新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

吉村昭『間宮林蔵』樺太探検のその後の人生・・・②/2                                                                                                                                                                                                                                  

2022年04月08日 | 本・新聞小説
樺太・東韃靼の調査を終えた林蔵は蝦夷地南端の松前に留まり、調査の資料を纏めます。それを手伝ったのが、師と仰ぐ村上島之丞の養子·貞助です。林蔵は会ってすぐに彼の才能を見抜き、信頼して口述筆記をさせました。出来上がった「東韃靼地方紀行」「北夷分界余話」「北蝦夷島図」を携えて1年後江戸に戻ります。


幕府は林蔵の業績を高く評価し破格の昇進と報償金100両を与えます。
伊能忠敬を崇敬していた林蔵は、次の測量に備えて彼から本格的な測量技術を学びます。

林蔵は忠敬の不完全な蝦夷地の測量をやり直して蝦夷全図を作成し、忠敬を喜ばせます。忠敬と親しく交わりながら晩年には同居して師を支えました。
林蔵の蝦夷地図を合わせて「大日本沿海與地全図」が完成したのは忠敬の死後しばらく経ってからでした。林蔵は忠敬の一大事業の一端を担ったことを喜び、人々の称賛を浴びます。

このころ千葉沖に異国の捕鯨船が出没し、上陸騒ぎで人心の不安も増していました。幕府は海岸線の調査と捕鯨船の情報を得るべく、人心を動揺させない様に林蔵に内密御用が命じられます。林蔵は秘かに旅を続けながら続々と貴重な情報を幕府に伝えます。

その後、林蔵は海岸異国船掛に任命されますが、それは海防関係の隠密を意味していました。伊豆七島巡見では豊かな知識と問題解決への積極的姿勢が評価されます。

1828年秋、林蔵は天文方兼書物奉行·高橋作左衛門(景保)に託されたシーボルトからの小包を受けとりますが、危険を察知して中身を見ないまま奉行所に届け出ます。これがシーボルト事件を引き起こすきっかけになりました。
国内の大問題となり、高橋作左衛門は失脚。シーボルトは国外追放、獄死も相次ぎました。
江戸の関係者の処分のあと、林蔵は長崎の実状調査の命を受けます。林蔵の厳しく冷静な目は更に犠牲者を増やしました。
それまで畏敬の目で見られていた林蔵ですが、このシーボルト事件により、密告者、卑劣な男と白眼視されるようになりました。
西洋の知識に関心を持つ者が増え、日本地図と貴重な西洋の文献を交換したいという状況下では林蔵の行為は憎まれたのです。

相次ぐ異国船騒ぎに、林蔵は「これはロシア鑑の攻撃と違い捕鯨船で薪水を欲しがっているだけ。それを与えて穏便に退去させるのがいい」と冷静な分析を老中に進言しています。

蝦夷通として異国船の蝦夷襲撃に関わることが多かった林蔵は、続いて奥州、山陰、九州、四国の海岸線探索の命令を受け、海岸防備と各藩の政情を探る隠密の旅に出ます。

隠密としての鋭い勘で浜田藩の抜け荷(密貿易)を見抜きました。
浜田藩は無断で竹島(現韓国領鬱陵島)から大量の海産物を持ち帰り、さらに輸出入を拡大させて莫大な利益を生んでいました。
関係者は死罪、永蟄居、自殺に追い込まれます。この竹島事件で林蔵の業績が高く評価されました。

後ろ楯の老中大久保忠真が亡くなり、林蔵も床に伏すことが多くなります。探索中に両親は亡くなっており、故郷を捨てた自身に神仏の罰を見て気力も無くしました。
気ままに生きて探索で終わった人生、経済的には恵まれても家庭を持たない寂しいものでしたが、死の間際には養子縁組も成立しました。
渡辺崋山、矢部定謙と親しい友を先に亡くし、見舞いの書状や品物が届けられるなか65年の生涯を終えました。

最後のシーボルトが見た林蔵に関する記事がなかなか面白かったので記しておきます。
シーボルトに渡った地図を幕府は全て取り戻したと思っていましたが、シーボルトは捜査を受ける直前に日本、千島、樺太、東韃靼の地図を複製して他所の金庫に隠し、後に全てオランダに送っていました。帰国したシーボルトはそれらの資料をまとめて「ニッポン」として出版します。

シーボルトの林蔵に関する記述に、幕府から審問を受けるきっかけを作ったと憎しみを抱いていますが、地理学上の偉大な発見をしたことを認め称賛しています。そして林蔵の地図を挿入し「間宮海峡」と名付けました。

1853年に興ったクリミヤ戦争で、英国はロシア艦隊を「樺太半島」の付け根に追い込んで湾を封鎖しました。しかしロシアは海峡があるのを知っており、そこを抜けてアムール河を遡って逃げていたのです。シーボルトの「ニッポン」は一部の人の目に触れただけで英国は知らなかったのです。このことで間宮海峡の存在が世界に知られるようになりました。
その後1881年、仏の「万国地誌」に、世界地図の地名に日本人としてただ一人林蔵の名前が刻まれたのです。

🇺🇦 🇺🇦 🇺🇦 🇺🇦 🇺🇦 🇺🇦 🇺🇦 🇺🇦
1945年ポツダム宣言を受諾した後の日本に、ソ連は一方的に侵攻してきました。江戸時代から日本の領土だったクナシリ、エトロフ、南樺太の日本人を、有無を言わさず違法な戦闘攻撃で追い出したのです。それは極めて短期間に興ったことでした。
一方的に領土を拡大する・・・、今のウクライナ侵攻も同じと思うと怒りがこみ上げます。


💐 💐 💐 💐 💐 💐 💐 💐 💐
早朝に、亀井聖矢さんのマリアカナルス国際コンクール第3位の素晴らしいニュースが入りました。
若い若いまだ大学生のピアニスト。美しく、柔らかく、繊細で、力強く、素晴らしい演奏です。


コメント    この記事についてブログを書く
« 江戸時代のクナシリ、エトロフ、カラ... | トップ | 食べたくなったら5分でおはぎ »