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若者は社会に希望を持てないのか

『日本の若者はなぜ希望を持てないのか』より

大きな問題は、政治的リテラシーの欠如

 『若者調査』には、政治に対する関心についての質問がある。図表6‐2はその結果を示したものである。7カ国の中で「非常に関心がある」と「どちらかといえば関心がある」を合わせた、前向きな回答の割合が最も高いのはドイツ(70%)で、最も低いのはスウェーデン(48%)である。日本は「非常に関心がある」者の割合がわずか10%と7カ国中で最も低いが、「どちらかといえば関心がある」者の割合が44%で両者を合わせた割合はスウェーデンを上回り、フランスと並んで7カ国中の5番目である。まだ低い方ではあるが、それほど滅茶苦茶に低いというわけではない。

 しかし日本人の間では、日本人、とりわけ若者たちは政治的関心が低いと思われている。当の若者たちに聞いても、そう思っている者がとても多い。それはなぜかというと、選挙における投票率が低いからである。たとえば衆議院議員選挙における投票率を見ると、政権交代で盛り上がった2009年ですら全体の投票率は69・3%と7割にも達せず、2014年の選挙に至っては52・7%にまで低落している。その中でも20歳代の若者の投票率は32・6%と、3人に一人も投票していないのである。

 なぜ政治に関心があるのに投票に行かないのか。普段接している大学生だちから聞かれる回答として最も多いのは「誰に投票していいかわからないから」だ。

 これに対して「ちゃんと新聞を読みなさい」とか「ちゃんとテレビでニュースを見なさい」と説教をするのは筋違いである。先に述べたように、彼らは新聞やテレビ以外の手段で、かなり多くの情報に接しているし、社会や政治に対する関心も持っている。彼らにとって決定的に深刻な問題は、そうした情報や関心を政治的に読み解く能力、いわば政治的リテラシーが欠けていることなのだ。

 たとえば政治的リテラシーのイロハに「右」「左」という概念がある。しかし、日本の若者の多くはそれすらよく理解していない。「右」といえば街宣車で軍艦マーチを流している怖い人々、「左」といえば昔テロやハイジャックを起こした怖い人々といった感じの認識しかない。高校の「現代社会」や「政治経済」の授業では、政党の名前を暗記させられるかもしれないが、今の政党がどのような考えのもとで何を主張しているのかを、授業として教えることはない。端的に言ってしまえば、そんな問題は大学受験で出題されないからだ。政治について家族や友人が語らず、学校でも教えてくれなければ、よほど自発的に興味を持って学ぼうとしない限り、政治的リテラシーが身に付くわけがない。

 そんな日本の対極にあるのはスウェーデンである。先の結果に表れているように、政治に強い関心を持っている人は確かにいるが、そうした人々を除けば、政治に関心があるかと聞かれて、あると答えるスウェーデン人はそれほど多くない。

 ところが彼らの投票率は、先進国の中でも非常に高い。スウェーデンでも2014年に選挙が行われたが、その投票率は全体で85・8%、そして18歳~29歳では81・3%と、日本とは比較にならないほど高いのである。

 結局、スウェーデンでは政治に特に関心がないという人々でも、どの党がどのような特徴を持っているのか、その党に投票すると、どのような政治が行われる可能性があるのかを想像できるだけの政治リテラシーを持っているのが普通なのである。それは学校における教育の成果でもあり、家族と政治の話をして、感覚を身に付けるからでもある。

 さらにスウェーデンの場合は、一院制の上に途中解散がほとんどなく、国・県・市が同時に選挙を行うので、選挙は4年に1回というのが通例となっている。つまりスウェーデン人にとって選挙はオリンピックみたいなものである。日本のように、衆議院と参議院がある上に衆議院でしばしば途中解散が起こり、さらに都道府県知事、都道府県議会、市町村長、市町村議会の選挙が、極端な場合は全てバラバラに実施されるがゆえに、毎年のように選挙をやっているのとは、事情が違う。

 どの党、どの候補者に投票していいかわからないのに、次々と選挙がやってくる状況では、多くの有権者が思考停止に陥るのも無理はないと思う。そして日本の政治家たちは、このような状況に、実にうまく適応してきた。すなわち、投票率が低いので、ある程度自分たちの支持者を固めておきさえすれば、選挙に勝てるのだ。かつて「(無党派層は)寝ていてくれればいい」と選挙前に発言した総理大臣がいたが、あれが多くの政治家の本心だろう。

「何も変えられない」絶望感

 それでは、日本の若者は自国の政治に対して不満を持っているかというと、どうやらそうでもないらしい。図表は『若者調査』の「どのようなことが自国の社会で問題か」という質問(複数回答)において「よい政治が行なわれていない」という選択肢を選んだ者の割合を示したものであるが、日本は39%と7カ国中のちょうど真ん中だ。イギリス、スウェーデン、ドイツよりは多いが、アメリカ、フランス、韓国の若者よりも、政治に対する不満は少ないのであ

 しかも政治に対する不満の有無によって、将来についての希望の持ち方にどのくらいの差があるかを調べてみたが、日本の若者については、何ら有意な相関関係が認められなかった。このことは「たとえ政治に不満があっても、希望を持っている」とも、「たとえ政治に不満がなくても、あまり希望を持っていない」とも解釈することができるが、日本では希望を持っている若者が少ないということを考慮すれば、後者の解釈の方が、妥当性がより高いと言えよう。

 先の政治的リテラシーの議論と照らし合わせれば、おそらく、「よい政治が行なわれていない」を選ぶ若者が日本に少ないのは、彼らが「よい政治が行なわれている」と思っているから、というよりも、そもそもどういう政治が行われているかをわかっていない、ということではないだろうか。

 『若者調査』には、「私の参加により、変えてほしい社会現象が少し変えられるかもしれない」という意見についてどのように考えるか、という質問がある。図表がその結果であるが、やはり日本は「そう思う」「どちらかといえばそう思う」という回答が7カ国中で最も少なかった。「どちらかといえばそう思わない」と「そう思わない」を合わせた割合は63%にまで達している。他の国々も、前向きに考えている若者ばかりではないが、後ろ向きの回答が半数を超えているのは日本と韓国のみであり、とりわけ日本は目立っている。

 そして図表6‐5に示すように、日本では、この回答の結果と総合的希望の有無との間に、他の国々をはるかに上回る強い相関関係が認められる。日本では、自分の参加によって社会が少しでも変えられると思っている若者と、そうは思っていない若者との間で、希望の持ち方に大きなギャップがある。前者の希望度がずっと高いのである。したがって、若者の政治的リテラシーを向上させて、自分の参加が社会を変えていけるのだと思えるようにし、その無力感を解消することは、彼らの社会への関心の高まりに応えることでもあるし、また彼らの将来についての希望を高めることにもなるはずである。
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若者は仕事に希望を持てないのか

『日本の若者はなぜ希望を持てないのか』より

7カ国中第1位、なぜ日本では専業主婦の希望度が高いのか

 先の就業状況別に見た希望度でいまひとつ気になるのは、フルタイムにせよパートタイムにせよ、働いている若者の中で希望を持っている者の割合よりも、専業主婦(カテゴリーは専業主婦・主夫であるが、男性の回答者がいなかったので「・主夫」を除く)の中で希望を持っている者の割合の方が高いことである。これは一体、どういうことだろうか。

 1つ考えられるのは金銭的な不安が解消もしくは軽減されたという可能性である。第2章で明らかにしたように、金銭的な不安は希望度を押し下げる傾向がある。金銭的な不安があれば結婚しても働くはずであり、専業主婦にはならないと考えれば、専業主婦をしている人たちは働かなくてもいい人々、つまり金銭的な不安がなく、ゆえに希望度が高い人々ということになるのかもしれない。

 ところが、実際に調べてみるとどうもそうではないようだ。フルタイムで働いている日本の若者のうち、お金のことが「心配」という回答の割合は44%、「どちらかといえば心配」を合わせると79%であったが、専業主婦については、「心配」が59%で、「どちらかといえば心配」を合わせると86%と、実は専業主婦の方が金銭的な不安度は高い。女性が専業主婦をしている家庭が、必ずしもお金に困っていないわけではないのだ。

 専業主婦の希望度が高い理由として次に考えられるのは、結婚の効果である。第3章で見たように、結婚・事実婚をしている若者は、そうでない若者よりも希望を持っている可能性が高い。『若者調査』によると、日本においてフルタイムで働く若者のうち結婚・事実婚をしているのはわずか21%、パートタイムでも28%にとどまっているので、結局はこの差が全体としての希望度の差に表れているといえそうである。

 それでは、このような現象は日本に特有のものなのか。第3章で明らかにしたように、パートナーの有無が希望の持ち方に与える影響は日本においてとりわけ高いが、イギリス、韓国、スウェーデンについても、統計的に有意な影響が認められる。それでは、これらの国々においても専業主婦・主夫の希望度は、働いている者に比べて高いのであろうか。

 図表は、専業主婦・主夫とフルタイム就業者の間で、将来に希望を持っている者の割合にどのくらいの差があるかを、国ごとに算出したものである。これによると、専業主婦の希望度がフルタイム就業者を上回っているのは日本のみである。同じ東アジア文化圏の韓国においては、専業主婦(韓国の回答者も全て女性であった)の希望度がフルタイム就業者を下回ってはいないが、上回ってもいない。さらにフランスとスウェーデンにおいては、日本とは対照的に専業主婦・主夫の希望度が著しく低いのである。

 特にスウェーデンでは、パートナーの存在が希望度を上げているにもかかわらず、それを全く帳消しにするほど、専業主婦・主夫の希望度が低い。スウェーデンも、かつて1960年代までは男性が仕事をし、女性が家を守るというスタイルが一般的であったが、1970年代から1980年代にかけて急速に意識と制度の改革が進み、今では男女ともにフルタイムの正社員として働くことがごく当たり前となっている。

 日本では、働かずに育児と家事に専念することがライフコースにおける積極的な選択肢の1つとして認められているが、スウェーデンで専業主婦や主夫になるというのは、様々な事情で働けない、もしくは仕事が見つからなかった結果として、仕方なくそうしていることが多いようだ。スウェーデンで暮らしていた時に、スウェーデン人の男性と結婚してやってきた日本人の女性から、パートナーから働いてほしいというプレッシャーがかかっているが、スウェーデン語が十分話せないためになかなか職が得られないので困っているという悩みをよく聞いたものだ。

 日本のアニメが好きなスウェーデンの女子大生から、「私もサザエさんやのび太のママみたいに働かないでずっと家にいたいです」と冗談交じりに言われたことがあるが、彼女たちは本気でそう思ってはいない。逆に日本では、大学を卒業したらまずは働きたいけれども、もし経済力のある男性と結婚できたら、仕事をやめて専業主婦になりたいです、と真剣に語る女子大生が少なくない。

 つまり、ものすごく単純化していえば、スウェーデンでは「働けないから専業主婦・主夫になる」という流れになっているのに対して、日本では「専業主婦・主夫になれないから働く」という流れになっている。そして、これが両国における専業主婦・主夫の希望度の差に表れているのである。

 そういえば、2015年4月に放映された「サザエさん」のアニメで、サザエさんがスーパーのパートタイマーとして働きに出たことが一部で話題となった。専業主婦のシンボルであったサザエさんが働きに出るというストーリーはどうやら初めてだったらしいが、結局「夕ラちゃんが寂しがっている」という理由ですぐに辞めてしまったというオチであったとのことこれをスウェーデン人が見たら何と言うだろうかと、ふと考えてしまった。

どの国よりも長い日本の失業期間

 リーマンショック以降、景気の低迷が続いているヨーロッパ諸国における大きな悩みの種の1つが、若者の失業である。OECDの統計によれば、ギリシャにおける2013年時点の15歳から24歳の若者の失業率は、なんと58・3%。若者の半数以上が失業しているという異常な事態である。『若者調査』の対象国においても、イギリス、フランス、スウェーデンでは20%を超えている。ヨーロッパで最も若者の失業率が低いのはドイツであるが、それでも7・9%である。これに対して日本は6・9%と、OECD加盟34カ国中で最も低い。失業率の定義は国によって異なる場合があるので、単純な比較には注意が必要だが、それでも注目すべき点である。

 日本の若者の失業率が低いのは、そもそも全体の失業率が低い(2013年時点で4・O%)こともあるが、新卒一括採用制度によるところも大きい。先に述べたように、新卒一括採用制度では就業経験や高度な専門性が問われないので、高校や大学を卒業したばかりの若者が就職しやすい制度になっている。ヨーロッパの多くの国々の若者のように、就業経験がないから採用されない↓採用されないから就業経験を積めない、という悪循環にはまらなくて済むのである。ちなみにドイツの場合は、中等教育以降において充実した職業訓練を実施することで、この問題を解決している。

 ただし新卒一括採用制度は深刻な問題も生み出している。それは長期失業である。在学中の就職活動がうまくいかなかった、あるいは新卒で就職したけれども辞めてしまった、などの理由で「新卒」の扱いを受けられなくなってしまうと、次の就職先を見つけるのがとても難しくなる。結局、企業が「新卒」枠を設けて新卒者を優遇するので、その枠に当てはまらない者は、それだけ不利な状況に置かれてしまうということだからだ。

 実際、日本の若者(15~24歳、2013年)の失業者について、失業している期間の長さ別の割合を示すと、図表のようになる。他の多くの国々では「1ヵ月未満」や「1ヵ月以上3ヵ月未満」の割合が多い、つまり3ヵ月以内に職を探して失業状態から抜ける者が多いのに対して、日本では「1年以上」が32・4%、つまり若者の失業者の約3人にI人が1年以上職探しをしているという状況なのである。『若者調査』の対象国の中で、長期失業者の割合がこれほど高いのは日本だけなのである。

 このことが、失業している日本の若者の希望の持ち方にどのような影響を与えるのかについて考えてみよう。むろん、働いている人よりも職を失った人の方が、将来への希望が持ちにくくなるというのは、日本だけでなく他の国々であっても変わらない。

 しかし、職を失っても比較的早く次の職が見つかる国よりも、職を失ったらなかなか次の職が得られない国の方が、若者が希望を持ちにくくなるに違いない。このことを証明すべく、失業中の若者と、フルタイムもしくはパートタイムで就業中の若者との間の希望度の差(失業者の希望度から就業者の希望度を引いた数値)を算出し、それを国際比較したのが図表である。

 これによると、日本において失業が希望に与える負のインパクトは、やはり諸外国に比べて大きい。日本に次いでインパクトが大きいのはドイツであるが、ドイツもまた、日本ほどではないものの、長期失業者の割合が23・2%と高い。日本もドイツも、システムの違いはあるものの、ともに失業率を比較的低く抑え、雇用の安定に成功している。おそらくそれゆえに、そのシステムに乗れなかった、あるいはそのシステムから外れてしまった者は再び戻るのが難しく、しかも「周りはうまくいっているのに、自分だけ……」という劣等感に苛まれることになるのだろう。

 これら日本やドイツと対照的なのは韓国である。韓国でも失業中の若者の方が働いている者よりも希望度が低い。しかしその差は、統計的な有意と認められないほど小さい。韓国の失業率は日本やドイツよりも高いが、若者の失業者のうち3ヵ月未満の者が74・O%と大半で、1年以上の長期失業者の割合は、わずかO・2%に過ぎない。つまり韓国では、日本やドイツよりも簡単にクビを切られるが、次の職を見つけるのも日本よりずっと簡単であり、失業がことさらに希望度を低下させることがないのである。
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豊田市図書館の8冊

なにげなく、アーレント。ヤスパース往復書簡だけ借りるつもりだったのに

311.23『ハンナ・アーレント』<生>は一つのナラティヴである

311.23『ハンナ・アーレント』生誕100年、混迷の原題を撃つ

311.23『ハンナ・アーレント講義』⇒去年、借りている

209.74『第二次世界大戦外交史(上)』

114『人間の条件』

311.23『今こそアーレントを読み直す』

913.7『立川談志まくらコレクション』夜明けを待つべし

134.9『アーレント=ヤスパース往復書簡1』1926-1969
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マリのコーラン学校 イスラームと地域の基盤

『マリを知るための58章』より

人口の8割以上がムスリムのマリでは、コーラン学校は身近な存在だ。マリでもっとも大規模でもっとも有名なコーラン学校は、16世紀頃にトンブクトゥに設立されたサンコーレ大学であろう。大モスクに併設されたこの学校では、コーランの読み書きや解釈だけでなく、地理、歴史、アラビア語文法、薬学、天体学など、様々な分野が学ばれていた。この頃から19世紀初頭にかけて、トンブクトゥやジェンネ、ガオ、ハムダライなど、政治・宗教の中心的都市では、数多くのコーラン学校が開設された。19世紀末から一帯を支配下に置いたフランス植民地政府は、イスラームの実践や連帯が反植民地運動に繋がることを懸念していた。その一方で、文字の読み書きができるコーラン学校の教師や修了者は、しばしば「コミュニケーションがとりやすい現地人」として重宝され、住民と植民地政府の仲介役を担うこともあった。

500年以上のコーラン学校の歴史があるものの、現在のようにマリ全国であまねくコーラン学校が見られるようになったのは、ムスリムの割合が増加した20世紀に入ってからだと言われている。2013年のマリ教育省の発表によると、国内のコーラン学校は3658校、教師は4652人、生徒はおよそ11万人。もっとも多くコーラン学校に通うのは子供たちだ。5~14歳の人口はおよそ220万人なので、単純計算するとマリの子供の20人に1人がコーラン学校に通っていることになる。このコーラン学校数はあくまで公式のもので、実際の数はより大きいと考えられる。マリで「コーラン学校」と総称される場は、様々な規模や形態があるからだ。たとえば、子供が時間のあるときに親戚のおじさんの家へ行き、そこでコーランの読み書きを学ぶ場合もある。農業や漁業のかたわら教えているため届け出てはいないものの、継続的に一定の生徒数をかかえる者もいる。一生をかけて各地の高名な教師を何人も渡り歩く遊学者もいる。

マリのコーラン学校には、大きく分けて基礎と高等の二つのレべルがある。ひとつは、主に6、7歳から10代半ばの子供たちがコーランの読み書きを学ぶ基礎学校である。現在40代かそれ以上の年齢の人に尋ねると、彼らの親たちは、子供たちをいわゆる普通の(公用語のフランス語で複数科目を教える)学校に通わせるよりも、基礎コーラン学校に通わせることを好んだという。1990年代に入りマリ政府が学校教育の安定を緊急かつ重要な課題として以降は、どちらか一方ではなく、小・中学校に通いつつコーラン学校でも学ぶ、という形が好まれている。学校から家へ帰ってバタバタと軽食を済ませ、友達と連れだってコーラン学校へ向かう子供たちの様子は、塾や習い事に忙しい日本の子供の姿と重なる。

基礎的なコーラン学校は、修了までに4~7年ていどかかるという。私は以前、マリの中でもコーラン学校が多い宗教都市ジェンネで暮らしていた。アラビア語が読めない私は、しばしば子供たちから「コーラン学校自慢」を受けた。子供たちが得意げにコーランの一節をアラビア語で書いてみせ、声をそろえて読み上げるのだ。その文言はどういう意味かと尋ねると、子どもたちは一転してきまりの悪そうな表情になり、「まだ教わってないの」「大きくなったら習うの」と言いながら散っていく。基礎の段階では、コーランをアラビア語で正しく読む・書く・詠むことに重点が置かれるので、とりわけ小さな子供は、必ずしも文言の意味を理解していないのだ。

基礎コーラン学校から高等コーラン学校に進む子供はそれほど多くない。生徒の年齢も幅広い。将来コーラン学校の教師になりたい少年、すでに子供たちにコーランの読み書きを教えている大人、教師よりも年上の老年の生徒もいる。生涯勉強というわけだ。ここでは、コーランの解釈講義や預言者ムハンマドの言行録の講読などを通じた、イスラームにまつわる深い知識と理解が探求される。

ここで、ジェンネのある基礎コーラン学校の様子をのぞいてみよう。教師の家の10畳ほどの玄関間が教室として使われる。固い土間になっている他の部屋と異なり、ここには細かい砂が柔らかく敷き詰めてある。直に座っても痛くないように工夫されているのだ。20人ほどの小さな子供がくっつき合って賑々しく座っている。教師も同じように砂の上に座り、生徒を指導していく。今日は50歳の教師と40代の弟の2人態勢だ。高等コーラン学校ではコーランや書物も用いるが、基礎コーラン学校の教材は、教師の頭の中に入っているコーランと生徒の木板と竹ペンのみである。生徒が練習帳として用いる20センチ×40センチくらいの木板は、表面を滑らかにしてあるのでインクで書いても水で洗い流してまた書ける。教師は一人ひとりの進度に合わせて、木板にお手本を書いたり、正確に読めているか確認したり、おしゃべりばかりしている子供を自分の隣に移動させたりと慌ただしい。自宅の玄関間で開講しているため時々夕飯の買い出しに行く奥さんが通り過ぎたり、父親と遊びたい赤ちゃんが教師の膝の上に這ってきたりする。なんともゆるやかでアットホームな雰囲気だが、教師の熱心さとアッラーヘの愛情は真摯だ。教師が木板のインクを洗い流した水を甕に移し替えている。なぜそのようにするのか尋ねると、「アッラーの言葉を流した大事な水だからね」と教えてくれた。

今日は水曜日。コーラン学校の多くは木曜日が休校日なので、前休日にあたる。この日の帰り際、子供たちが教師にちょこんと頭を下げながら小銭を手渡していく。親から託されてきた一週間分の「授業料」だ。とはいっても、コーラン学校の教師は自発的にコーランの読み書きを教えているので、授業料の徴収はおこなわない。決まった金額も支払いの義務もない。子供たちが渡すのは授業への対価ではなく、あくまでお礼の表れだ。その小銭を見ていると、日本円にして50円や100円ていど。生徒数や現地の物価を考えても、決して大きい金額ではない。これだけで生活するのは容易ではなく、多くのコーラン学校の教師が畑を耕したり牧畜をしたりして生計を立てている。

マリではたびたび、「カラモゴ」や「アルファ」という通称や尊称で呼ばれる人を見かける。カラモゴもアルファも、それぞれバマナン語とソンガイ語で「先生」という意味だ。人々はコーラン学校の教師を、敬意と親しみをもってこう呼ぶ。教師をしていなくても、物知りで落ち着いた人物が家族や仲間からこうあだ名されることもある。自分がお世話になったカラモゴと同じ名前を子供につける親も多い。コーラン学校は単にコーランについての知識を身につける場だけでなく、地域教育の基盤のひとつであり、世代や民族を超えた紐帯となっている。


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日曜日はOCR化

日曜日はOCR化

 ほとんどの時間をOCR化に費やしています。何しろ、15冊もターゲットにしたから、大変です。まあ、それだけ、未唯空間の範囲が拡がったということですね。

 『フロイト入門』『デカルト的省察』『ハイデガー哲学入門』はそろい踏みですね。本当にしんどいです。すべて、自分の中の「存在と無」から見ていきます。あまり、「哲学する」ことにしたくはない。

『日本の若者はなぜ希望を持てないのか』

 『日本の若者はなぜ希望を持てないのか』は家庭の変革を若者から行うためのヒントにします。ベースは池田晶子さんの家族観です。子どもは親とは関係ない存在である。

 仕事と若者も大きな課題です。仕事そのものを考えることなく、「生活」の為に、就職活動を行っている。自らの鎖を求めている。循環で考えると、就職から見直していくことになる。それにしても、テーマが矛盾している。「雇用形態と希望度が強くリンク」「日本では専業主婦の希望度が高い」「長い日本の失業期間」「転職しにくい日本の現状」「職場への満足度が最下位」

 社会との関係についてもおかしなことになっている。「社会に関心を持つ若者は増加」「政治的リテラシーが欠如」「何も変えられない絶望感」「愛国心の強さ」。これらは方向がつかめないと言っているだけ。あまりにも、日本にとらわれ過ぎ。

『「超」情報革命が日本経済再生の切り札位なる』

 『「超」情報革命が日本経済再生の切り札位なる』はシェア社会への動きを示しているが、肝心な主役のコミュニティが出てこない。あくまでも、仕事の形態として述べているだけ。コミュニティをベースにしない限り、雇用も地域も活用できない。資本主義での格差は亡くならない。

『世界帝王事典』

 『世界帝王事典』では、歴史の中心はヨーロッパではなく、中近東であることを示している。偶々、資本主義の押し付けで、西洋が最近、威張っているだけ。歴史の中心である、中近東から発想しないと、核が見えなくなる。


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