goo

GAFAを監視する

『ホモ・デジタリスの時代』より 『これからの人生』
第一に、この世界を規制するには、GAFAを監視することだ。GAFAの規模は、二十世紀初頭に巨大企業だったスタンダード・オイルと同じ問題を生み出す。われわれは当時可決された反トラスト法を再考すべきだなのだ。競争当局はこれまでGAFAに対してきわめて寛容だった。すなわち、GAFAがデジタル巾場の拡大部分を独占するのを黙認するだけでなく、GAFAが潜在的な競争相手を買収するのを放置した(例:フェイスブック社によるインスタグラムやワッツアップの開発会社の買収)。われわれはGAFAの寡占状態を解消するために知恵を絞らなければならない。たとえば、アルツハイマー型認知症などの主要なテーマに関しては公的なデータバンクを設立し、公的および民間の機関は公益の増進に寄与するために得た情報を共有すべきだ。とくに、公的機関、病院、学校などは、人工知能がもたらしうる解決策を自分たち自身で熟考する手段をもたなければならない。たとえば、病院とかかりつけ医を結ぶ医療連携ネットワークを構築するのだ。その際、公共の病院がリーダーシップをとってはどうだろうか。また、文部省が教員たちの支持を取り付け、学習に困難のある生徒をデジタル技術によって援助することも考えられる。
ソーシャル・ネットワークにおける私生活の消滅も規制対象にすべき主要なテーマである。インターネットは、増悪のこもった文章を書く匿名の人物を保護しながらも、個人のデータが何の配慮もなく売りさばかれるという奇妙な世界を構築した。中世以来、不当拘禁されている被害者を保護するために導入されたイギリスの法律「ヘイビアス・コーパス」〔人身保護令状〕のデジタル版の制定が必要不可欠だ。それはケンブリッジ・アナリティカ社〔選挙コンサルティング会社〕の一件からも明白である。すでに倒産したこの怪しげな会社は、アメリカ大統領選でトランプ候補を支援するために数千万人のフェイスブック利用者の情報を盗み取った。トランプの選挙チームはそれらの情報に基づき、投票先を決めていない選挙民に標的を定めて選挙運動を展開した。二〇一六年のアメリカ大統領選の結果がスウィング・ステート〔共和党と民主党の支持率が措抗する激戦州〕の数万人の選挙民によって決まったことを思い起こせば、トランプがクリントンを負かしたのは、このやり口が功を奏したからかもしれない。
GAFAが品行方正な会社だとしても、自主規制では不充分だ。欧州委員会は、個人データの保護に関する法整備を進め、二〇二八年五月にはEU一般データ保護規則(GDPR)を適用した。グーグル社はこれを見越して、自社がホスティングするメールの中身を盗み見することはしないと宣言した。欧州委員会は、フランスの規制や「情報処理および自由に関する国家委員会(CNIL)」の判例を一般化させ、何の罪もない人物が糾弾の対象になることを禁じる「忘れられる権利」など、個人のデータに関する新たな保護を普及させた。官民が活用するアルゴリズムも、銀行の融資や大学への進学許可など、人々の暮らしに大きな影響をおよぼすようになった。よって、それらのアルゴリズムの透明性を高める必要がある。当局は活用するアルゴリズムに説明義務を負うのだ。また、同様の決まりを民間にも課すべきだ。こうした措置を実行するには、当然ながら管理当局と対抗勢力が必要になる。
デジタル世界全体が自分たちの責任を自問すべきだ。数多くの仕事がウーバー化される今日、新たな社会的な規制を熟考することが急務である。新たな社会はフォード型社会を解体し、かつては同じ雇用主のもとで働いていた家政婦とエンジニアとの間に存在しえた連帯感を破壊した。労働者が自営茉者のような労働環境にあるサービス社会において、こうした密接なつながりを再構築するのはきわめて困難である。今日の分裂した社会において生活の不慮の出来事に対して、これまでにない保護を提供するモデルを考案する必要がある。これが新たな社会保障と呼ばれる課題だ。
旧モデル解体の影響をまともに食らった制度の一つが労働組合運動である。労働組合運動の意義は失われたのではないかと考える人々がいる。しかしながら、九〇年代のアメリカは(つかの間の)完全雇用だったこともあったが、サービス社会では刷新された労働組合運動が効果的に機能した。たとえば、フィリップ・アシュケナージによると、八〇年代に多発した労働災害は、労働組合の新たな指導によって減少したという。「清掃業労働者に正義を」という活動がその例証だ。この活動では、ビルの管理業に従事する労働者の労働条件を改善するために数千人の労働者が結託して大きな成果を上げた。労働災害の発生件数が激減したのである。政治における代表民主制と同様、労働界における労働組合運動はきわめて重要だ。なぜなら、労働者は組合運動によって自分たちの意見を表明する手段を得るからだ。とくにスカンジナビア諸国など、労働組合運動がいまだに盛んな地域では、オランダのワッセナー協定やデンマークのフレキシキュリティ〔柔軟性と保障〕などの大胆な社会的実験が実施された。雇用主に現場感覚がない場合や、異議を唱えるのが難しいデジタルな労働環境である場合には、労働組合の活動はとても重要になる。
最近行なわれた個人を保護する討論では、先述以外にもさまざまなアイデアが登場した。二〇一七年のフランス大統領選挙戦で斬新だった論点の一つは、ユニバーサル・ベーシックインカムだ。だが、このアイデアを掲げた候補の得票率はきわめて低かった(ブノワ・アモンの六・四%)。したがって、このアイデアを政治的な案件にするには、相当な困難が予想される。ユニバーサル・ベーシックインカムは、就労を否定する怠惰の権利だと批判されたのである……。しかしながら、ユニバーサル・ベーシックインカムを就労拒否と見なすのは誤りだ。このアイデアの主たる提唱者の一人フィリップ・ヴァン・パレース〔一九五一-、ベルギーの哲学者〕は、そうした反論に真っ向から異議を述べた。パレースは、二十世紀の偉大なアイデアは労働時間の短縮であり、二十一世紀はユニバーサル・ベーシックインカムだと主張する……。ユニバーサル・ベーシックインカムは、就労時間を減らすのではなく、生き延びるためには劣悪な労働条件の職業に就かざるをえない人々が蒙る飼喝に対抗するための一つの手段なのだ。このアイデアを最初に提唱した人物の一人トマス・ペイン〔一七三七-一八〇九〕はユニバーサル・ベーシックインカムを、遺産相続によって生じる資産格差を是正するための手段だと考えた。遺産相続によって勤労意欲がなくなると主張する者は、これまで誰もいなかったではないか……。ユニバーサル・ベーシックインカムの狙いは、社会につきまとう「人間の労働はどうなるのか」という疑問を和らげることだ。アマルティア・セン〔一九三三-、インドの経済学煮が示唆する道筋では、ユニバーサル・ベーシックインカムは自由の獲得と定義できる。この仕組みによって人々は芸術家や農民のように、不名誉な仕事を拒否でき、自身の期待に見合う将来を築くことができる。
デジタル社会では、われわれは画面にくぎ付けにされる。こうした状況に再考を促す新たな「芸術的な批判」も必要だ。現在、中断や割り込みの技法を培う必要性がこれまで以上に求められている。昔のれ川の安息のように、フェイスブックにアクセスしない日は幸福感が増すことがわかっている。即答しなければならないメールや電話に中断されることなく誰かと会話するのは、ほぼ不可能になった。人間関係を再び文明化する過程が必要不可欠になったのである。雑誌『ニューヨーカー』の編集長デイヴィッド・レムニックが語ったように、われわれは自分たちのデジタル脅迫概念、つまり、他者への配慮にデジタルがおよぼす影響や自分たちの批判精神について自問すべきなのだ。「デジタルの世界の勝利とその魔術は本物だが、道徳的な問題を考える時期が訪れた」のである。
デジタルな世界で市民権を得なければならない子供と青少年には、彼らが将来遭遇するだろう困難を乗り越えるための教育を施す必要がある。サディンやティスロンは、若者にコンピュータの基礎を教える重要性を説く。その理由は、必ずしも情報工学の専門家になるためでなく、ロボットはアルゴリズムによって制御されており、アルゴリズムは人間によってつくったり壊したりできるということを教えるためである。これは人間の要求に対して人間を麻輝させるような異常な特性をもつロボットが現われるのを防ぐための最良の方法だろう。保護すべき必要不可欠なもう一本の支柱は、文字や本の文化だ。書き取りを完璧にこなせるようになるよりも、読書の楽しみを教えることのほうが重要だ。フランスの若者は「OECD生徒の学習到達度調査」でランクをさげている(またしても一ランク下がった)。彼らは文書を一字一句読むというよりも、文章全体の内容を把握する能力に欠けている。ロベルト・カゼッリがユーモアを交えて分析するには、本は著者と読者との契約である。著者は読者がどのように本の内容を解釈しようが自由だと約束する一方で、読者は少なくともしばらくの時間は自身の集中力を本に捧げることを誓う。
「書き手がiPadの無数の誘惑と競い合わなければならないのなら、書き手は論証によってというよりも感情に働きかけようとするだろう」。ミラン・クンデラは電子書籍を痛烈に批判したが、これはデジタル書籍が悪いという意味ではない。そうではなく、読書に集中するための条件を設ける必要があるのだ。とくに若者向けの著書の場合、著者が読者に訴える機会を与えるために、読者がインターネット接続などのオプション機能を利用しないことが重要なのだ。
デジタルの世界は地球温暖化を食い止めると紹介されるが、それは間違いだ。たしかに、新たなテクノロジーにより、これまでの工業社会は最適化される。公害や交通渋滞はさまざまな方法によって効果的に制御できる。たとえば、ゼネラル・エレクトリック社の人工知能ソフトウェアを利用すれば電気の消費量をおよそ四〇%削減できる。既存の管理プロセスを最適化すればエネルギー消費量を最低限にできるというのが「スマート・シティ」の約束である。問題は最低限であってもあまりにも大量だということだ。情報工学の世界からも大量の二酸化炭素ガスが排出される。コンピュータは大量のエネルギーを消費するのだ。たとえば、フェイスブック社はコンピュータの発熱量を減らすために一部のサーバーを、北極圏から一〇〇キロメートルほどのところに位置するノルウェーに移転させた。人間の頭脳と比較すると、デジタル社会は大量のエネルギーを消費することがわかる。人間の頭脳にある一〇〇〇億個の神経細胞のエネルギー消費量をシミュレーションする際に参考になるのが、世界最速のコンピュータ「セコイア」だ。このコンピュータはこIギガワットを消費する。これはブラジルとパラグアイの国境にある巨大なイタイプ・ダムの発電量に相当する。一方、二〇ワット程度しか消費しない人間は、(生物学的な意味で)環境に優しいモデルだ。新たなテクノロジーの世界が環境に優しいモデルになるための道のりはまだかなり長い。
六〇年代に登場した脱物質主義社会の理想は、この社会が生み出した経済危機と金融不安によって遠のいた。問題は「経済危機」がこの社会システムの機能において常態化したことだ。ユニバーサル・ベーシックインカムは、安全を求める人々の要求を満たし、サバイバルという切迫した事態に陥っても生きる意欲を失わせないようにするための一つの道具だ。しかし、さらに踏み込まなければならない。アンドレ・ゴルツが六〇年代に記した著書『さらば、プロレタリアート』で語ったことは現在にも通じる。「資本主義は、《本当の》欲求を熟考し、そうした欲求を満たす最良の手段を他者と話し合い、探究する余地のある選択肢を堂々と明示しようとする願いと能力を人々から奪った」。
誰もが自身の「本当の」欲求という反逆の信条をもち続けられるようにするというのが、新たな「芸術的な批判」の役割になるはずだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 「居たい」と... 10台目のICレ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。