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私が居ること

雨降っていないよ。 #台風
未唯宇宙での言葉は時々、意味不明。そのときの気分で作られている。「循環による圧縮」とは何か? #未唯宇宙
中途半端なことは起こらないという自信はどこから来ているのか。最低でも9.11とか3.11でしょう。まだまだクライシスではない。全球凍結(アイスボール)辺りと見合う。 #私が居ること
Abemaで八王子の橋を攻撃する水の映像が無音で流れている。フロリダを見ている感覚。当たりが強まっている。リアルです。 #台風
その裏番組で「ほったらかし」の幸せ番組を3時間をやっている。当然、まいやんを見ている。 #ほったらかし

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社会保障再考 多層性の魅力

『社会保障再考』より 地域再構築 地域を再生、再構築することの意義
社会保障と地域
 社会保障の持続可能性を支える社会的な基盤、すなわち国家と個人のあいだにあって社会保障と密接にかかわる社会構成単位として、この本では、家族、企業、地域の存在を指摘してきました。
 このうち、家族は、法律上、六親等内の血族、配偶者および三親等内の姻族が、親族の範囲として規定されているように(民法七二五条)、民法第四編「親族」の諸規定により規律されています。社会保障や社会福祉との関連では、国民年金保険料の連帯納付義務が世帯主に課され(国民年金法八八条二項)、市町村は、被保険者の属する世帯の世帯主から国民健康保険料を徴収しなければならないとされ(国民健康保険法七六条一項)、生活保護は、世帯を単位としてその要否および程度を定めるものとされているように(世帯単位の原則。生活保護法一〇条)、しばしば「世帯」概念によって把握されます。
 企業も、被用者保険の適用対象となる適用「事業所」(厚生年金保険法六条一項、健康保険法三条三項)、社会保険の保険料負担者としての「事業主」(厚生年金保険法八二条、健康保険法一六一条、労働保険の保険料の徴収等に関する法律三条)といった概念で、法律上の主体としての存在を確認することは比較的容易です。
 これに対し、社会保障や社会福祉の領域において、〈地域〉の存在は、それほど自明のものではありません。
 現行制度上も、高齢者を対象とした地域包括ケアシステムが、おおむね三〇分以内に必要なサービスが提供される日常生活圏域(具体的には中学校区)を単位として想定しているのに対し、精神障害に対応した地域包括ケアシステムの構築の観点からは、二次医療圏(医療法上の医療計画で設定された区域で、日常的な医療を提供する一次医療圏、高度専門医療に対応する三次医療圏の中間にあって、一般的な入院医療に対応する区域)を意識した障害保健福祉圏域、すなわち複数の市町村にまたがった相当広い圏域が基準になっています。また、生活困窮者自立支援制度では、生活保護と同様、福祉事務所単位(区市町村および〔福祉事務所未設置町村の場合〕都道府県)の色彩が濃いように思われます。このように、制度ごとに地域の「ズレ」がある点は、認識しておく必要があります。
 相談支援の基盤となる地域の基本的な枠組みとしては、市町村単位、さらにきめ細かな支援をするための体制づくりにあたっては、より小さな行政単位(たとえば、地域包括支援センターや地区社会福祉協議会のエリア)での対応を見込む一方で、次に述べるように、課題の性格の違いに応じた支援ネットワークを、重層的、かつ複合的に構築するという方向性も、同時に両立し得るものと考えられます。
「共にあること」で十分
 このように、体制づくりに課題を抱えるにせよ、地域における「丸ごと」の相談支援体制の整備の必要性それ自体については、異論のないところでしょう。これに対し、この章の1で述べたように、「『地域共生社会』の実現に向けて(当面の改革工程)」では、「『他人事』を『我が事』に変えていくような働きかけを通じて、住民が、主体的に地域課題を把握して解決を試みる体制を構築していく」とも述べられています。この「他人事」から「我が事」へという発想は、どのように考えればよいのでしょうか。
 Iで指摘しておいたように、地域(ムラ)社会の息苦しさや面倒臭さを、戦後、私たちは自覚的に捨て去ってきたのではないでしょうか。そうだとすれば、かつての旧態依然とした地域に立ち返ることは、可能でもなく、望ましくもないように思われます。
 全国各地での先進的な実践がめざしている地域づくりとは、「他人事」を「我が事」としてとらえるといったものではなく、地域がさまざまな人によって成り立っているということに、お互いの「顔」が見える距離感で気づきあえる、そして何かあったときに自然に手を差し仲べることができるといった、もっと緩やかでフワッとした手ざわりのものであるように思えます。「我が事」ではなく、「共にある(在る)こと」程度で十分なのではないでしょうか。「我が事」ととらえることを求めるような強い(狭い)共同体的な意識や感覚では、絶えず「排除」され「断絶」される側の人を、再生産し続けるように思われてなりません。
地縁型コミュニティ
 従来型の地域コミュニティを代表するものとして挙げられるのが、町内会や自治会といった「地縁型」のコミュニティです。そうした地域組織(それは、地方自治の基礎的な単位でもあります)の運営にあたる人たちは、しばしば民生委員や児童委員といった公職も兼務し、地域での見守り活動や、伝統や文化の継承などに、大きな役割を果たしてきました。私も、このような地域組織を解体すべきなどと主張するつもりは毛頭ありません。
 しかし、聞こえてくるのは、「世話役」の人たちの高齢化と後継者不足、そして加入率の低下です。また、ともするとこうした地縁型コミュニティは、それが長い歴史に培われてきたものであればあるほど、硬直的な運営に陥りがちです。もちろん運営側の人たちのキャラクターによるところも大きいのでしょうが、たとえ行政であっても、「顔役」である役員の頭越しに地域で新たな活動を始めることがむずかしい、といった声を漏れ聞くことがあります。
 このように、これからの地域づくりにあたって、地縁型コミュニティのみに依存することには限界があるように思われます。
重層型コミュニティヘ
 これに対し、趣味の会やサークルなど、地域にはさまざまなコミュニティが存在します。地縁型に対比させて、テーマ型コミュニティといってもよいでしょう。友人どうし、同じ趣味をもつ仲間、ママ友といった同じ境遇にある人たちなど、個人の意志でつながる緩やかな任意のグループです。しかし、こうした組織も、貴重な地域資源であり、自己利益追求型の集団であるとレッテル貼りしてしまうのはもったいないと思います。
 広島市では、高齢者いきいき活動ポイント事業を、介護保険の地域支援事業(一般介護予防事業)の一環として創設しました。高齢者の社会参加への意欲を具体的な活動に結びつけるうえでのきっかけづくりとして、高齢者による地域のボランティア活動や介護予防・健康増進に資する活動の実績にもとづく支援をおこない、高齢者の社会参加を促進するとともに、生きがいづくりを推進することをねらいとした事業です。
 ユニークなのは、市に登録した活動団体が、高齢者がポイント付与の対象となる活動をしたことを確認し、提示するポイント手帳に押印することでポイントを付与し、高齢者は、獲得したポイント(一ポイント一○○円で、年間上限一〇〇ポイント)を奨励金として受け取ることができるという点です。ポイント付与の対象となるのは、みずからの健康づくりや介護予防に取り組む活動(一ポイント。介護予防教室や趣味のサークル活動への参加など)、健康診査などの受診(ニポイント。特定健康診査、がん検診など)、地域の支え手となるボランティア活動(ニポイントまたは四ポイント。町内清掃活動、児童の登下校の見守りなど)で、活動の社会へのかかわりの度合いによって傾斜配分されます。趣味の会やサークルヘの参加であっても、地域コミュニティの再生に寄与するもの恚して積極的に評価し、支援しています。
 活動団体として登録しているのは、二〇一八年九月末日段階で、一万一八三三もの数に及びます。グラウンドゴルフサークルからカラオケ同好会、町内自治会に至るまで、じつにさまざまな団体が登録しています。
 広島市の事例が示唆しているように、地縁型コミュニティとテーマ型コミュニティが、縦軸と横軸の網の目のように、いわば重層的に折り重なって地域に存在することで、「共にある」ことが実感できる地域コミュニティが構築されていくのではないでしょうか。前者を「公」、後者を「私」に属するものとして、二分法的にとらえ、もっぱら前者に寄りかかるのではなく、後者も地域コミュニティの構築に向けた半ば公的な推進力に転化し得るのだということを、十分踏まえておきたいと思います。

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バンクシー 監視社会と情報管理

『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』より 監視社会と情報管理
二〇一〇年にバンクシーが制作した初めての映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は、アカデミー賞のドキュメント部門にノミネートされた。翌年には日本でも上映され、話題になった。その内容は、ロサンゼルスに住むビデオ撮影魔のティエリー・グエッタがストリートアーティストたちと交流し、彼らの活動を撮りまくっていたところ、運良くバンクシーにも出会い、最後にはグエッタ自身が著名なストリートアーティストになってしまうという話だ。
その中で顔や声を隠したバンクシーが幾度も登場する。脇には、彼の分身のチンパンジーの仮面が鎮座している。現代のお伽話のような展開もさることながら、この作品の面白さは、撮る側だったダエッタが、映画の途中から撮られる側に入れ替わるという、視線の逆転にある。常に顔を隠したバンクシーと、カメラに顔を向けて表情たっぷりに話すグエッタが対照的だ。バンクシーは映画の中で、グェッタに出会ったことを「解放された気分だった」と語っているが、それはパラドックスを生き続けるバンクシーが漏らした本音かもしれない。だとすると、ダエッタもまたバンクシーの分身なのだろう。
アート制作の基本スキルやアイデアなど皆無のダエッタは、アシスタントの手を借りて、バンクシーやロサンゼルスのストリートアーティスト、シェパード・フェリーの表現をそっくりコピーし、大掛かりな個展を開いた。バンクシーらの推薦文が個展の広告に載ったためか、世間がグエッタはバンクシーの化身ではないかと勘ぐったためか、グエッタは一夜にして大成功を収めた。映画の最後にバンクシーは、グエッタという人物に対して「天才か、ラッキーなだけか、冗談か」とコメントしているが、それは、ひょっとしたら自分自身に対する皮肉な自照なのかもしれない。いずれにせよ、アート界そのものの奇妙な構造をューモアたっぷりにみせつけるドキュメンタリーだ。
このようにバンクシーは、カメラというメディアの深層にある、みること/みられることの二面性に、強い関心を寄せている。第一章で述べたテート・ブリテン美術館でのゲリラ展示を思い出されたい。展示室内が常に監視状態にあるのを承知の上で、事件の一部始終をそのカメラに捉えさせ、今度は自分が映った映像を自著の中で暴露することで、ゲリラで展示した絵のテーマに共通する社会問題を逆照射した。
さらに路上でも、監視社会やカメラの二重性をテーマにしたストリートアートをいくつも手がけている。その代表作ともいえるのが、二〇〇八年春、ロンドンの中心地オックスフォードストリートから脇に入った路地に描かれた《CCTVの下の国家》だ。三階ほとの高さの巨大な外壁全体に白文字で、大きくタイトルが描かれている。
CCTV(Closed-Circuit Television)、もしくは監視カメラは、犯罪の事後検証や抑止力、交通規制などの都市管理を目的に設置される。グラフィティライターやストリートアーティストにとって、この装置は天敵だ。バンクシーは、CCTVカメラの視線の先に「何、みてるんだよ」という単刀直入な言葉をボムするなど、このシステムを批判した作品をたくさん残しているが、《CCTVの下の国家》には、監視社会に対する警告というメッセージがよりパワフルにこめられている。CCTVはむしろその象徴として使われているに過ぎない。それを読み解くために、イギリスにおける社会の監視化および管理化の問題を概観しておくのは無駄ではなかろう。
イギリスには約六〇〇万台のCCTVカメラが設置されているがケこの数は人口比では世界で最も多い例のひとつだ。その背景には、二〇二一年ロンドンオリンピックに際してのテロ対策や、その前年におきたロンドン暴動のような暴動対策がある。ところが、政府の要請を受けた専門家がその効果について検証したところ、このシステムが全く無意昧であり、むしろ国民のプライバシーを侵害しているという報告が出された。
近年、カメラを新たに設置する件数は減ってはきたが、その分の予算は最新のテクノロジーに回されるようになった。よりよい性能のカメラが開発され、撮影画像の分析力がいちだんと高まったのである。BWV(Body Worn Video)というカメラを、警察官や警備員はもとより、スーパーマーケットのスタφフまでが制服につけるようになってきたし、ドローンを利用して遠隔操作で空中撮影するカメラの数も激増した。また以前は、主に政府や地方行政が公共空間に設置したが、今はプライベートセクターや個人の所有地にも広く及ふ。自宅にCCTVカメラを設置するケースも増えたし、価格低下に伴い、市民でも簡単にドローンが手に入るようになった。
このことは、国家によるモニタリンダだけではなく、互いが互いを監視する社会になりつつあることを意味している。まるでイギリスの小説家ジョージ・オーウェルの近未来に対する警告をテーマにした『一九八四年』(一九四九年)のようだ。小説の舞台となる架空国家オセアニアは、独裁者「ビッグ・ブラザー」をトニノとする全体主義国家で、国民は監視カメラとテレビを合体させた装置「テレスクリーン」によって完全に監視されている。都市のいたるところに、「ビッグ・ブラザーはあなたを見ている」というポスターが貼られ、みられている状況が即物的に知覚できなくても、常に誰かにみられているという恐怖を植え付けることで、国民を規制し、管理する仕組みになっており、監視社会の恐ろしさを物語っている。
《CCTVの下の国家》に戻れば、原題にある「○NE NATION」はビッグ・ブラザーの全体主義国家を示唆する一方で、イギリス社会に対する皮肉もこめられているようだ。この国はスコットランド、アイとフンド、ウェールズ、イングランドという別の民族/言語をもつ土地に統治体制を敷いた国家だ。しかし、二〇一四年にスコットランドで行われた英国からの独立を問う国民投票の動きなとをみれば、その紐帯がいかに脆弱か理解されよう。さらに、ロンドンをはじめ多くの都市はたくさんの移民が住む多民族社会である。それが差別や衝突の原因にもなるのは容易に推測できる。その一方で、そこから文化の融合やクリエイティビティー、バイタリティーが生まれ七くる。バンタシーの作品は、そのような多様性豊かな国を、違いを認めない全体国家へ統制してしまう危険が監視社会にはあることを、道行く人びとに警告しているのではないだろうか。
もう一度、バンクシーの絵をよくみると、壁の下の方で赤いフーディーを着た少年が梯子に上って、大きな文字をペンキで描いているのがわかる。左手には犬を連れ、警備員のような制服を着た男が少年にカメラを向けている。だが、このイタズラっ子を捕まえようとしているわけではない。犬も警察犬ではなく、おとなしく座って見守っている。ひしろ、少年アーティストの路上制作現場に出くわして、スマホに収めていると推測する方が自然だ。制服の男は「あの子こそが有名なバンクシーかもしれない」と心の中でつふやく。もしかしたら、格好のネタを手に入れたと思い、その写真をSNS(ソーシャル・ネットワーキンダ・サービス)で拡散するかもしれない。
だがこのSNSも、CCTVと同じように、監視社会の道具になる危険が十分にある。SNSは二一世紀型のコミュニケーションツールとして、急速に世界に広まった。確かに生活に密着した便利なテクノロジーである。しかし、いかにSNSを提供する企業側が個人情報の保護と安全を唱えようと、個人が書き込んだ情報が漏洩し、本人の知らないところで悪用されるリスクがあることは否定できない。いや、実際すでにおこっている。個人の趣味嗜好、政治的な傾向なとの顧客データを他企業に売り、入手した企業はそれを元にターゲットを定めた効果的な広告を打って市場圏を争う。政治的に使われた場合は深刻な社会問題になる。SNSを通して個人情報が管理/操作されている状況は、情報をコントロールするという点で、まさに現代版のビッグ・ブラザーの全体主義国家といえないだろうか。どうして、みんな自分のプライベートな生活の詳細をパブリックにするのに必死になっているのか、わけがわからない。みえないことがスーパーパワーだってこと、忘れちゃったんだ。
このバンクシーの発言から、情報管理社会の危うさに対する懸念もまた、彼が匿名であり続分る理由のひとつではないかと推測できる。とはいいつつも、バンクシーにもグレーの部分があるのは否めない。覆面で活動することは、従来の広告手段が使えないことを意味するが、バンクシーにとって自分が新作を作ったことを世に知らせる道具は、バンクシーの公式サイトとインスタダラムしかない。そのインスタダラムも紛れもないSNSのひとつだ。表現者であるバンクシーにとっては、最小限の告知ツールに違いないが、矛盾を承知の上で妥協せざるを得ないのかもしれない。この章では、ストリートアートという表現形態やブリストルという彼を生んだ都市像からバンクシーの横顔に光をあててきた。その過程で、彼の匿名性が現代社会の監視問題に対する危惧と繋がりがあることがみえてきた。次章では、バンクシーという一人のアーティストから、いったんレンズをひき、表現する場と作品の関係や、それに出合う人びとに焦点を変え、バンクシーの表現の意味を外側から捉え直してみることにしよう。

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