生さ 人よ笑え二流の人と 今はおのれがあわれなり 黒田官兵衛苦笑い 一生ツキがなかったと 黒田官兵衛苦笑い 』                 

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スペインの「ハポン」さん、先祖は「サムライ」

2013年10月29日 | 本・新聞小説

今年は日本・スペイン交流400年の年。その中で「ハポン」姓の先祖は日本人という衝撃的な話に出会いました。
調べてみると、なるほど遣欧使節使のスペイン残留者の子孫が、それも数百人単位で今も存在しているという事実に行き当たりました。このロマンあふれる話は放ってはおけません。


Img_2そこで手に入れたのほが 、太田尚樹『ヨーロッパに消えたサムライたち』(筑摩書房)です。
南欧文明史を専門にしている太田氏が、実際に現地に残る資料を丹念に探して書いているだけあり、歴史ノンフィクションという面白さがあります。歴史の空白はロマンの世界です

1613年、仙台藩主伊達政宗はヨーロッパに向けて国交樹立の野望をいだいて使節団を送りました。向かう船「サン・ファン・ヴァウティスタ号
」は日本製。船大工600人、鍛冶600人、雑役3000人で、45日間で作り上げた横10m、長さ18m、500トン。17世紀の初頭に、日本がこの技術を持っていたことがまずは驚きでした。

乗り込んだのは、支倉たち使節団、幕府関係者、ソロテ神父等キリスト教関係者で180人。それぞれの異なった使命と思惑と希望をのせて、太平洋へ乗り出し、3か月をかけてノビスパニア(メキシコ)のアカプルコに到着しました。
はじめて見る異文化、異民族の国。様々な困難を乗り越え、メキシコを大西洋側に横断して目的地スペインへ向かいます。

マドリッドでの国王フェリペ3世に謁見したことは資料にも残っており、少禄の武士でも魂は武士道にかなったものであり、そのふるまいに賞賛の言葉が見えます。しかし歓待はされたものの仙台藩の望むスペインとの国交の返答は得られませんでした。
日本は「金銀」の島ではないこと、あまりに遠すぎて「征服」するには至らないこと、キリスト教事情もよくないことなど、スペインの国益には程遠いものでした。折からスペインの国家財政は窮乏し、「病める強国」になっていたのも不運でした。
しかも、日本からもたらされる情報は常長たちにとっても、キリスト教関係者にとっても不利なものばかりでした。幕府は相手国としてスペイン、ポルトガルよりも宗教的に寛容なオランダを選びつつあり、キリシタン弾圧が着々と進んでいたのです。

満足のいく返書が得られないまま次の目的地ローマに出発します。
ローマでは、空前絶後の華麗なパレードが行われ、盛大なローマ入府式が行われます。法王パウロ5世に謁見して伊達政宗からの2通の親書を手渡し、「ローマ市公民権証書」も与えられ、油絵のモデルになったりします。
しかし、結局ヴァチカンは使節団の後ろ盾にはなってくれず、支倉らの望む返書は得られず、傷心のうちにローマを去り、再度マドリッドに向けて出発します。途中、フィレンツェ、ジェノバに立ち寄り、半年前に出発したマドリッドにまた戻ってきました。


しかし藩主政宗から国王にあてた親書の返答はとうとう得られず、追われるように帰国の途につくことになりました。この時点では国王からの返書は「大阪の役以後の日本の政情とキリスト教事情を見極めたうえで、ルソンで渡す」ということになっていました。この頃日本では家康が世を去り、将軍秀忠はキリスト教弾圧をさらに強めようとしていました。

資料によるとスペインを出発した日本人の数から計算して、はっきり名前の残っている瀧野嘉兵衛を始め5~8人がセビリヤに残っています。後に同道の神父ヘスースの出身地コリア・デル・リオに移り住みます。そこには日本と同じような水田が今でも広がっているそうです。

1613年10月に月の浦を出発し、1620年9月に故郷に帰り着くまで丸7年。日本とは全く違う文明文化に触れた日本人は、ヨーロッパの人々が人間性豊かに生きる世界に感銘を受けたことは確かでしょう。日本に帰るかスペインに残るかの苦悩は相当なものだったと思いますが、残る選択をした人がいても不思議ではありません。

苦難の末、常長が伊達藩に帰り着いたときは、幕府の体制が整った時期でした。常長は蟄居。歴史の表舞台から完全に消え去り、清貧に甘んじ、以前から体調がすぐれず帰国2年後に世を去ったそうです。

スペインの新聞やテレビで『昔日本から来た支倉常長一行のサムライの子孫が600人くらい住んでいると』というニュースがあったそうです。
ハポン姓の人が600名ほどいる事は住民登録で確認されているそうですが、『状況証拠は数多く存在するものの、確証に結びつく手がかりはまだ弱い』とは太田氏の意見です。
セビリヤ大学のヒル教授も『疑問は消えたわけではないけれど、80パーセントの可能性はある』としています。

この6月に世界記憶遺産に登録されたのが、常長が持ち帰った品とスペインに残っている関係文書です。写真の文庫の表紙、国宝「支倉常長像」は、使節時代に現地で描かれたものでもちろん登録品です。


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    読売新聞
2013年10月24日(木) 配信記事より

コリア・デル・リオ(スペイン南部)=藤原善晴】スペイン南部の「ハポン(日本)」姓の人々と約400年前に渡航した日本人のサムライらとの血縁関係をDNA鑑定で探る名古屋大学、東京大学、国立遺伝学研究所などによる共同研究チームが24日、約600人のハポンさんたちが住む町コリア・デル・リオで初めての血液採取を行った。研究チームは今後、日本人の遺伝情報との比較を行う予定だ。

同町の古文書に「ハポン」姓が現れ始めるのは、慶長遣欧使節一行が訪れて数十年後から。地元の郷土史家らは「ハポンさんたちは、スペインに残留したサムライたちの子孫」との説を提起している。

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