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要望を知ることは思いを知ること

大学に入った夢

 大学へ入った夢を見ていました。だから、今日から大学生です。どっちみち、教わりたい先生は居ないのだから、自分の内側を見るだけです。そのためには、場所と時間と動機が必要です。

 承認を求めない、依存しない。教えようとする者にとっては、大変な話です。依存した方がはるかに楽なのはわかりきっています。だけど、それが全ての害の元です

 この朝の渋滞と同じように、依存してはいけません。一番、悪いのは、それが悪いことだと思わなくなることです。車の販売に関しても。

要望を知ることは思いを知ること

 要望を知るということは、思いを知ること。これなら、一般化できるし、研究開発部署で技術員相手に散々、経験しました。「皆の思いを自分の思いに、自分の思いを皆の思いに、思いをカタチに」をキャッチフレーズにしていた。

 販売店の社長ヒアリングはそういう意味だったんです。対象は技術部に比べると、はるかに広大で、曖昧だった。もう一つは社会との関係が強かった。その時に、思いが一様でないということと、表現が偏っていることを感じた。

 自分たちの中に対してと、外に対してと、車に対しても、皆バラバラです。思いというのは、そういうものの掛け算なのか割り算なのか分かりません。

状況を知る

 状況というのは、今、どうしているのか、そうして、どういうカタチになればいいのか。その時に、システムを提供するのは簡単です。思いをカタチにすることです。これは実現することではない。自分たちでできるようにするだけでいい。見えないものを見えるようにしていく。そういうものをすべて含みます。技術部で行ったこと、そのものです。

 社会に対しては、特にそれが言えます。皆がそれぞれ、別のことをしながら、道具をどう渡していくのか、その道具の成果を、分化するものをどのように統合させていくのか。

 技術と異なるのは、つながることです。それが高度サービスの大きな特徴です。売るだけとか、商品とかだけではダメです。つながることです。
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第六軍のモスコウ攻撃失敗の原因

『第二次世界大戦外交史』より

イタリーの進攻芳しからず

 日独伊三国の協定に伴い、イタリーは地中海の周辺に活躍する時機を待っていた。しかしフランスの崩壊が明らかになるまで中立を標榜して動かなかった。すでにフランスが没落し、イギリスがその島のなかに封じこめられた以上、ムッソリーニがローマ帝国再建の夢に躍り出ることは当然であった。

 イタリーの出撃は二方面で同時に行われた。その一はアドリア海を渡ってギリシャに、他の一つは北アフリカの植民地からエジプト征服の遠征軍を送ることであった。

 一九四〇年十月二十八日、イタリーはギリシャ人がアルバニアにおいて残虐行為を行ったとの口実の下に最後通牒をアテネ政府に突きつけ、対英戦争の遂行に必要な戦略地点の占拠を要求した。これよりさきムッソリーニは十月十五日に軍首脳部の会議を開いて、イタリーがギリシャに対してとるべき行動の進路を説明した。この行動は一つには海軍の策戦行動であり、第二には領土の接収を目標とするものである。イタリーが占領しようとする地域はアルバニア海岸全部、イオニア群島、ならびにサロニカ港である。ギリシャが戦闘不能となった暁には、いかなる場合にも同国をイタリーの政治、経済的圏内に置くためにギリシャ全土を占領する。

 この決定は直ちにヒトラーに通告され、十月二十八日(ギリシャヘの開戦の日)にヒトラーはフローレンスに来てムッソリーニと会談した。内心ではイタリーの冒険を好まなかったヒトラーもフローレンスでは既定の事実に承認を与えた。

ソ連の防備充実

 ソ連は独ソ不可侵条約を結んでから、対独戦備を強化しはじめた。まず第一に、ポーランド東部のソ連領編入(一九三九年十月二十二日)、ソ芬戦による領土の拡大(一九四〇年三月十二旦、バルト三国の併合(一九四〇年八月三-六日)、ベッサラビアおよび北部ブコヴィナのソ連領編入(一九四〇年八月二日)等によって、対独防衛地域をひろげた。ついで第二に兵役法を国民皆兵主義に改めた(一九三九年九月一日)のを初めとして、ソ芬戦で暴露した欠陥是正のため、四〇年には、大幅な軍容刷新、軍事委員制の廃止、赤軍軍紀令の罰則強化、部隊訓練の奨励等を断行した。さらに第三には、一日七時間五日労働制を一日八時間六日労働制に改め(共に一九四〇年六月二十六日)、年少者の労働予備軍への強制徴用(同年十月二旦、技術者の強制移動(同年十月十九日)など、一連の労働強化策をとり、国防国家体制の完成をめざした。それに加えて、燃料、食糧、ニッケル、モリブデン、ゴム等の貯備に本腰を入れだしたのも、この頃からであった。

 開戦当初におけるドイツ軍の進撃は、概して快調のようだった。随所にソ連軍を包囲し、その都度多数の将兵を俘虜とした。ドイツ参謀本部の資料によると、開戦後四ヵ月間に得た俘虜の総数は約二百万に達している。だが、結局、ソ連野戦軍主力を捕捉撃滅できなかったし、また、モスコウ攻撃も成功寸前で挫折した。その主な原因としては、次のような点があげられよう。

  一、開戦が予定より一ヵ月余遅れたこと。四〇年十二月十五日に下令された総統訓令は、対ソ作戦準備完了時機を四一年五月十五日としていたが、開戦は六月二十二日であった。この一ヵ月余の遅延は、ドイツ軍がユーゴーとギリシャで作戦したためである。

  二、四一年の冬が例年より早く来たこと。このことは、前項と相挨って、ドイツ軍の作戦可能期間をさらに短縮し、また、防寒装備のほとんどないドイツ軍将兵の戦意を著しく低下させた。

  三、スモレンスクの作戦後、ドイツ軍は同地付近に二カ月余立ちどまり、モスコウ付近のソ連軍に立ち直る余裕を与えたこと。

  四、ソ連領土の広さがものをいったこと。とくに独ソ不可侵条約後にソ連が拡大した地域において、ドイツ軍を少なくとも二週間作戦させたことは、ソ連軍に多少とも息をつかせる結果となった。

  五、人間の数、「人海戦術」、「焦土戦術」がドイツ軍の進撃をある程度食い止めたこと。

  六、ドイツ軍を困らせた冬の早期到来、それに酷寒がソ連軍に大いに味方したこと。要するに、モスコウを救ったものは、ドイツ軍の作戦可能期間を短くしたユーゴー、ギリシャ等の抵抗のほか、領土の広さ、人間の数、激しい寒気などであったといえよう。
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ソ連・フィンランド戦争

『第二次世界大戦外交史』より ⇒ 第二次世界大戦についての私の興味は、二つの国での戦いです。一つはフィンランド。ロシアとの戦いとドイツの介入に際してのシスの精神。もう一つはギリシャ。イタリアには反撃できたが、ドイツには圧倒された。その時でも内戦に明け暮れた。その二つが、ナチの第六軍とスターンの大祖国戦争に及ぼした影響。そして、ロマンあふれるラップランド戦争。

フィンランドは小国であるが、国民の気力は偉大である。彼らは中世の民族大移動の際、ウラルアルタイ族の先陣をうけたまわってウラルを越え、北の方フィンランドに定着した種族の子孫である。その後スウェーデンの盛時にその座下に入り、北欧の文化を吸収してキリスト教徒となった。従って人種、言語、宗教、文化の上から見て、ギリシャ正教をたずさえて北ロシアに進出したスラヴ人とは全く異なった系列に立つ隣組である。

一九三九年十月五日、フィンランド政府は、至急その代表者をモスコウに派遣するようにとの要請をうけた。いよいよフィンランドの番が来たのである。

ドイツの思いがけない電撃によらてポーランドが壊滅し、ソ連の西方国境はバルチック海から黒海に達する地域にわたって著しく拡大強化された。エストニア、ラトヴィア、リトゥアニアの三国も吸収され、整理中である。次はフィンランド国境において、軍事上有利な線を確保しようとソ連がフィンランドに強圧を加える順序となったのである。

といってもソ連はフィンランドそのものの力を怖れるのではない。しかし近い過去において、ソ連に敵対する強国は、常にフィンランドを作戦の基地として利用した。第一次世界大戦に際して、バルチック海はドイツとの戦争に重大な役割を演じたし、共産革命の初期には、イギリスが北方アルハンゲリスクに兵を上陸させて、それから鉄道によりレーニングラードヘ下る計画をたてた。その後タイムズが書いたように(一九一九年四月十七日)、フィンランドはペトログラードヘの鍵であり、ペトログラードはモスコウヘの鍵たる地位にいるのである。一九二五年にポーランドがバルチック諸国と同盟を結ぶような風評も流れていたし、一九三六年にはナチス・ドイツとフィンランドとの間にソヴィエトに対抗する了解が成立したとも報ぜられた。この時にはフィンランドがドイツとの不可侵条約を拒否したが、同時にソ連から申し出た領土保全の保障も受けいれなかった。これらの背景がついに今回の強圧となって現われたものである。

フィンランド政府は当初からソヅィエトの意図を知っていた。それは正式の交渉が開かれる前に、リトヴィノフ(外務次官)やミコヤン(貿易相)から非公式に話が持ち出されていたからである。フィンランドとしてはソ連の要求が国の安全に関する重大問題であるから、島嶼に関するもの以外は到底受諾し得ないとして、モスコウ交渉の最中に、軍隊を動員し、国境都市から住民を後退させ、万一に備えていた。

十月十一日、モスコウに行って、ソ連の要求文書をうけとる任に当ったのはパーシキヴィと呼ぶ練達の政治家であって、さきに一九二一年にソ連と平和条約の調印を行った経歴の持主であった。

ソ連はもっぱら軍事上の見地からフィンランドに対して次のような要求をつきつけた。

 一、レーニングラードの北方にあるカレリア地峡において領土を割譲すること。これはレーニングラード市とラドガ湖とをつなぐ国境線を三、四十マイル北西方に後退させて、フィンランドの築いたマンネルハイム線を取り除き、相手の長距離砲からレーニングラードを安全にするためである

 二、フィンランド湾にある島嶼の譲渡

 三、フィンランド唯一の不凍港ペツァモ(北氷洋に面す)とその一帯のルイパチ半島の租借

 四、フィンランド湾口を挺するハング港をソ連の海空軍基地として租借権を認めること

以上の要求の中二、四はフィンランド湾を制圧するための手段として要求したものである。これに対しフィンランドは(ング港の重要性に顧み、これをソヴィエトに引渡すことを峻拒した。そして十一月十三日ついに交渉は決裂し、十一月三十日にソ連は国境線の八カ所に攻撃を加えて来た。

フィンランドは独ソ協定によって、フィンランドがソ連の勢力圏と決定されたことを知らないでいたから、ドイツの支持をひそかに期待していた。英仏等が久しきにわたってフィンランドに友好的態度を示したことから、西欧陣営に対しても多少の望みをつないでいたが、しかし、いずれも効果的な援助をうける見込みはなかった。

フィンランド国民はカレリア半島をもって、そのテルモピレーなりと信じていたから、マンネルハイム線を死守する覚悟をきめて戦いに臨んだ。

フィンランド軍は総司令官マンネルハイムの指揮の下に勇敢に戦った。ソ連は兵力量においてフィンランド軍より優勢であったけれども、訓練と素質においてははるかに劣っていたから、一ヵ月余にわたる攻撃をもってしてもマンネルハイム線を突破することができなかった。

この予想外の戦闘は全世界を沸かし、フィンランドに対する同情が高まると同時に、ソ連の実力に対する誤った推算も行われた。

フィンランドの難局に対し国をあげて共感をもったものは、いうまでもなく、古くから因縁の深いスウェーデンであり、またこれと盟邦の契をもつノルウェー、デンマークであった。十月十八日これら三国の国王は、フィンランドの大統領を迎えて対ソ策を協議し、スウェーデンは率先してフィンランド援助を行う旨を声明した。スウェーデンの編成した義勇軍は、十二月二十九日に、その先遣部隊一千名をフィンランド国境に送った。越えて一月リンダー将軍が義勇軍の指揮官として出発し、空軍の一部隊もフィンランド戦線に活躍を始めた。これに対してソヴィエトは、スウェーデン、ノルウェー両国に強硬な抗議を行い、スカンヂナヴィア諸国とソ連との関係はきわめて微妙な動きを示した。

ソ連・フィンランド戦争に対する英仏両国の態度はきわめて微妙なものがあった。弱小国フィンランドに対するソヴィエトの強圧に対し世論が挙げてフィンランドに同情を表したことは人情の自然である。ことにドイツと結託してポーランドを分割したモスコウ政府の手口、沿バルト三国を併呑した事実等がソヴィエトに対する反感をいやが上にもそそったため、フィンランドに援軍を送れとの運動が次第に強くなった。

しかし英仏としてはやがては西部戦場において本格的の攻防戦が展開され、それが最終的に勝敗を決する要因であることを考慮すれば、一発の砲弾といえども他にさし向ける余裕のある筈はない。イギリス政府は、それ故、極カフィンランド救援の運動を抑える方針をとり、義勇兵の募集事務所がロンドンに開かれても、わずか数十台の飛行機が現地に発送される程度にすぎなかった。

フランスにおいては、民論の圧力により政府も援軍をフィンランドに派遣する方針をとらざるを得なかった。そうなればイギリスもまたなんらかの手段をとらざるを得ないのであるが、問題はその援軍をスウェーデンまたはノルウェーを通過させることの可能性である。スウェーデンは物資や義勇兵がフィンランドに入ることは黙認してきたけれども、英仏の軍隊を通過させることは、永年の中立政策を逸脱するものとして、絶対にこれを承認しなかった。

アメリカの世論は一斉にソ連の行動を非難し、国会においても上院外交委員長ピットマンをはじめ多数の議員が米ソ関係の断絶を叫ぶようになった。

ソ連は翌一九四〇年の二月をもってフィンランド正面に重兵器を集め、十日間にわたる大砲撃を続けたのちにヴイボルグの要塞に優勢な地上攻撃を加えた。二月末になってマンネルハイム線が突破され、フィンランド軍は弾薬の欠乏と部隊の疲労とによって、これ以上の抵抗には堪えがたい状態に陥った。マンネルハイムは三月九日に至って和議を求める意向に傾きスウェーデン首相ハンソンも切々フィンランドに停戦を勧告し、ソ連が考えている平和条件についてもフィンランドに通告することを怠らなかった。よってフィンランドはやむなくモスコウに休戦を提議したけれども、この申入れはにべもなく拒否された。そこでフィンランド首相リチーは飛行機を駆って自らモスコウに乗り込み、和平の交渉を懇請し、三月十二日にソ連のいうとおりの条件に従ってついに平和条約に調印することとなった。これによって、カレリア半島の国境は、西北方へ七十マイル後退(住民五十万は移住)し、重要都市ヴイボルグまで割譲することになった。

フィンランド大統領キヨスチ・カリオは条約に署名した刹那に「これに調印を余儀なくされた私の手よ、永えに萎えよ」と悲痛な言葉を吐いた。

ソ連とフィンランドの戦争が始まると、ソヴィエトは多年モスコウのコミンテルンで働いていたフィンランド人クーシネンを押立ててフィンランド政府と称するものを組織したが、もとよりフィンランドの国民に対して何の威力をも振い得るわけはなかった。そして戦闘の休止とともにはかなく姿を消してしまった。

一方、一九三九年十二月十四日、ジュネーヴの国際連盟はソヴィエトを侵略国であると決定し、広く世界に対してフィンランドに援助を与えることを訴えた。そしてソ連は連盟の理事会を脱退することとなった。これは国際連盟が大国に対して重い刑罰を試みた一つの例であったが、その効果は何人も予想したとおり名義上のもので実質的でありえなかった。
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「存在」と「時間」の関係 通俗的な時間の発生

『ハイデガー哲学入門--『存在と時間』を読む』より 「存在」と「時間」はどういう関係なのか?

「ひと」の「時刻化可能性」と公共化された「時間」

 自己自身と自己が「世界」の中で遭遇する他の存在者に気遣いしながら実存する現存在にとっての「時間性」に注目するハイデガーの議論は、実存論としてはそれなりの説得力があるが、やはり、私たちが普段「時間」と呼んでいるもの、時計によって客観的に表示され、私たちの感じ方や実践と関係なく淡々と流れていく時間と、かなりかけ離れているように思える。ハイデガーに言わせると、そうした「通俗的時間概念 der vulgare Zeitbegriff」は、「根源的時間 ursprungliche Zeit」=「時間性」が「水平化 nivellieren」されることによって派生するのである。通俗的(馨観的已時間から、私たちが気遣いの中で経験する「時間性」が派生するのではないのである。

 では、その「水平化」はどのようにして起こってくるのか? 例によって、ハイデガーは「世界内存在」としての現存在の「ひと」としての日常的な在り方に注意を向ける。「ひと」として他の現存在と共に生きている私たちは、自分自身のことや、他の存在者のことをー自分と同じように「ひと」として生きている他の現存在に理解可能な仕方でー絶えず語っている。その際に、これから起こるはずのことを予期し、それに対する備えをしたり、現在の状況を把握したり、過去に犯した過ちを取り返そうとする配慮的な気遣いを示す、「そうなったら dann」「そのまえには zuvor」「いまは jetzt」「あのときには damals」といった言葉を発する。これらは、こうした言表によって、それぞれの存在者、あるいは出来事が属する時間的な地平が決まり、かつ、時系列的に関係付けられる。ハイデガーはこうした時開化の様態に即して、諸事物の関連構造が分節化され得ることを、「時刻化可能性 Datierbarkeit」と呼ぶ。元になっている動詞〈datieren〉は、手紙や日記などに日付を書き込むという意味であり、自分の実存に関わる出来事に、前後関係が分かるよう印を刻み込むというような意味合いだと理解すればいいだろう。ハイデガーは、こうした時刻化可能性は、時間性が脱自的統一体であることを反映している、と言う。つまり、現存在にとっての時間性がもともと、[未来-現在-過去]の統一体であるので、それぞれの時間性の様態に従っての言表が、一つの構造の中で関連付けられることが可能になるわけである。

 無論、「現存在」が単独で存在しているのだったら、「そうなったら」とか「いまは」といった言葉は、その時々の自分の関心を方向付けるために使われた後、そのまま記憶が薄れると共に消えていくか、あるいは、そもそも明確に言語化されて語り出されることさえないかもしれない。しかし、私たちは共同存在であり、日常的に「公共的な平均的理解可能性 eine offentliche, durchschnittliche Verstandlichkeit」の内に身を置いている。公共空間では、お互いに同じ「いま」や「そのとき」に言及していることが相互に確認できるよう、共通の時刻化のルールができあがっている。それが一般的に、「時間」と呼ばれるものである。

 公共化された「時間」に即して、「ひと」としての私たちは自分や他者の行為や出来事を理解する。例えば、「○○年▽▽月の◇◇時口口分にXということがあったので、私はその●●時間後にYをした」というような形で。このように公共的な「時間」によって時刻化する形で言表すれば、同じく「ひと」である他者も、自分自身がそれと同じ時点でやっていたことや経験したこと、その時期の世間の関心、社会情勢などと、関係付けて把握することができる。また、公共的に共有可能な時系列的な記述を辿っていくことによって、相手の行為を、追体験する(つもりになる)こともできる。更に言えば、公共的時間は、その社会において、「ひと」が起床し、職場や学校に出かけ、昼の休憩を取り、帰宅する標準的な時点を示しているので、それが各人の行動の指針になる。だからこそ、「私は△△時にPという場所でZという行為をした」という他者の言明に対して、それはどく自然だとか、いや普通そんな時刻にそんなことをする人はいない、といった判断をすることができる。そうやって、公共的時間に合わせて、日常的に振る舞っている内に、「時間」というのは、自分自身の気遣いから生じる実存的構造に由来するものではなく、客観的に与えられるものであるという感覚が支配的になる。

ヘーゲルの「精神と時間」への言及

 『存在と時間』は、ヘーゲルにおける「精神と時間」をかなり詳細に論じた後、それまでの議論をまとめた短い一節(第八三節)で終わっている。「歴史」と「哲学」の関係を掘り下げて論じたことでは、ハイデガーの先駆者とも言うべきヘーゲルを、ハイデガーが「時間性-時間」論という側面からどう見ていたかというのは興味深いテーマであるが、それを解説するのは、入門書の範囲を超えることなので、別の機会に取っておこう。『存在と時間』の最後の数文を引用して、ひとまず、この入門書の本論を締め括ることにしたい。

  現存在の全体性が有する実存論的-存在論的体制は、時間性にもとづいている。それゆえ脱自的な時間性そのものにぞくする、或る根源的な時開化の様式が、存在一般の脱自的な投企を可能にするものであるはずである。時間性がこのばあい時間化する様態は、どのように解釈されるべきなのか。根源的時間から、存在の意味へとつうじるひとつのみちすじがあるのだろうか。時間そのものが、存在の地平としてあらわになるのであろうか。(前掲書、四六四頁)
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「存在」と「時間」の関係 時間性と歴史性

『ハイデガー哲学入門--『存在と時間』を読む』より 「存在」と「時間」はどういう関係なのか?

「歴史」は現存在にとって「生起」である

 脱自態としての時間をめぐる議論を見る限り、ハイデガーは時間をかなり個人主義的・主観的に捉えているという印象を受けるが、必ずしもそうではない。彼は、個人の時間経験の基盤になる「歴史」についても独自の視点から分析を加えている。当然のことながら、彼は通常の歴史学のように、「歴史」を記録に残された様々な出来事の集積と見なして、それらを相互に関係付けたり、そこから歴史の発展法則のようなものを導き出したりするわけではない。彼は「歴史性 Geschichtlichkeit」を、先に見た、脱自態としての「時間性」という視点から理解することを試みる。「歴史性」は、実存論的意味を持っているのである。

 彼は先ず、「歴史 Geschichte」という言葉には主として、①過ぎ去ったものであるにもかかわらず、現在でもなお作用を及ぼしているもの、②過去からの由来、③時間の中で変移する存在者の全体、特に、人間の集団とその文化の変移や運命、④伝承されてきたものーという四つの意味があることを指摘する。これら四つの意義は、主体である人間に関係するという意味で、相互に密接に関連している。「歴史」は、実存する現存在にとって、時間の中で特殊な仕方で生じ、過ぎ去っていながら、伝承され、作用し続ける(生起 Geschehen」である、という。〈Gescehen)という言葉は、綴りから分かるように、語源的に〈Geschichte〉と繋がっている。〈Geschichte)は、〈Geschehen)の動詞形である〈Geschehen(生じる、起きる)〉と同系統の言葉であり、「生じたこと」「出来事」というのが原義である。

 では、「現存在」と「歴史」を構成する「生起」は、どのように関係しているのだろうか。ハイデガーは、「現存在」は、単に時々気が向いた時に「歴史」に関わるのではなく、不可避的に「歴史性」を帯びて実存していることを示唆する。彼はこのことを、現存在が「世界内存在」であり、何らかの「世界」の中で他者だちと共に実存していることと、結び付けて論じていく。

  さしあたりたいていは、自己は〈ひと〉のうちへと失われているのである。自己がじぶんを理解するのは、現存在が解釈されたありかたにおいて「流通している」実存可能性からである。当の解釈されたありかたとは、そのときどきに今日的で、「平均的」に公共的なそれにほかならない。たいていの場合そうした実存可能性はあいまいさによって見わけ難くされているとはいえ、それでも熟知されているものなのである。本来的な実存的理解は、この解釈された受けつがれているありかたから退くどころか、かえってそのありかたにもとづき、またそれに抗しながらも、やはりふたたびそうした解釈されたありかたのために選ばれた可能性を、決意にあって掴みとる。(前掲書、二五五頁)

 ここでハイデガーは、本来性を覆い隠しているものとしてこれまでどちらかというとネガティヴなトーンで描いてきた「ひと」の日常的な在り方の中に、「歴史」の実存論的な意味を読み込もうとしている。「ひと」としての私たちは、曖昧な感覚によりながらも、公共的世界の中で受け継がれてきた、平均的な「ひと」の在り方に基づいて、自らの「実存可能性」を選択している。別の言い方をすると、私たちは、社会の中で長年にわたって継承され、それゆえに支配的になっている、生き方のモデルに何となく従って、自己形成している。そこに、「歴史性」が潜在的に作用しているわけである。

現存在の「命運」と他者との「歴運」

 ハイデガー自身はむしろ、本来的に決意して、歴史的に伝承されてきたものの中から自らの実存の可能性を選ぶのであれば、その可能性は「現存在」にとってもはや「偶然的 zufallig」ものではなく、一義的(必然的)なものになる、という言い方をしているが、それはあくまでも、その「現存在」自身の視点に立った見方である。第三者的に見れば、その「現存在」が、自らの選択によって偶然を自らの必然として引き受けた、ということになるだろう。このように、現存在の自発的な引き受けによって必然性の様相を呈するに至った〝伝承された諸事実〟の総体を、ハイデガーは「命運Schicksal」と呼ぶ。「現存在はみずからを伝承する決意性のうちで命運的に実存する」(前掲書、二五八頁)。この場合の「命運」というのは、予言や神託のようなものによって、その行く末が予め決まっているというような神話的あるいは迷信的な話ではなく、実存として進んで行くべき方向性が定まっており、これまでその人の身に起とった、あるいはとれから起とるであろう様々な出来事が、それ(命運)との関係で意味付けられるということである。

 例えば、与えられた社会環境の中で、自分に何ができるのか、何をやりたいのか、何になりたいのか見当もつかない人、自分の存在目的が見出せない人にとっては、自分の周囲に起こる様々なことは相互に脈絡もない、ただの偶然の集積としか感じられないだろう。しかし、ある時、その人が小説家になるのが自分の定めだと感じ、その「命運」を完全に引き受けると、これまでのあらゆる経験、これから遭遇するあらゆることを、その「命運」と関連付けて理解することができるようになる。彼の生涯に生じた全てのことは、彼の作品の素材や、創作への刺激となりうる。小説家、評論家、哲学者、芸術家のような職業を選択する場合、「決意性」と「命運」の関係が分かりやすいが、他の生き方でも、それ固有の仕方で、「決意」を通して、その現存在が「実存」として歩んできた「命運」が鮮明になる、ということがあり得るだろう。

 当然、各人の「命運」は、相互に独立なものではない。同じ歴史的伝統の中に共同存在として実存している現存在たちの「命運」には共通の部分がある。というより、他者の「命運」との関係抜きで、私の「命運」を考えることはできない。ハイデガーは、それを「歴運 Geschick」と呼ぶ。

  歴運によって私たちがしるしづけるのは、共同体の、つまり民族の生起なのである。歴運は個々の命運からは合成されない。それは、共同相互存在が複数の主体がともに現前することとしては把握されないのと同様である。同一の世界のうちで互いに共に存在することにあって、また特定の可能性に向かって決意していることにおいて、命運のさまざまはあらかじめすでにみちびかれている。伝達と闘争のうちで、歴運の力ははじめて自由となる。みずからの「世代」のうちでの、またそれと共に在る現存在には命運的な歴運がある。その歴運が、現存在のかんぜんな本来的生起をかたちづくるのである。(前掲書、二六〇頁:一部改訳)
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