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ギリシャの民主主義の根源は軍隊

『超訳 ヨーロッパの歴史』より 政治の第一形態--民主主義
古代ギリシャ人は民主主義国家を発明した。これに伴って彼らは「政治 politics」という言葉も発明したのだが、これは彼らの「都市でoF」に由来するものだった。長い歴史においてさまざまな種類の政治形態が生まれてきたが、ギリシャ人が生み出したのは、全市民が話し合い、最終決着は投票による多数決で決定するというものだった。これは、すべての市民が一か所に集まり、案件を討議し、最終決議にかける形式で、これを直接民主制と呼ぶ。ただし、ギリシャのすべての都市国家が民主主義を実践していたわけではないし、またその民主主義は常に不安定なものだった。すべての民主主義を奉ずる小国家(とりわけアテネが有名だが)では、何度かの中断はあったものの、一七○年間にわたって民主主義の政治が行われた。アテネでは、この町に生まれた男子は全員政治に参加する権利を持っていたが、女性と奴隷はこの権利を持てなかった。
現代の我々の政治も民主主義なのだが、これはアテネの人々の民主主義とは大きく異なっており、我々の行っているものは間接民主制と呼ばれる。我々は定期的に政治のプロセスに関与することはなく、何年かに一度投票をするだけである。我々は現行の政治に不満を表明するためにデモを行ったり、意見書を提出したりすることはできる。しかし、議会で審議される個々の案件すべてに対して投票することはできない。
人々が民主主義政治に直接関わろうとしたとしても、現行のシステムとは大きくかけ離れたものになることは目に見えている。膨大な数の人々が一か所に集まることは不可能だが、ギリシャの直接民主制を再現することはできる。特定の案件について、インターネットを使って国民投票が実施された経験はすでにある。このようなシステムを使った世論調査によって、私はオーストラリア国民が次のように考えていることを知っている。つまり、オーストラリアはイギリス以外の国からの移住者を受け入れるべきではない(間違いなくアジア系移民を減らすことができる)、犯罪者はすべて絞首刑にすべきである、海外援助は不要である、シングルマザーに年金を支給すべきではない、学生が受けている恩恵も今後は廃止すべきである……といった具合である。これらの意見について、なんたる無知、人々の偏見には抑制がきかないのか、と読者が思うのも無理はない。
そう思ったとしたら、いま、あなたはソクラテス、プラトン、アリストテレスといった偉大なるアテネの哲学者たちの視点に近づいている。彼らならオーストラリアの民主主義に厳しい疑いの目を向けるだろうし、彼らの批判は我々の行動を理解するのに役立つことだろう。彼らは人々が常に揺れていて、優柔不断で、無知で、簡単に他人の意見に影響されてしまうことを嘆いている。政治は知恵と判断力が求められる、きわめて精妙な技術であり、国民のすべてがその技術に長けているとはとうてい言い難い。アテネの哲学者たちは今日の間接民主制のシステムを知ったらきっと喜ぶことだろう。私たちが選んだ政治家に対して何を言うのも自由だが、彼らは一般的に言って高い教育を受け、情報量も豊かである。政治家は公務員の指導を受けていて、公務員の中には非常に有能な人がいる。国民は政府から直接支配されることはなく、政府の事業全般については訓練された人々が協力している。しかし、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、我々の民主主義とは呼ばないだろう。
ギリシャの民主主義の根源は軍隊にある。さまざまな政治形態を検討してきたなかで、我々は軍事力の性質と国家の性質との間に深いつながりがあることに気がつく。古代アテネには正規のフルタイムの軍隊はなかった。つまり、兵舎に常駐し、いついかなる時でも戦いへ出動できる常備軍を持っていなかった。アテネの兵士たちは全員が「パートタイムの兵士」だった。しかし彼らは密集陣形を組む歩兵として戦うために厳しい訓練を受けていた。開戦が宣言されると、商人や農民といった市民たちは普段の仕事をやめて、ただちに軍隊を結成した。民主主義的な集会〔民会〕は、市民兵が参集し、指導者から行進命令を受けるといったことからスタートしたものだった。戦争や和平、さらに個々の戦術などに関する最終判断は、部族の上層階級にあたる長老たちの評議会によってすでに決められていた。長老たちは兵士の集団の前に位置していた。目の前に長老たちの姿を見ることによって、兵士たちは戦う心構えができた。兵士たちは集会を開いたが、その目的は何かを討論したり、新たな問題を提案したりすることではなく、全員で戦争を承認し、戦争の歌を歌うことだった。
しかしこのような集会は大きな力を持つようになり、最終的に完全な支配力を有するようになった。どうしてこのような経緯に至ったのかはよくわからない。しかし、都市国家が市民兵の参加を不可欠のものとし始め、さらに、このような集会が度重なっていけば、兵士たちがより強固な力を得るのは当然のことである。つまり民主主義は、戦う者たちの「連帯」として始まったものだった。しかし、それは同時に部族的な性質を帯びていた。アテネにはもともと四つの部族があり、戦争の際は部族ごとに集まって敵と戦った。各部族は政務にあたる職員を選出したが、この部族の縛りはアテネが民主主義をさらに高めて選挙区制度を作るようになってもなお続いていて、ある人間が別の場所に移り住んだとしても、その男は自分の生まれた選挙区民として昔の選挙区で投票していた。つまりアテネ市民は、現在住んでいる場所とは関係なく、自分が生まれ育った選挙区と一生涯結びつけられていたのである。
直接民主制には人々が積極的に加担することが求められていたが、それだけ人々はこの制度に大きな信頼を寄せていた。アテネの民主主義の理想は、アテネの指導者ペリクレスの演説に示されている。これはスパルタとの戦いで死んだ兵士たちの葬儀における弔辞だった。その内容はトゥキディデスの『戦史』〔ペロポネソス戦争の歴史〕に記録されている。トゥキディデスは歴史を客観的かつ公平な目で記そうと試みた最初の歴史家だった。トゥキディデスの歴史書の原稿はコンスタンティノープルに保存されていた。この書物が書かれてから一八〇〇年後のルネサンス期に、その原稿がイタリアに持ち込まれ、ラテン語に翻訳され、ここからさらに現代のヨーロッパのさまざまな言語に翻訳された。リンカーンのゲティスバーグの演説が登場するまで、ペリクレスの演説は政治家が墓地で行った最も有名な演説とされていた。ペリクレスの演説はリンカーンのものよりかなり長いので、以下に示すのはその抜粋である。
 我々の政体は民主政治と呼ばれる。なぜならそれが少数者の独占するものではなく、すべての人々のものだからである。個人間に紛争が生じた場合、法律の前にはすべての人々が平等である。社会的責任のある個人という場合でも、重要なのはその人がいかなる階級に属しているかではなく、その人が本当の才能を持っているか否かということである。
 人はその仕事を終えれば、魂を休めるために、ありとあらゆる種類の娯楽を享受することができる。一年を通じて、定期的に競技会や犠牲の祭りが行われる。各人はその家庭において美しく良い趣味をもつことができる。それは日々の暮らしを明るくし、心配事を振り払うものである。
 各個人は、日頃の家計のみならず、同様に国の政治にも大きな関心を抱く。ほとんどすべてを自身の生業に費やす者にはとくに詳しく国政の情報が伝えられている。これこそが我々の特性である。政治に関心を示さない人間のことを、我々は、自身の仕事しか興味のない人間とは呼ばず、「為すべき仕事を持だない人間」と呼ぶ。
仕事に従事しつつ社会参画意識の高い人々による、文化的で開かれた社会……、これこそ現在の民主主義のあり方を模索する人々にとって魅力的かつ理想的な姿だろう。もちろん、アテネの娯楽や美が奴隷制をもとに成り立っていたこと、さらに時として、市民は集会に強制的にでも参加しなければならなかった、という特殊な事情もあった。とはいえ、ペリクレスの演説が良い影響を長く及ぼし続けたのは事実だった。数世紀にわたって、ヨーロッパのエリートたちは民主主義にただ興味を示すばかりではなく、民主主義を警戒するための教育も行ってきた。なぜなら彼らが読んだ古代の著作家たちの大半は民主主義に敵意を持っていたからである。一九世紀初頭のイギリスの急進的な学者ジョージ・グロートは民主主義を論ずるために、ギリシャに関する新しい研究を行い、民主主義と高等教育は互いに関連し合っていて、一方を非難し、別の一方を受け入れることは不可能であると説いた。これはイギリスの民主主義の根源に関わる彼の大きな貢献だった。
現代の我々にとっても、ギリシャの民主主義には我々の理想とは相反する側面がいくつかある。それはあまりにも共同体への参加意識が強調され、なかば強制的ですらあって、個人の権利という意識がほとんど見られないことである。アテネ市民の特権は、その一員であるということであり、ペリクレスが言ったように、政治に興味がない人間はここで仕事をしてはならない、ということでもあった。我々が関心を持つ個人の権利は、アテネとは別のところに起源があるようだ。
アテネをはじめとするギリシャの小都市国家は、前四世紀初頭にギリシャの北のマケドニアの支配者アレクサンドロス大王によって独立を奪われた。民主主義は失われたが、アテネで育まれたギリシャ文化は相変わらず繁栄を続けていた。それがさらに、アレクサンドロスの帝国内で広がった。その帝国は東地中海から中東にまで拡張された。アレクサンドロスがギリシャ世界にもたらしたものは、後世のローマがこの地を征服し、それがギリシャ語を話す帝国の東半分〔東ローマ帝国〕になった時にもなお残っていた。

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