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フランス革命

歴史で気になっていたことがある。フランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」になぜ、博愛(友愛)が入っているのか? これに関する記述を見つけた。 #フランス革命
「国家が再分配税制のシステムとして機能する理由は、心情的な観点から言うと、国家と一体感を持つことが国民同士の結びつきを強くする非常に強力な方法だからだ。国家意識を共有したからと言って、攻撃的になるとは限らない。むしろ、それが友愛をはぐくむ現実的な手段となる。近代をもたらしたフランスの革命家たちが友愛を自由と平等とセットにしたのにはそれなりの理由がある。つまり、友愛は、自由と平等を調和させる感情である。他者を同じコミュニティの一員とみなすことができた場合のみ、公正のために必要な再分配税制が自分の自由を侵害しないという事実が受け入れられるのだ。」 #フランス革命

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CR化した6冊

『エクソダス』
 国家とナショナリズム
 コミュニティか個人か?
 国家はコミュニティか?
 国民的アイデンティティは急速な移住と調和しているか?
『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』
 監視社会と情報管理
『日本の哲学者とお茶を飲む』
 道元
 典座
 「身心脱落」
 霊魂はどこへ行くのか
 インタビューを終えて
『社会保障再考』
 地域再構築
 1 地域を再生、再構築することの意義
  地域の変遷
  我が事、丸ごと
  縦割りから「丸ごと」へ
  「引きこもり」青年との出会い
  寄港地のような存在
  浪江町のまちづくり
  さまざまな困難を引き受ける
  誰もが利用するかもしれない
 2 多層性の魅力
  社会保障と地域
  断らない相談支援
  「共にあること」で十分
  地縁型コミュニティ
  重層型コミュニティヘ
  新しい地縁型?
  住民の責務とは
  誘導型の手法で
  支援の多層性
『ヴァルター・ベンヤミン』
 アーレントとベンヤミン
 破壊と救出―-「歴史の概念について」
『雪の二・二六』
 統制派の勝利の雄たけび

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統制派の勝利の雄たけび 最大の反戦勢力は壊滅

『雪の二・二六』より
襲撃から難を逃れた首相岡田啓介が昭和十一年二月二十八日に辞表を提出し内閣総辞職すると、同年三月九日に陸軍・統制派の影響下で広田弘毅内閣が発足した。
広田弘毅内閣は陸軍・統制派の意向を受けて、同年五月十八日、陸相・海相の補任資格を現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を復活させて陸軍・統制派が国政に関与する道を開き、さらに同年十一月二十五日に日独防共協定に調印する。
安藤輝三、栗原安秀ら十五名が同年七月に銃殺刑により処刑されて一ヵ月後の八月、陸軍・統制派は三千人に及ぶの抗争に勝利して、高らか大人事異動による大規模な粛軍を行って皇道派を一掃し、積年な凱歌を挙げた。
既に荒木貞夫・。真崎甚三郎は前述のとおり三月に予備役へ編入されているが、皇道派の論客小畑敏四郎中将(同年三月に昇任)も八月の粛軍で予備役となって陸軍から追放された。こうして荒木貞夫・真崎甚三郎・小畑敏四郎・青年将校ら皇道派の「戦争は国防上やむを得ざる場合にわが国一国のみで戦える以外は行わない一国国防主義を採るべきである。日本が支那へ侵攻すれば米英は黙っておらず、支那・ソ連・米・英との収拾不能な全面戦争となる。限られた国家予算を農村救仙などに充当して貧窮層を救済し、支那とは友好静謐を保ち、米英とは不戦を堅持し、ソ連軍の満州侵攻に備える一国敵視主義に限定すべきである」とする対支不戦論は雲散霧消(あとかたも無く消え去ること)した。
こうして、当時のわが国における最大の反戦勢力は壊滅した。
東條英機・武藤章ら陸軍・統制派は、粛軍人事を通じて皇道派が一掃されると、皇道派をお嫌いなされた昭和天皇の寵を得て日本陸軍を完全に支配し、「支那を一撃して原料資源を確保し、ドイツと軍事同盟を結んで、ソ連・米・英との長期持久戦を勝ち抜く集団国防主義を標榜する永田鉄山の永田構想」を奉持して支那へ侵攻し、さら永田構想に基づいてドイツと同盟し無謀な太平洋戦争への道を歩むのである。
こののち支那事変における幾多の和平工作の努力が実らなかったのは、対支不戦を唱えた皇道派が粛清されて消滅し、支那一撃を強調する東條英機ら統制派が陸軍を完全支配し、何人たりとも統制派の支那一撃の強固な意思を覆すことができなかったからである。
すなわち一言でいうなら、二・二六事件によって、「最大の反戦勢力である陸軍・皇道派が粛清されて根絶やしになり……」抗争に勝利した陸軍・統制派が天皇制日本軍国ファシズムを完成させて、日中戦争に踏み込み、ドイツと軍事同盟を結んで太平洋戦争に突入するのである。

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アーレントとベンヤミン

『ヴァルター・ベンヤミン』より アーレントとベンヤミン
「ベンジ」。アーレントは十四歳年上のベンヤミンのことを、尊敬と親しみを込めてこう呼んでいた。例えば、一九三九年十月二十二日付の手紙は次のように始まる。「親愛なるベンジさん、お便りするのがようやく今日になってしまって恥ずかしく思います。大変なことがいろいろと続いていたものですから……」。
この手紙の宛て先は、フランスのヌヴェールに設けられていた「志願労働者キャンプ」である。ドイツとフランスの戦争がすでに始まっていたこのとき、ベンヤミンは「敵性外国人」としてこの収容所に抑留されていた。検閲に備えてフランス語で書かれた同じ手紙でアーレントは、文学者のポール・ヴァレリーに政府当局に訴えてもらってはどうかと提案して、ベンヤミンの解放の可能性を探っている。
アーレントとベンヤミンは、すでに一九二〇年代にベルリンで知り合っていたが、交友を深めたのは亡命先のパリにおいてである。彼女とその最初の夫ギュンター・アンダースは、ベンヤミンのアパルトマンをたびたび訪ねた。ちなみに哲学者で作家としても活動したアンダース〔本名はシュテルン〕は、ベンヤミンの父方の伯母フリーデリケ・ヨゼフィの娘クララの息子で、ベンヤミンの従甥に当たる。
アーレントはこの頃、ロマン主義の時代にベルリンでサロンを開き、知識人を結びつけるのに重要な役割を果たしたユダヤ人女性ラーエル・ファルンハーゲンの伝記に取り組んでいた。ベンヤミンは、『ラーエル・ファルンハーゲン』に強い関心を示し、一九三九年にはその草稿を読むようショーレムに勧めている。
アーレントは一九三七年にアンダースと離婚し、その後スパルタクス団の一員だったこともある活動家ハインリヒ・ブリュッヒャーと結婚する。彼はベルリンで、ベンヤミンの友人の精神科医フリッツ・フレンケルの助手を務めたことがあった。薬物中毒に陥った労働者の心のケアに、フレンケルの指導の下で従事していたベンヤミンの妹ドーラとすれ違うことがあっただろうか。
パリでアーレントと出会ったブリュッヒャーは、一九三六年六月にアンダースがアメリカヘ去った後、「ベンジ」とチェスに興じ、ブレヒトの詩を論じ合うようになる。ベンヤミンは、ブレヒトの連作詩「都市生活者のための読本」の一節は、ナチズムとスターリニズムに共通の最悪の部分を突いているというブリュッヒャーの指摘を記録している。
ベンヤミンは、友人たちの助力によって一九三九年十一月に解放されているが、アーレントとブリュッヒャーは、翌年の五月に抑留されている。アーレントは、五月二十三日にピレネー山脈の近くのギュル収容所へ送られているが、そこにはドーラ・ベンヤミンもいた。
六月十四日にパリが陥落した後の混乱に紛れて収容所を逃れたアーレントは、ギュルから近いルルドに立ち寄った際に、偶然にもベンヤミンと再会する。アーレントは、この聖母マリアの奇蹟の泉の街にベンヤミンと数週間滞在している。朝から晩までチェスをし、合間に新聞を読み、ユダヤ人をめぐる情勢を論じ合った日々を、彼女はショーレムに宛てた一九四一年十月十七日付の書簡で深い思いを込めて振り返っている。
アーレントはブリュッヒャーを探すため、七月上旬にルルドを発ってモントーバンヘ向かう。独りになったベンヤミンは、ゲシュタポがパリのアパルトマンに踏み込んで、残されていた原稿や手紙を差し押さえたという報せに打ちのめされながらも、八月には活路を求めてヴィザの発行窓口があるマルセイユヘ赴く。彼は九月に、そこでアーレントと再会することになる。
九月二十日にベンヤミンは、彼女に手持ちの原稿の一部をアドルノに渡すよう託している。そのなかには、「歴史の概念について」の自筆の草稿が含まれていた。それは彼がパリで購読していた『スイス新聞』などの帯封や手紙の下書きの裏面を使って書かれている。その六日後にベンヤミンが自殺したことは、十月半ばにアーレント夫妻に伝えられた。
一九四一年五月二十二日にブリュッヒャーとともにニューヨークに降り立ったアーレントは、数日後に当地に亡命していた社会研究所を訪れている。アドルノにベンヤミンの原稿を手渡すためである。彼女は、社会研究所がこれを早い時期に公刊してくれることを期待していた。しかし、その期待は裏切られる。
約二か月後、アドルノたちが当面ベンヤミンの遺稿を出版するつもりがないことを知ったアーレントは、八月二日付のブリュッヒャー宛の手紙で怒りを爆発させている。彼女は、社会研究所の人々がベンヤミンの原稿を握りつぶし、さらにはその思想を横領しようとしていると疑い始めていた。アーレントは、彼らに亡き友に対する忠誠を説いても仕方がないと、ブリュッヒャーとアンダースに漏らしている。
ついにアーレントは、万一に備えて作っておいた原稿の写しを使って、「ベンジ」の思想的遺言「歴史の概念について」を独自に公刊する計画を実行に移そうと、イェルサレムのショッケン社に働きかける。一九四二年に社会研究所から「歴史の概念について」の謄写版が出ても、彼女の疑いは消えなかった。
アーレントは、一九四一年の秋から七年近くにわたって粘り強くベンヤミンの著作集の出版交渉を続けたが、最終的にショッケンとの交渉は不調に終わった。しかし、その過程は、難民としての苦悩を分かち合った「ベンジ」に対する思いの強さを示して余りある。「歴史の概念について」の「ハンナ・アーレント草稿」の全文が、その自筆稿の写真版とともに初めて印刷されたのは、二〇〇六年のことである。

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