新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

安部龍太郎『ふりさけ見れば』日経新聞小説その④239~355

2022年08月25日 | 本・新聞小説
日経6月1日付<あらすじ>
✴️『吉備真備は感染症で甚大な被害を受けた国を立て直すべく、仏教中心の国家作りに奔走していた。反対する藤原氏の企てを阻止すべく、東宮の協力を仰いでいた』✴️
東宮とは聖武天皇と光明子の娘で安倍内親王、後の孝謙天皇です。

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朝廷内では天武派(聖武天皇と真備ら)と天智派(光明皇后と藤原一門)が対立し、それは父と母の対立でもあり、東宮は和解の道を見出そうと腐心していました。
真備は戦う男、勝つためにはどうすればよいか・・・。考えられたのは天武天皇が造った「五節の舞い」を阿倍内親王が公の場で舞うことです。その舞は天武天皇の治世方針が込められている重要なものでした。

これが成功し「天智派」を説得した形になり、天武天皇の方針に従って国を治めていくことが公の場で明言されました。
しかし「天武派」の勝利で真吉備は有頂天に·····というわけにはいきませんでした。翌日には藤原氏の大々的な位階のアップが発表されました。真備の五節の舞いの策を、藤原仲麻呂は有利な人事をしてもらうことで切り返したのでした。

この後「墾田永年私財法」へと進んでいき、これは律令制度の根幹をゆるがし、ひいては朝廷が弱体化し藤原一門が利益を受けることになります。

藤原氏にとって留学して博識の真備は目の上のたん瘤、750年には太宰府に左遷されてしまいます。5年前同じ留学組の玄昉も筑紫に左遷され、翌年に藤原仲麻呂が放った刺客により惨殺されていました。仲麻呂との政争に破れた真備には抗する術はありませでした。

藤原一族に屈してしまうのかと悶々としていたときに、藤原清河を大使とする第10次遣唐使派遣の計画を知ります。
起死回生のチャンスだと、再び使節に加わるべくすべてを賭けて大胆な行動を起こします。




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