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移民に対する米国内の論争に対するグローバルな視点

『移民からみるアメリカ外交史』より

ギャラクタス988のような怒れるアメリカ人は、移民法をかいくぐることは、移民たちがアメジカ法を衝撃的なほど軽視しており、それゆえに、責任あるアメリカ市民権を取得するには不適当だということを示しているのだと主張する。しかし、アメリカに入国することを禁じられている外国人だちが審査から巧みに逃れ得るのは、大方、アメリカ市民たちも、自らの自由を制限すると思われる法律を軽視し、抗い、そして無視しているからだ。一九四三年にドン・ペドロを越境させたアメリカ人は、アメリカ法を破ることについて動じなかったようだ。アメリカ人自身が、他国で慣例となっている人口登録システムや国民IDカードに抵抗しているので、証明書を持たない一一〇〇万人の外国人がアメリカで暮らすことができるのである。市民たちは、証明書を持たない移民たちを快く雇用し、彼らに家を貸し、そして彼らの作り出す製品やサービスを購入している。大企業が、証明書を持たない労働者たちの最大の雇用主ではない。家事労働者、庭師、保育士を必要とする何百万人もの小事業主や個々の世帯が、こうした労働者たちの雇用主なのである。

自国の人びとや移民たち双方がこのように法律に無関心なのは、アメリカ史に前例のないことではない。アメリカが憲法修正によってアルコールの販売を禁止した、短期間ではあるが問題だらけだった一〇年、すなわち、われわれが今日「禁酒法」と呼ぶ法律の時期を考えてみよう。二十世紀初頭、非常に多くのアメリカ人たちが、ドイツ人が所有していた酒場、外国のワイン、そしてビール好きたちに当時は象徴された「飲酒の悪弊」からの保護を望んだので、連邦議会と三六の州はアルコール飲料の販売を禁止する憲法修正を速やかに可決した。しかし、有権者や議会からの禁酒法への明らかに圧倒的な賛同があるにもかかわらず、驚くほど少数のアメリカ人たち、つまり少数の市民たちしか、喜んで飲酒を止めない、あるいは飲酒用の蒸留酒を購入するのを止めないことがわかった。禁酒法が施行されていた間、刑務所に入ったのは、ほとんどの場合、その多くが外国人であったアルコールの密輸業者、生産者、調達人たちであり、非合法化された商品の消費者たちではなかった。違法な製品への需要に活気づけられた多くの言い逃れに直面して、当初、財務省はより多くの取締官、より多くの資金供給、そしてより厳格な法の執行を要求した。しかしながら、禁酒法を支持した人びとですら、同法が無力で法的強制力を欠くものだと、結局は結論づけた。一九三〇年代の経済破綻で、連邦議会は二度目の憲法修正によって禁酒法という実験を終わらせ、アルコールの販売と購入は処罰の対象から外されたのだった。今日、アメリカは、いくらか似たような数々の行為に直面している。ただ、違法とされるようになったのは、不熟練労働者の外国人の労働だというだけの話だ。

二〇〇八年や二〇〇九年の金融破綻に直面して、低賃金労働者たちへの就労ビザの制限を今こそ止めるべきだろう、と言った者は誰もいなかった。その代わり、グローバル化をめぐる最近の加熱する議論は、アメリカの経済力に対するグローバルな挑戦を指摘し、迫りくる革命的な変化を強調した。そして、アメリカ人自身が不法行為を育くむ役割を果たしていることを知るように促さず、アメリカの排外主義を煽ったのであった。アメリカの歴史において、排外主義は、国際戦争の時期の忠実な友となってきた。二〇〇九年、いまだにアメリカは海外に駐留する多数の兵士たちを抱えており、その兵士たちの多くが曖昧な「対テロ戦争」に充てられるか、イラクやアフガニスタンに民主主義国を作るために戦っている。

孤立と経済保護の双方が、グローバルな変化の国内での影響を抑えるための戦略として否定されたので、移民制限は、多くのアメリカ人たちが国境を越えて世界からやってくると考えている危機に対して、もっとも重要で象徴的な、法律による保護でありつづけている。アメリカ人たちが国内での議論と国内法を通じて対処しようとするほとんどすべての移民問題に、他国も同様に取り組んでいる。移民をめぐって国内の行き詰まりが続くなかで、アメリカは変動する世界において開かれた外交を追及し、アメリカと世界との関係も同様に変化している。しかし、外交問題や政策は、移民に関する論争ではほとんど目立たず、大多数のアメリカ人たちは、いまだに移民を国内特有の課題であると見なしている。グローバル化を恐れて、迫りくる財政赤字と莫大な国際貿易赤字に気づき、そして自国の力が消え去っていくのを憂慮して、アメリカ人たちは、移民数や不法行為の増加、そして移民の質の低下が、国際的な解決策が必要とされるグローバルな問題であるというよりも、比類なくアメリカ的な問題であり、彼らの政府がアメリカの法律を執行できなかった結果であると見なしているのである。
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置き手紙生活

置き手紙生活

 前の日に準備するのは、その日に着るものとスケジュール。

 雑記帳はしょうがないから、その日の朝にICレコーダーで前日分を知ることになる。

大雑把な活動パターン

 木曜日は岡崎市図書館で新刊書、金曜日は豊田市図書館で新刊書、土曜日は元町スタバでの朝活、日曜日は家で新刊書のアップ、月曜日は本屋での立ち読み、火曜日は図書館。そんなところですか。その日の私次第ですけど。

 本屋の立ち読みに関しては、多読技術をフル活用します。2千円の本であれば、20分で読むことができます。つまり、1分100円の世界です。

 毎日の歩行計画も入れておきます。ちなみに、最近の歩行データ。19日4800歩、18日10300歩、17日:7400歩、16日1800歩、15日3300歩。やはり、それなりに意識して、歩かないとダメですね。

未唯へ

 しかし、急に眠たくなりますね。

ICレコーダーの使用

 借りて、OCRしなかった本はICレコーダーに足跡を残します。次から。



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ナチズムの教育学

『教育学の歴史』より ナチズムに奉仕する教育と学校

ドイツの国家生活、経済、法制度、芸術、学問、世界観の場合と同様に、教育の領域にも一九三三年に(ナチズムの)「指導者原理」が採用され始めた。従来、学問は客観性の獲得を目指して努力してきたし、教育には客観的な文化諸力に対する相対的な自律性が認められてきた。また、教師には子どもの日常の諸問題に対処して教師自身の意見は差し控える超党派の客観的態度が要求されてきた。それが一九三三年当時は、はなはだしい弱点として、また感傷的人道主義として捉えられ、新しいナチズムの国家から極めて鋭く非難された。このナチズム国家はただ一つの絶対的価値しか人間に認めず、この点に第三帝国の指導者や権力は傾注した。その他の一切が、容赦なくこの目的達成のための手段とされた。政治的、経済的、文化的生活の全てが、芸術や宗教の領域に至るまで、その目的のために整えられ、その観点から監視された。節度や良心の欠けた政治的権力闘争が世界観にまで、いや一つの宗教にまで意識的に昇華され、この「血と大地」の神話が合理的な管理によって、また技術と組織、あからさまな強制やカムフラージュされた強制、抜け目のない宣伝、学校教育といったあらゆる手段を通じて実施されることになった。それはこのような生活秩序にとって特徴的なことであり、それが極度に誤っているのは明白な事実であった。こうしてドイツの生活全体は、いまだかつてなかったほどに「統制化」され、細部に至るまで完全に組織されたが、それはNSV(「国家社会主義的国民福祉」)やKdF(余暇組織「歓喜力行団」)から職業団体、さらには帝国文部会議にまで及んでいた。学問は、このような世界観や政治を諸論文によって「根拠づけ」る課題を割り当てられ、教育は「ドイツ人」をこの政権が望むとおりに、またこの政権の思想に従って人種学や歴史認識から解明されるように構築されなければならなかった。

ナチズム教育の根本原則は、すでにヒトラーの『わが闘争』に明確に表れている。教育においてまず大切なことは「心底丈夫な身体を少しずつ育成する」ことであり、また、青少年の心と脳髄に「人種感覚」と「人種感情」を「燃え上がらせる」ことである。民族の自己保存、一層の繁栄、民族の力にふさわしい目的達成に奉仕し、青少年に自分たちの人種としての力と優秀性への狂信的な信仰を目覚めさせ、政治的指導に無条件に進んで仕える心構えと盲目的な服従とが生み出されなかればならない。ヒトラー自身にとって、また有力なナチズムの教育学者、クリーク、ボイムラー、シェム等にとって、教育は明確に訓育として、「教練と形成」として理解された。そのような教育は「服従、指導者への忠誠、権威ある形成と統制の原理」(クリーク)によって実現でき、「一致団結した力、統制の取れた政治的態度で、意志を方向づけて、人種意識をもった国民を」達成しようとするものである。こうしたことにあらゆる教育の諸力や組織も貢献しなければならなかった。とりわけ学校は中央が統制し、「闘争的態度」をもった教師が指導した。国家社会主義青少年団(「ヒトラー・ユーゲント」)や政党組織、労働奉仕やドイツ国防軍(一九三五~一九四五)も貢献した。

目標は身体的に鍛練され、しかも「北方の心」を持った人間であった。こうした人間は、できるだけねばり強く、断固としてナチズムの世界観と国家のために力を尽くすすべを心得ている。それゆえに当時、身体の鍛練に対しては従来にも増して高い価値が置かれ、しかもそれは体操的・芸術的なものにではなく、むしろ軍事的なものに方向づけられていた。勇気や意志、服従と命令の技、不撓不屈の精神と大胆不敵、貫徹力と犠牲的精神は新しい民族共同体に求められる核心的な美徳となり、それによって新しい教育にとっての最重要な目標が設定された。身体の鍛練と性格形成とは逆に、純粋に知的な教育は後退した。いうまでもなく、知的教育に関してはナチズム的意味で理解された歴史的・政治的教育が主役を演じた。したがって学校の授業では、当時、身体の鍛練と共にドイツ語、歴史、生物学(人種学)が特に強調された。教育全体が狭義の「政治的」教育となった。国民の狂信、人種的憎悪や民族的憎悪が、人間教育の高度な目標として公然と宣言された。このような世界観では個々人は種族の鎖の一部としての意味しか持たず、また、このような国家においては個人の自由とその他の憲法に基づいた基本的な権利が明確に破棄されてしまうのと同様に、教育においても、「汝は無であって、汝の民族がすべてである」との公式によれば、個々人は単に国家目的の手段として捉えられていた。女子教育もまったくもって、そのような公式にしたがって行われ、後に母親としての役割を果たせるように指導がなされた。

ナチズムは、教育によってそのように心の政治的加工を行なったが、それと同じ程度に教育も拡大し、その他のあらゆる教育諸力は抑圧しようと試みた。こうして原則的には政党そのものから小規模庭園所有者の会にいたるまで、多くの団体組織がナチズム的なドイツ民族教育へと組み込まれていった。青少年も可能な限り早く、集中的に影響を受けることが望まれた。そのために青少年の団体組織(ヒトラー・ユーゲント)がつくられた。

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ギリシャとレベノンのワイン

『ワインの歴史』より ⇒ 春にソホクリスが来た時のネタにしたくて。レバノンにギリシャワインを展開している。その時に、ベイルートのスタバマグをもらえるはず。

ギリシャのワイン

 ギリシアは、ョーロッパのブドウ栽培の故郷だ。だとすれば、いまから何千年も前にその地にしっかりと根を下ろし、ヨーロッパのワイン文化の源となったワイン文化がいまも受け継がれているに違いないと思いたくもなる。先ほど紹介した通り、ワインは古代ギリシア文化の生活の中心だった。そしてギリシアがビザンツ帝国[東ローマ帝国一に併合されていた時代にもブドウ栽培は続いていた(ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは、非常に活発な地中海ワイン貿易の中心だった)。しかし巧世紀後半、コンスタンティノープルが陥落してギリシア本土がオスマン帝国に占領されると、ギリシアのワイン産業はほぼ断絶した。1829年に独立戦争が終結してギリシアはオスマン帝国の支配から脱したが、19世紀から20世紀にかけてバルカン半島には騒乱の嵐が吹き荒れていた。ふたつの世界大戦はギリシア人を分裂させ、第二次世界大戦後には悲惨な内戦が勃発した。こうした事情から、1981年にギリシアがEC[ヨーロッパ共同体。のちのEU]に加盟するまでワイン産業は実質的には休眠状態だった。

 何百年間も続いた占領の時代でも、たくましくて多産なヴィティス・ヴィニフェラ種はけっして見捨てられなかった。ギリシア本土でも島々でも、オリーブやケーパーなどの土着植物の隣でブドウは青々と葉を茂らせ、実を結んでいた。こんにちギリシアには、有史以前からこの場所で栽培されてきた--そしておそらく地球上のほかの場所にはない--幅広い土着種が生育している。アシルティコ、ロディティス、サヴァティアーノ、アギオルギティ゛コ、リムニオ、マンデラリア。国外ではほとんど知られていないが個性豊かなブドウたちだ。ギリシアはブドウの栽培地としては比較的気温が高いので、現代の科学技術、中でも温度調節が可能なステンレスの醗酵容器のおかげで、古代のワインの遺産に起源をもつ個性的なワインの生産が可能になった。

 現代では、ギリシアは新興のワイン国に分類されることが多い。だが、ギリシアの現在と過去を結ぶものがある。それは国民的に人気の高い松脂の風味のワインだ。古代ギリシア人は、水漏れやワインの酸化を防止するために、多孔質のアンフォラの内側に松脂を塗っていた。松脂はワインの風味や性格を独特のものにした。いまでも白ワインやロゼワインはこの通りの方法で風味づけされている。レツィーナという松脂入りワインには独特の樹液の風味があり、ギリシア人にも観光客にも人気がある。ギリシアの夏休みの味だ。

レバノンのワイン

 レバノンも古代からワインをつくり続けている国である。そのワインづくりの歴史は古く、そして興味深い。ブドウの苗木を船に積んで地中海を横断した古代の海洋商人フェニキア人の本拠地は、現在のレバノンにあった。古代ギリシア人やローマ人はカナン[現在のパレスチナ地方]やベッカー高原「レバノン山脈とアンチレバノン山脈の間に広がる高原」のワインを高く評価していた。オスマン帝国に支配されて酒の製造が禁止されていたときも、キリスト教徒たちは「宗教的な目的」のためにワインをつくる特別な許可をもらっていた。

 第一次世界大戦後にレバノンはフランスの委任統治下に入り、1943年、最終的に独立を果たすが、その期間にフランス人は首都ベイケートに繁栄と洗練されたコスモポリタニズム的な生活様式をもたらした。そのひとつ、ワインを飲む文化にレバノンは活気づいた。数千年前から耕されてきたベッカー高原のブドウ畑は国内消費用だけでなく輸出用のワインも供給することができた。独立、内戦、現在も続くイスラエルとの紛争、その間もフランスの影響を受けたブドウ畑(シャトー・ミュザールが有名だ)は逆境と戦い続け、世界最古のブドウ畑のひとつで伝統的なブドウ品種から最高級のワインを生産している。

 フランス人がレバノンのワイン醸造家を活気づけたと言うなら、北アフリカのワイン産業に与えた影響はそれ以上だった。ブドウは古代には北アフリカ全域に生育していたが、ブドウ栽培が復活したのは19世紀に入ってからだ。ブドウ畑が拓かれたのは、当時ヨーロッパを襲ったフィロキセラヘの対策のためでもあった。当時フランスの植民地だったアルジェリアにブドウ畑が開墾された。アルジェリアは、アルコール度数が高く色鮮やかなワインを潤沢に供給するようになり、こうしたワインが、本国フランスの混合樽に紛れ込んでさえないヴィンテージを増強するようになった。ブルゴーニュ産のような一流のワインでさえ、こうした暑い国のワインを足して色やアルコールを増強していたという--もちろん、こういった不埓な行ないへの規制がいまよりずっとゆるかった時代の話だ。だが、1962年の独立と同時にアルジェリアのワイン産業は大きく傾き、いまも完全に立ち直ってはいない。
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