未唯への手紙
未唯への手紙
教育制度へのアプローチ:5つの基本理念
『持続可能な未来のための教育制度論』より 持続可能な未来への教育制度 教育制度とは何か
(1)歴史的に理解する
近代社会への決定的な政治的転換点は、「自由・平等・友愛(博愛)」を理念としたフランス革命(1789年)だとされている。その理念はまず、法のもとでのすべての国民の自由と平等をうたった「人権宣言」(1792年)として表現された。しかし、理念や宣言はそのまま現実ではない。自由で平等な「市民」になったのは当初、「財産と教養」をもった男性世帯主だけであった。階級・民族・家族・性別・年齢間など、現実に存在する不平等や不自由を克服していくことがそれ以後の社会発展の基本課題となったのである。その課題に取り組むものとして重要な位置づけが与えられたのが「教育」である。
教育普及に最も大きな影響力をもったのは近代国家=国民国家であり、多様な人々を「国民」として統合するために国民国家としての「正統性」を創造・維持するために何よりも「教育」を必要としたのである。もちろん、近代化を具体的に進めるための国家組織(官僚機構)の担い手形成のためにも、軍事組織形成のためにも、そして、近代産業を推進するためにも、[学校]を中核とする教育制度が必要とされた。その基本的な社会的機能が国民の「能力形成・評価」と「人材配分・移動」、そして[社会的・国家的統合]であることは今日でも変わらない。
近現代社会は「政治的国家と市民社会の分離」を基本的特徴としている。したがって、社会制度の歴史的形成過程をみれば、国家の側からのものと市民社会の側からのものがある。全体的にみれば、大きな権力と財政をもつようになった国家の側からその政策を推進するために組織化された社会制度が支配的である。近現代の国民国家にとって教育は、政治・経済・軍事・地方統治などとならんで重要な政策課題である。それゆえ、関連する法が制定され、それに基づくものとしての制度、つまり「法制度」が一般的なものとなる。教育制度とくに学校制度はその代表的なものであり、「教育法体系」を前提として組織化されているといえる。これに対して批判的な、あるいは代替的な市民社会(民間)の活動から生まれた教育制度(たとえば、私塾・私立学校・自由大学)も重要な役割を果たしてきた。しかしながら、法制度によって認められていない教育は、教育の世界では周辺化される傾向があった。
歴史的存在である教育制度は、歴史とともに変化する。日本では明治維新後に近代学校制度を中心する教育制度が生まれたが、欽定憲法・教育勅語・臣民(皇民)教育によって特徴づけられる戦前の教育制度は、戦後の民主憲法・教育基本法・国民(=主権者)教育制度に大きく変わった。その制度も戦後の歴史のなかで変容しっづけ, 2006年には、骨格となってきた教育基本法も大幅改定となり、現政権は憲法の改定さえ政治日程にあげてきている。こうしたなかで教育制度を支える社会的条件とその変容をふまえつつ、教育制度が果たしている、果たすべき役割、そして今後の教育制度改革のあり方を考えていく必要がある。
(2)社会構造のなかで理解する
社会制度を運営する組織は、国家機構と諸個人・諸集団の間にある「中間組織・中間団体」と呼ばれている。国家は「地方政府(地方公共団体)」や教育関係団体をとおして教育制度を普及しようとしてきた。これに批判的な教育運動が市民社会のなかから生まれ、しばしば独自の組織化・制度づくりを進めてきた。今日では、民間非営利組織(NPO)や非政府組織(NGO)の活動が社会の形成・発展に不可欠のものであることが理解されてきている。政策的には、それらをも国家の側から位置づけ、取り入れた(「民間活力」を利用しようとする)政策が支配的になってきており、実際には政治的国家と市民社会の両者の側からの組織化の複合的な社会制度が多い。
そこでは、国家的要請と市民的要請、それらの背後にある経済的要請が措抗し、相互の緊張や矛盾をかかえたものとなっている。その関係は今日、国民国家の枠をこえたグローバリゼーションが進展するなかでより複雑なものとなり、国家間の相互依存的かつ競争的関係、その背景にある多国籍的企業や国際的諸機関の動向を無視することができなくなってきている。
現代社会における教育制度の位置をモデル的に示すならば、図0.1のようである。ここで示した教育制度(教育委員会と学校・社会教育)は、「広義の教育実践を(第1次的に)組織化する」地方教育制度である。一般に教育制度には、より広い地方教育行政(第2次的組織化)から国家レベルの教育機構や教育関連法など(第3次的組織化)を含むものと理解される。本書でもこれら全体を「教育制度」と考えることにしよう。
社会構造のなかで教育制度を理解する際に忘れてならないのは、第一に、階級・階層的視点である。教育制度には近現代社会の多様な階級・階層の要求が集約されている。とくに教育制度が普及した先進国の多くでは市場的・資本主義的体制がとられており、その内部には、大きな階級・階層的格差があるから、どこの誰に対する何のための教育制度であるかが問題とされてきた。 21世紀には地球的規模で、先進諸国にも広がる「社会格差」問題への取り組みが重要課題となってきている。 1980年代に「一億総中流化」といわれてきた日本は、いまや先進国で最も高い貧困化率を示すグループに属している。とくに子どもの貧困化率は先進国で最悪のレベル(約6人に1人)である。非正規雇用が広がり(とくに青年層では半数以上)、社会から形式的にあるいは実質的に排除される「社会的排除問題」が克服すべき重要課題となっている。こうしたなかで、本来「自由と平等(と友愛)」を実現するためであったはずの教育制度のあり方が問われているのである。
第二に地域的・空間的視点である。資本主義的な社会経済は地域的・空間的不均等発展を基本的な特徴とする。急速な近代化を進めてきた日本はその典型例であり、戦後日本の高度経済成長がもたらした過疎・過密問題や、1990年代以降の経済的グローバリゼーションの展開のなかでの「東京一極集中」現象などに端的にあらわれている。 21世紀に入って問題はより深刻化し、市町村の「平成の大合併」政策を経て「限界集落」問題や「地方(市町村)消滅丿予測などが提起され、安倍政権は「地方創生」を重点政策に掲げざるをえなくなっている。しかし、その政策は「選択と集中」を基本としており、さらに地域格差を拡大し、実際に多くの「地方消滅」を生み出すおそれがある。これまでの学校制度は地域の人材を中央に送り出す「地域を捨てる学力」(東井義雄)の形成をしてきたのではないかと批判され、「地域を育てる学力」「地域にねざす教育」のあり方が問われてきた。それは今日、とりわけ東日本大震災などの大災害被災地で重要課題となっているが、超少子高齢化が進み、学校統廃合が政策的に進められている日本のどの地域でも大きな実践課題になっていることである。「持続可能な教育制度」は「持続可能で包容的な地域づくり教育」とともにあってはじめて現実のものとなるのである(鈴木敏正『持続可能で包容的な地域づくりのために』北樹出版, 2012年)。
(3)教育全体のなかで学校制度を考える
そもそも教育制度は、国民とくに子どもを中心とした地域住民のためのものであるというだけでなく、地域住民の学習活動とそれを援助・組織化する教育実践があってはじめて現実に存在するものである。その理解は21世紀に入ってますます重要なものとなり、2008年に大幅改定された教育基本法でも、「生涯学習の理念」(第3条)が新設されるとともに具体的な教育活動においては「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」(第13条)が重視されている。ここでは教育制度として学校教育を中心に考えていくが、こうした動向をみるならば、学校教育以外の教育(戦後日本では「社会教育」と呼ばれてきた)、さらには「教育」として制度化されていない領域で展開されている学習・教育活動も含めて、いったん学校教育を相対化したうえでそのあり方を検討していくことが必要である。
ここでは前提となる理解として、表を上げておく。この表は1950年代に学校教育と社会教育の独自性をめぐって議論されたこと(とくに「社会教育構造論争」)を整理したものであるが、第一に、現在の教育制度の基本構造をも示している。「教師一教育内容(教育手段)一生徒」という教育関係が基本となり、「教育専門労働」を担う教師が位置づけられている学校教育制度の特殊性が理解できよう。
しかし、第二に学校制度は近代以降に発達したもので、その前提に非制度的(インフォーマル)教育と社会教育があることを示している。歴史的には、まず非制度的教育があり、次いで近代以前の社会教育(学校以外の組織的教育=ノンフォーマル教育、「社会教育」という用語と制度はむしろ、学校教育成立後に生まれた)、そして近代学校教育というように発展してきたのである。第三に現代における学校教育の基盤に、社会において行われている教育(非制度的教育と社会教育)があることを示している。ここから、「大人と社会が変わらなければ子どもは変わらない」という関係の理解の必要性も生まれる。第四に、教育専門労働者としての教師の活動は、子どもの社会的形成を基盤とし、学校においては学習者の主体的な学び(相互教育と自己教育=戦後社会教育の本質とされてきたもの)があってはじめて意味あるものとなることを示している。最近の学校教育政策では「主体的・対話的で深い学び」が強調されているが、そもそも子どもが学ぼうとしなければ学校での教育実践が成立しないことは、教師が日々経験していることであろう。
(4)グローカルな視点をもつ
グローバリゼーション時代といわれてきた今日、国際的動向を視野においた教育制度改革が求められている。「地球的視野で考え、地域で行動せよ;Think Globally, Act Locally !」「地域のことを考えて、地球大で行動せよ;Think Locally, Act Globally !」という[グローカルな視点]が今日の教育制度改革でも重要な意味をもつようになっている。先進諸国で取り組まれている制度づくり、発展途上国で追求されているよりよい仕組みづくり、それらと交流・学び合いをしながら、あるべき「国のかたち」と制度改革のあり方を考えることが必要となってきているのである。
21世紀は地球的規模での「知識基盤社会」あるいは「知識循環型社会jと呼ばれていて、|日来の教育制度が提供するものだけが学ぶ場や条件ではなくなってきている。教育においても規制緩和・地方分権化への対応が問われるなかで、多様な人々が多様にかかわる教育制度改革が進められている。代表的な公的教育制度としてイメージされる学校や教育委員会なども「社会に開かれた制度」であることが求められ、学校にはとくに「グローバル人材」の育成が政策的に要請されている。そして、教育改革に向けた地道な国際交流とは別に、国際的経済競争の激化のなか、国際学カテスト(あるいはそれに対応した全国学力・学習状況調査)に好成績をあげるための教育政策が進められていることなどにみられるように、教育制度は国際的連関のなかで考えることが求められている。かくして、「教育制度」の役割もかたちも大きく変化せざるをえなくなっているのである。
今日、グローカルな視点から共通に求められているのは、「持続可能で包容的な(他者を排除しない)社会」づくりであり、国際的には「国連・持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development:ESD)」が取り組まれてきた。これらにかかわる世界各国・各地での活動の成果と課題をふまえた教育改革が求められている。この点については、後述する。
(5)現場の教育実践から考える:学校のなかで、学校を超えて
教育改革時代にある今日、教育制度について学ぶことの意義は大きいが、その改革の方向は教育現場で取り組まれている実践をふまえたものでなければならない。教育制度改革はよりよい教育実践を推進するためのものであり、現場の実践とはかかわりのない単なる制度いじり(たとえば、選挙対策や予算の取り合いのための「新制度」)はかえって現場を混乱させるものになりかねないからである。「子どもの最大限の利益」(国連・子どもの権利条約、1989年、日本の批准は1994年)を中心においた制度改革と制度運用が必要である。
学校教育制度を理解するうえでは表の全体を視野に入れておく必要があるが、それは単に これら諸制度の「連携協力」の必要のためではない。これまでの学校教育においても社会教育的な教育関係(学習内容一学習者、学習者-学習者)が位置づけられてきたが、子どもの主体的・対話的な学びとして課題解決型学習やアクティブ・ラーニングが重視されてきている今日、そのことはますます重要な課題となっている。学校内外の生活過程で子どもが何をどのように学んでいるか、子どもが生活をとおしてどのように「社会的に形成」されているかという「子ども理解」は、学校教育実践を進める場合に不可欠なことである。「子どもの貧困」が社会問題化し、多様な困難をかかえた子どもが増加してきており、その必要性は強く理解されてきている。
こうしたなかで進められる教育実践の発展という視点から教育制度を問い直し、求められている「連携協力」によって進められる教育制度改革に着目し、そこから地方と全国にわたる教育制度のあり方を検討する必要がある。本書でも紹介するようにすでに各市町村・各学校でさまざまな取り組みがなされている。まず現場から学び、学び合うことから教育制度改革を進めていかなければならない。
(1)歴史的に理解する
近代社会への決定的な政治的転換点は、「自由・平等・友愛(博愛)」を理念としたフランス革命(1789年)だとされている。その理念はまず、法のもとでのすべての国民の自由と平等をうたった「人権宣言」(1792年)として表現された。しかし、理念や宣言はそのまま現実ではない。自由で平等な「市民」になったのは当初、「財産と教養」をもった男性世帯主だけであった。階級・民族・家族・性別・年齢間など、現実に存在する不平等や不自由を克服していくことがそれ以後の社会発展の基本課題となったのである。その課題に取り組むものとして重要な位置づけが与えられたのが「教育」である。
教育普及に最も大きな影響力をもったのは近代国家=国民国家であり、多様な人々を「国民」として統合するために国民国家としての「正統性」を創造・維持するために何よりも「教育」を必要としたのである。もちろん、近代化を具体的に進めるための国家組織(官僚機構)の担い手形成のためにも、軍事組織形成のためにも、そして、近代産業を推進するためにも、[学校]を中核とする教育制度が必要とされた。その基本的な社会的機能が国民の「能力形成・評価」と「人材配分・移動」、そして[社会的・国家的統合]であることは今日でも変わらない。
近現代社会は「政治的国家と市民社会の分離」を基本的特徴としている。したがって、社会制度の歴史的形成過程をみれば、国家の側からのものと市民社会の側からのものがある。全体的にみれば、大きな権力と財政をもつようになった国家の側からその政策を推進するために組織化された社会制度が支配的である。近現代の国民国家にとって教育は、政治・経済・軍事・地方統治などとならんで重要な政策課題である。それゆえ、関連する法が制定され、それに基づくものとしての制度、つまり「法制度」が一般的なものとなる。教育制度とくに学校制度はその代表的なものであり、「教育法体系」を前提として組織化されているといえる。これに対して批判的な、あるいは代替的な市民社会(民間)の活動から生まれた教育制度(たとえば、私塾・私立学校・自由大学)も重要な役割を果たしてきた。しかしながら、法制度によって認められていない教育は、教育の世界では周辺化される傾向があった。
歴史的存在である教育制度は、歴史とともに変化する。日本では明治維新後に近代学校制度を中心する教育制度が生まれたが、欽定憲法・教育勅語・臣民(皇民)教育によって特徴づけられる戦前の教育制度は、戦後の民主憲法・教育基本法・国民(=主権者)教育制度に大きく変わった。その制度も戦後の歴史のなかで変容しっづけ, 2006年には、骨格となってきた教育基本法も大幅改定となり、現政権は憲法の改定さえ政治日程にあげてきている。こうしたなかで教育制度を支える社会的条件とその変容をふまえつつ、教育制度が果たしている、果たすべき役割、そして今後の教育制度改革のあり方を考えていく必要がある。
(2)社会構造のなかで理解する
社会制度を運営する組織は、国家機構と諸個人・諸集団の間にある「中間組織・中間団体」と呼ばれている。国家は「地方政府(地方公共団体)」や教育関係団体をとおして教育制度を普及しようとしてきた。これに批判的な教育運動が市民社会のなかから生まれ、しばしば独自の組織化・制度づくりを進めてきた。今日では、民間非営利組織(NPO)や非政府組織(NGO)の活動が社会の形成・発展に不可欠のものであることが理解されてきている。政策的には、それらをも国家の側から位置づけ、取り入れた(「民間活力」を利用しようとする)政策が支配的になってきており、実際には政治的国家と市民社会の両者の側からの組織化の複合的な社会制度が多い。
そこでは、国家的要請と市民的要請、それらの背後にある経済的要請が措抗し、相互の緊張や矛盾をかかえたものとなっている。その関係は今日、国民国家の枠をこえたグローバリゼーションが進展するなかでより複雑なものとなり、国家間の相互依存的かつ競争的関係、その背景にある多国籍的企業や国際的諸機関の動向を無視することができなくなってきている。
現代社会における教育制度の位置をモデル的に示すならば、図0.1のようである。ここで示した教育制度(教育委員会と学校・社会教育)は、「広義の教育実践を(第1次的に)組織化する」地方教育制度である。一般に教育制度には、より広い地方教育行政(第2次的組織化)から国家レベルの教育機構や教育関連法など(第3次的組織化)を含むものと理解される。本書でもこれら全体を「教育制度」と考えることにしよう。
社会構造のなかで教育制度を理解する際に忘れてならないのは、第一に、階級・階層的視点である。教育制度には近現代社会の多様な階級・階層の要求が集約されている。とくに教育制度が普及した先進国の多くでは市場的・資本主義的体制がとられており、その内部には、大きな階級・階層的格差があるから、どこの誰に対する何のための教育制度であるかが問題とされてきた。 21世紀には地球的規模で、先進諸国にも広がる「社会格差」問題への取り組みが重要課題となってきている。 1980年代に「一億総中流化」といわれてきた日本は、いまや先進国で最も高い貧困化率を示すグループに属している。とくに子どもの貧困化率は先進国で最悪のレベル(約6人に1人)である。非正規雇用が広がり(とくに青年層では半数以上)、社会から形式的にあるいは実質的に排除される「社会的排除問題」が克服すべき重要課題となっている。こうしたなかで、本来「自由と平等(と友愛)」を実現するためであったはずの教育制度のあり方が問われているのである。
第二に地域的・空間的視点である。資本主義的な社会経済は地域的・空間的不均等発展を基本的な特徴とする。急速な近代化を進めてきた日本はその典型例であり、戦後日本の高度経済成長がもたらした過疎・過密問題や、1990年代以降の経済的グローバリゼーションの展開のなかでの「東京一極集中」現象などに端的にあらわれている。 21世紀に入って問題はより深刻化し、市町村の「平成の大合併」政策を経て「限界集落」問題や「地方(市町村)消滅丿予測などが提起され、安倍政権は「地方創生」を重点政策に掲げざるをえなくなっている。しかし、その政策は「選択と集中」を基本としており、さらに地域格差を拡大し、実際に多くの「地方消滅」を生み出すおそれがある。これまでの学校制度は地域の人材を中央に送り出す「地域を捨てる学力」(東井義雄)の形成をしてきたのではないかと批判され、「地域を育てる学力」「地域にねざす教育」のあり方が問われてきた。それは今日、とりわけ東日本大震災などの大災害被災地で重要課題となっているが、超少子高齢化が進み、学校統廃合が政策的に進められている日本のどの地域でも大きな実践課題になっていることである。「持続可能な教育制度」は「持続可能で包容的な地域づくり教育」とともにあってはじめて現実のものとなるのである(鈴木敏正『持続可能で包容的な地域づくりのために』北樹出版, 2012年)。
(3)教育全体のなかで学校制度を考える
そもそも教育制度は、国民とくに子どもを中心とした地域住民のためのものであるというだけでなく、地域住民の学習活動とそれを援助・組織化する教育実践があってはじめて現実に存在するものである。その理解は21世紀に入ってますます重要なものとなり、2008年に大幅改定された教育基本法でも、「生涯学習の理念」(第3条)が新設されるとともに具体的な教育活動においては「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」(第13条)が重視されている。ここでは教育制度として学校教育を中心に考えていくが、こうした動向をみるならば、学校教育以外の教育(戦後日本では「社会教育」と呼ばれてきた)、さらには「教育」として制度化されていない領域で展開されている学習・教育活動も含めて、いったん学校教育を相対化したうえでそのあり方を検討していくことが必要である。
ここでは前提となる理解として、表を上げておく。この表は1950年代に学校教育と社会教育の独自性をめぐって議論されたこと(とくに「社会教育構造論争」)を整理したものであるが、第一に、現在の教育制度の基本構造をも示している。「教師一教育内容(教育手段)一生徒」という教育関係が基本となり、「教育専門労働」を担う教師が位置づけられている学校教育制度の特殊性が理解できよう。
しかし、第二に学校制度は近代以降に発達したもので、その前提に非制度的(インフォーマル)教育と社会教育があることを示している。歴史的には、まず非制度的教育があり、次いで近代以前の社会教育(学校以外の組織的教育=ノンフォーマル教育、「社会教育」という用語と制度はむしろ、学校教育成立後に生まれた)、そして近代学校教育というように発展してきたのである。第三に現代における学校教育の基盤に、社会において行われている教育(非制度的教育と社会教育)があることを示している。ここから、「大人と社会が変わらなければ子どもは変わらない」という関係の理解の必要性も生まれる。第四に、教育専門労働者としての教師の活動は、子どもの社会的形成を基盤とし、学校においては学習者の主体的な学び(相互教育と自己教育=戦後社会教育の本質とされてきたもの)があってはじめて意味あるものとなることを示している。最近の学校教育政策では「主体的・対話的で深い学び」が強調されているが、そもそも子どもが学ぼうとしなければ学校での教育実践が成立しないことは、教師が日々経験していることであろう。
(4)グローカルな視点をもつ
グローバリゼーション時代といわれてきた今日、国際的動向を視野においた教育制度改革が求められている。「地球的視野で考え、地域で行動せよ;Think Globally, Act Locally !」「地域のことを考えて、地球大で行動せよ;Think Locally, Act Globally !」という[グローカルな視点]が今日の教育制度改革でも重要な意味をもつようになっている。先進諸国で取り組まれている制度づくり、発展途上国で追求されているよりよい仕組みづくり、それらと交流・学び合いをしながら、あるべき「国のかたち」と制度改革のあり方を考えることが必要となってきているのである。
21世紀は地球的規模での「知識基盤社会」あるいは「知識循環型社会jと呼ばれていて、|日来の教育制度が提供するものだけが学ぶ場や条件ではなくなってきている。教育においても規制緩和・地方分権化への対応が問われるなかで、多様な人々が多様にかかわる教育制度改革が進められている。代表的な公的教育制度としてイメージされる学校や教育委員会なども「社会に開かれた制度」であることが求められ、学校にはとくに「グローバル人材」の育成が政策的に要請されている。そして、教育改革に向けた地道な国際交流とは別に、国際的経済競争の激化のなか、国際学カテスト(あるいはそれに対応した全国学力・学習状況調査)に好成績をあげるための教育政策が進められていることなどにみられるように、教育制度は国際的連関のなかで考えることが求められている。かくして、「教育制度」の役割もかたちも大きく変化せざるをえなくなっているのである。
今日、グローカルな視点から共通に求められているのは、「持続可能で包容的な(他者を排除しない)社会」づくりであり、国際的には「国連・持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development:ESD)」が取り組まれてきた。これらにかかわる世界各国・各地での活動の成果と課題をふまえた教育改革が求められている。この点については、後述する。
(5)現場の教育実践から考える:学校のなかで、学校を超えて
教育改革時代にある今日、教育制度について学ぶことの意義は大きいが、その改革の方向は教育現場で取り組まれている実践をふまえたものでなければならない。教育制度改革はよりよい教育実践を推進するためのものであり、現場の実践とはかかわりのない単なる制度いじり(たとえば、選挙対策や予算の取り合いのための「新制度」)はかえって現場を混乱させるものになりかねないからである。「子どもの最大限の利益」(国連・子どもの権利条約、1989年、日本の批准は1994年)を中心においた制度改革と制度運用が必要である。
学校教育制度を理解するうえでは表の全体を視野に入れておく必要があるが、それは単に これら諸制度の「連携協力」の必要のためではない。これまでの学校教育においても社会教育的な教育関係(学習内容一学習者、学習者-学習者)が位置づけられてきたが、子どもの主体的・対話的な学びとして課題解決型学習やアクティブ・ラーニングが重視されてきている今日、そのことはますます重要な課題となっている。学校内外の生活過程で子どもが何をどのように学んでいるか、子どもが生活をとおしてどのように「社会的に形成」されているかという「子ども理解」は、学校教育実践を進める場合に不可欠なことである。「子どもの貧困」が社会問題化し、多様な困難をかかえた子どもが増加してきており、その必要性は強く理解されてきている。
こうしたなかで進められる教育実践の発展という視点から教育制度を問い直し、求められている「連携協力」によって進められる教育制度改革に着目し、そこから地方と全国にわたる教育制度のあり方を検討する必要がある。本書でも紹介するようにすでに各市町村・各学校でさまざまな取り組みがなされている。まず現場から学び、学び合うことから教育制度改革を進めていかなければならない。
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