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南北戦争 内戦の勃発

『南北戦争の時代』より
一八六一年三月四日の大統領就任演説においてリンカンは、あらためて南部奴隷制への不干渉を表明した。その上で、「私たちは敵ではなく友人である、敵であってはならない、激情が緊張をもたらすことがあっても、私たちの愛情の絆をきってはいけない」と述べ、連邦を維持してゆくことの必要性を説いた。だが四月こ一日未明、連邦離脱の先陣を切ったサウスカロライナのチャールストン湾で、孤立した連邦側のサムター要塞に南部連合軍(南軍)が砲撃を加えたことにより内戦が勃発、絆は断たれることになる。
南部連合発足後、南部にある連邦要塞はほぼ南軍支配下に置かれたが、サムター要塞の司令官ロバート・アンダーソン少佐は連邦への忠誠を誓っていた。大統領就任式の翌日、彼からの手紙を受け取ったリンカンは、閣僚会議での反対意見を押し切り、サムター要塞守備隊への食糧支援を決断した。リンカンのこの決定は、反乱地区に連邦の権限が及んでいることを国内外に示し、大統領の連邦離脱阻止の思いがいかに強固であるかを南部連合に伝えるためのものだった。
しかし、開戦の機会をうかがっていたサウスカロライナがこれを受けて要塞に発砲し、以後四年の長きにわたる未曽有の内戦が始まったのである。二日間にわたる激しい砲撃戦の末、サムター要塞は陥落した。チャールストンの民衆が勝利に沸き返るなか、南軍は連邦軍(北軍)兵士が非武装船で逃走するのを見逃した。サムター要塞にはためいていた三三星の星条旗(開戦前の州は三三)は、アンダーソン少佐が持ち帰ったが、この星条旗は戦時中、北部民衆の愛国的シンボルとなり、北軍の徴兵活動でも大活躍することになる。ちなみに、戦争終結後、この三三星旗を再占領したサムター要塞に掲揚する祝賀会が行われた一八六五年四月一四日は、まさにリンカンが狙撃された日であった。
連邦に留まっていたヴァージニアは、これを機に南部連合に参加し(連邦離脱日一八六一年四月一七日)、アーカンソー(五月六日)、ノースカロライナ(五月二〇日)、テネシー(六月八日)も続いた。以降、これら一一州から構成される南部連合は国家体制を整え、首都も当初のモンゴメリーから、ヴァージニアのリッチモンドヘと移された。
これに対して、連邦に残ったのは全部で二三州。そこにはミズーリ、ケンタッキー、デラウェア、メリーランドという南北の境界エリアにあった奴隷州も含まれており、ヴァージニアから分かれたウェストヴァージニアも連邦に加わった。
リンカンは開戦後まもない四月一七日、第一騎兵隊大佐のロバート・リーに総司令官就任を打診した。だが同日、リーの故郷であるヴァージニアが連邦を離脱したため彼は就任を拒否し、連邦軍からの除籍を願いでた。アメリカの陸軍士官学校のほとんどは南部諸州に置かれており、南部出身の軍人の多くはりIと同じ決断を下し、南軍についた。
戦争遂行にあたって両陣営が最初に直面した課題は、兵士の創出であった。建国期にさかのぼれば、独立戦争時にワシントンが率いた大陸軍は、戦争終結後の一七八三年には解体された。その後の戦争においても、アメリカ・メキシコ戦争時に陸軍が五万人にまで膨らんだが、戦後は約一万人へと縮小した。州単位で強い募兵権が確立され、反常備軍感情が根強いアメリカには、開戦当時も、主に先住民に対抗するための二万人足らずの連邦軍しかなかったのである。もちろん新たに誕生した南部連合も、兵力は保有していなかった。
リンカンは早くも一八六一年四月一五日には、三ヵ月限定での志願兵七万五〇〇〇人の召集を決定した。さらに五月にも志願兵増員の募集をするが、各州は白州への割り当て増を求め、知事からの陳情が相次いだ。この軍役期間の短さからも、リンカンが戦闘の早期終結を楽観視していたことがわかる。
しかし七月二一日、ブルランの戦いでの北軍の敗北により、事態は一変する。ヴァージニア州マナサス近郊のブルランで行われた、南北戦争最初のこの大規模戦闘は、首都ワシントンから南部連合の首都リッチモンドを一気に占領するべく南下した北軍が、南軍と激突したものだった。南北双方の急ごしらえの陸軍部隊による戦闘は混乱を極めたが、のちに「ストーンウォール(鉄壁)・ジャクソン」とあだ名され南軍の英雄となるトマス・ジャクソン将軍の頑強な防御戦術が功を奏した。反撃に出た南軍に対して、数において勝る北軍は総崩れとなり、首都ワシントンに逃げ帰ったのである。勝利を確信していた北部人は衝撃を受け、一転、首都攻略の危険すらあると恐れるようになった。
図2-6が示すように、開戦当時、北部側は人口比で北部二二〇〇万対南部九〇〇万(内訳は白人五五〇万人、黒人奴隷三五〇万人)、工場数でも北部一一万対南部一万八〇〇〇など、南部を圧倒する人的資源を持ち、工業化・産業化を推し進めていた。圧倒的に有利な立場から、短期間での勝利を確信していたのである。しかし、結果から見れば、北部が軍事力の点で南部を凌駕するまでには、かなりの時を要したということになる。
ブルランの戦い(第一次)以後も、戦争初期は、七日間の戦い(一八六二年六月二五日-七月一日)や第二次ブルランの戦い(八月二八-三〇日)など、南軍が勝利するケースが多かった。その理由は、第一に、南軍はロバート・リー将軍など優れた軍人を数多く擁し、兵士の士気が高かったこと。第二に、戦略的にいえば、南軍は北部に侵攻する必要はなく、北軍による南部侵攻を撃退するという専守防衛でよかったということである。逆に北軍は、南部連合一一州を相手に、領土深く侵攻して南部全域を征服する必要があった。
さらに、南部の防衛を強固にしたのは、この戦争で両軍により本格的に使われるようになった射程距離の長い近代的ライフルと、塹壕であった。総力戦としての第一次世界大戦を想起させるこれらの武器や戦術は、実は南北戦争において使われ始めたのであり、それゆえに、両軍の戦死者が六二万人を超える甚大な犠牲者を出す結果となるのである。
苦境に立たされた連邦側は、長期戦への備えが必要であり、また志願兵中心の軍隊では限界があることを痛感した。そのため議会では、兵力増強を目指して、上院軍事委員会議長ウィルソンを中心に徴兵制の導入に向けた検討が本格化した。一八六二年七月には、議会が可決した第二次没収法により、従来の民兵法を修正し、解放された黒人奴隷が任意の軍務に就くことが可能になった。
だが、同年一二月のフレデリクスバーグの戦いでの戦死者の急増、逃亡兵の増加、兵役期間終了を迎えての志願兵の退役などで、北軍の弱体化には歯止めがかからなかった。そこで一八六三年三月三日、国家による直接徴兵を可能とする連邦徴兵法が成立し、陸海軍の兵力を立て直す道が開かれた。これがアメリカ史上、最初の徴兵法であり、こうした戦時立法を通じて連邦の権限強化と集権化が一気に進んだのである(南部連合側では、これよりも早く一八六二年から徴兵を実施)。

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