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時間はどのように過ぎ去るのか

『哲学がわかる形而上学』より

あとどれくらいで今になるのか

 これまで一〇〇年間にわたって形而上学者が論争の的としてきた時間のモデルとして、二つのものを挙げることができる。まずはそのうちの一つについて、以下でしばらく考察しようと思う。エイブラハム・リンカーン大統領の暗殺、といった出来事を考えてみよう。一八六五年より前に生きていた人々にとって、この出来事は未来のものだった。私たちにとっては、この出来事は過去のものである。そして、一八六五年四月一四日の午後一〇時一五分頃(ワシントンD・C時間)には、それは現在の出来事だった。この事例は、空間との類比によって理解すべきだろうか。つまり、リンカーンの暗殺という出来事は、人々のもとへそっと忍び寄り、少しのあいだそこに居合わせ、それから過去のなかへと姿を消してしまった、と言えるのだろうか。それとも、この出来事に対して適切な理解の仕方が他になにかあるだろうか。

 文字どおり右のように捉えることには無理があるかもしれないが、それほど悪くないと言える一つの見方がある。それは、出来事は一種の時間的性質をもつ、というものだ。リンカーンの暗殺は、過去であるという性質をもっている。また、あなたがこの文を読んでいるという出来事のように、現在であるという性質をもつ出来事がたくさんある(あなたがこの文を読んでいるあいだに起こっている出来事であれば、他になにを考えてみてもよい)。そして、他の多くの出来事は未来であるという性質をもっている。その性質は、未来性、とでも呼べるかもしれない。サッカーワールドカップのカタール大会〔二〇二二年〕、次回のイギリス総選挙、二〇二五年九月二一日の日食、地球全体の人口が八〇億に達すること--これらはいずれも(二〇一二年現在においてわかるかぎりで言えば)未来性をもつものの例である。

 このような見方をとることで、「時間の向き」と呼ばれるものをある程度は理解できるようになるかもしれない。出来事は必ず、最初は未来であり、次に現在となって、最後は過去となる。私たちが知るかぎりでは、時間が逆向きに進むことはけっしてない。過去に向かうタイムトラベルが可能だとしたら話は複雑になるかもしれないが、少なくとも、未来・現在・過去という三つの時間的性質は必ずこの順番で出来事に所有される、ということは言えるように思われる。ここではもちろん、出来事を個別者とみなしており、形而上学者が「タイプ」と呼ぶものとしては捉えていない。オリンピックは四年ごとに開催される--このように言うときには、問題になっているのは一つのタイプとしての出来事だ。それに対して、特定の年に開催される個々のオリンピック大会は、それぞれ一回かぎりのものである。ここで私が問題にしているのはまさにそのような、個別者としての出来事に他ならない。そうした出来事は、未来から現在へ、そして現在から過去へ、という向きで「流れ」ているのである。

 時間的性質というものがあるとすると、それには奇妙な特徴がいくつかあるように思われる。時間的性質は、さまざまな組み合わせにおいて次から次へと現れることができるようにみえるのだ。かつて未来だった出来事のうちの一部は、今や過去のものである。二〇二五年の日食は、私がこの文章を書いているときには未来の出来事であるが、それがすでに過去の出来事であるようなときがいつかはやってくるだろう。ひょっとすると、あなたがこの文章を読んでいるのはすでにそれが起こった後かもしれない。私のいる二〇一二年の時点からみたとき、このことから私にわかるのは、二〇二五年の日食は未来における過去であるという性質をもっている、ということだ。つまり、未来の出来事はいずれ--たとえば、二○二五年一〇月までに--過去のものになるのである。また、過去における未来である、という性質をもつものもある。リンカーンの暗殺は一八六〇年には未来だったが、今はそうではないし、その出来事が未来ではないということは一八六五年以降ずっと変わっていない。これらのことをふまえると、以下のような疑問が生じてもおかしくはない。ものごとはいかにして、未来における過去、過去における未来、といった性質をもちうるのか。そうした性質に関してものごとが変化を被るときには、いったいなにが起こっているのか。未来性という性質をもってじっと動かずに佇んでいるものごとがどこかにたくさんあって、現在性という性質を獲得するまでずっとそこで待ち続けている、ということなのだろうか。現在に姿を現すことを待ち望む未来の人々がいて、「あとどれくらいで今になるのか」とひそかに考えているのだろうか。過去性という性質を獲得するとき、ものごとはどこへ行ってしまうのか。過去性なる性質をもつものが本当に存在するのだろうか。それとも、たんにものごとが存在しなくなる、ということにすぎないのだろうか。

今に勝るときはない

 実在するのは現在のものだけだ、という考え方がある。そのように考える立場は、現在主義というまさにそれにふさわしい名で呼ばれている。現在主義は、今しがた提起した問いのいくつかに対する応答として捉えることができるだろう。つまり、未来性・過去性という性質をもつものが存在すると主張するのはばかげているのではないか、というわけだ。あるものが性質をもつためには、そもそもそれが存在していることが必要であるようにみえる。しかし、以下のような考えを深刻に受けとめるならば、未来や過去のものごとはまったく存在していない、と論じることができるかもしれない。バラク・オバマの生まれた年は一九六一年である。だからといって、「オバマは一九五九年にも存在していたのだが、そのときは未来性という性質をもっていた」などと言うのはどこかおかしいのではないだろうか。ユリウス・カエサルがある時代に存在したことは間違いないが、今はもう彼は存在しない。先ほどの場合と同様に、このことから「カエサルは今も存在しているのだが、今は過去性という性質をもっている」と主張することには、どこか間違ったところがあるだろう。このように考えたとき、次の主張が選択肢として浮上するように思われる。三つの時間的性質があると考えるのはやめて、それらの代わりに存在という一つの単純な概念だけを用いて考えなければならない。そしてそのうえで、ものごとは存在し始めることもあれば存在しなくなることもある、と考える必要がある。つまり、ものごとは現在であるときには実在するが、現在を過ぎれば実在しない、というわけだ。

 これは賢明な考え方であるようにみえるが、検討すべき問題がいくつかある。それは以下のようなものだ。第一に、現在はどれくらいの期間にわたって続いているのか。今日という一日だろうか。それとも、これから一分間か。あるいは、一秒間だけだろうか。夜の八時五〇分の時点で、その日の正午が過去であることは間違いない。それどころか、八時四九分でさえすでに過去であり、二秒前もまた過去であることに変わりはない。現在とは、なにかごく小さく細いものであるように感じられる。私たちは、今が姿を現すのを待つことができるが、今はあまりにもあっというまに姿を消してしまう。実際、もし時間の最小単位があるとすれば--およそ、一秒の一〇〇万分の一のさらに一〇〇万分の一であるとして、それを瞬間と呼ぶことができるだろう--現在は、その瞬間が続いているあいだにだけ存在する、ということになると思われる。それを否定し、現在には一定の広がりがあると主張するならば、現在が存在しうる期間はどれくらいだと考えればよいのか。それは二分間だろうか。その数をもって答えるのは恣意的であるようにみえる。しかし他方で、現在には時間的な広がりがまったくないと考えるとすれば、現在は消えてなくなってしまうも同然のように思われる。

 現在主義が直面する二つめの問題は次のものだ--現在主義者の依拠する〈現在〉という概念は、相対性理論によってその正当性が否定されてしまう可能性がある。太陽は今、輝いている、というように私が考えることはよくあるし、それゆえ、太陽が輝いているということは現在に属しているように思われる。だがその一方で、太陽の光が地球に届くまで八分と一九秒かかる、と私は学校で習った。〔このこと自体は、〈現在〉なる特別なものがあることと矛盾しないが、光速度不変の原理を含む特殊相対論の登場以後の〕物理学においては、〔唯一無二の〈現在〉があるという考えから導かれる〕絶対的同時性の概念と衝突する理論的帰結が〔諸々の実験結果に基づいて〕受けいれられている。空間的に離れた二つの出来事について、それらが〔端的に〕同時であるという言い方をすることは厳密には許されない、と私たちは授業で教わるわけだ。二つの星が、互いに遠く離れた銀河でそれぞれ崩壊していて、その様子があなたに見えているとしよう。二つの星は、同時に崩壊しているように見えるかもしれない。しかし、あなたが覗きこんでいる望遠鏡に対して、それらのうちの一方が他方よりもずっと近くにあるとすれば〔そして、その望遠鏡を覗きこんでいるあなたが双方の星に対して静止しているとすれば〕、実際のところそれら二つの出来事はけっして〔あなたにとって〕同時ではない〔他方で、たとえばあなたの友人が、一方の星に向かって光速に近い速度で運動している宇宙船に乗っているとすれば、それら二つの出来事はその友人にとって同時であるかもしれない〕。こうして、「現在」という語によって私たちが指し示しているのは--現在か必ず位置や観点〔を含む条件、より正確には、慣性系〕に相対的であるように思われるとすれば--正確に言ってなんなのか、という問題が生じることになる。この問題に直面して仕方なく、純粋に主観的なものとして現在を説明する、という道もあるかもしれない。つまり、ある観察者にとって「今である」ようにみえるもの、それが現在であると考えるのだ。しかし形而上学者の多くは、形而上学の探究主題がそのような仕方で人々の観点に依存することを望ましいとは考えない。形而上学者は、自分たちが問題にしているのは客観的で永久不変の真理なのであって、それは私たち人間のものの見方には影響されないのだ、という感覚を手放したくないのである。

 最後にもう一つ付け加えれば、現在主義にはさらに次のような問題もある。カエサルはもはや生きていないが、一つの明確な意味においては、カエサルは今でもなお実在性をもつと言うことができる。カエサルに関するさまざまな事実-たとえば、カエサルはルビコン川を渡った、という事実--が存在する以上、それらの事実を成り立たせているものが存在するのでなければならない。存在するのは現在のものだけだとすると、いったいなにが、第二次世界大戦があったという事実やリンカーン暗殺事件があったという事実を成り立たせているのか。第二次世界大戦やリンカーンといった過去の出来事・物体は、もはや現在のものではないとしても、なお実在の一部であると捉えるのが賢明ではないだろうか。相対性理論に基づく考察として右で述べたことをふまえれば、過去の事実であってもなお私に見えるものがある、と言える。たとえば、八分前に太陽はどのような姿をしていたのか、ということに関する事実を考えてみればよい。過去に起こったことに実在性をまったく認めないとすれば、だれかが歴史を書き換えるということも、可能であることになってしまうのではないだろうか。
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