未唯への手紙
未唯への手紙
非連続な私を開始
Iさんへのメール
やはり、書けないですね。予定を聞くなんてことは。だから、前に考えた通りにしました。ダイアリーのことだけです。
Iさんは今日はイベントだから、勤務が終わるまで、メールを見ないでしょう。そんなことを考えるのが嫌なんです。だから、メールは嫌いです。
中々、メールが返ってこない。この待つ時間が本当にイヤなんです。中野の時は、待つのを諦めたのは、半年後でした。
今日、やったこと。明日に渡すこと。これを考えているときに、Iさんからのメールが入りました。ホッとする。案の定というか、やはりというか、ダイアリーのことだけが書かれていた。もう少し、思いを読んでもらいたかった。今週の予定を聞いているということを。
何か、動機を作って、メールをしましょう。
一万歩歩きましょう
寒くて、なかなか、布団から出れません、足は張っています。
何しろ、今日は一万歩だけは達成しましょう。とりあえず、今日は天気がいいから、歩きましょう。散歩ではなく、単に歩くだけです。決して、無理しない。天気がいいから、歩くだけです。そして、どこからでも引き返す。今日の自分には言い訳は必要ない。
とりあえず、モスまで来ました。まだ、1400歩です。豊田市に向けて、歩きだしました。よく、行っていたセブン‐イレブンがつぶれています。知らなかった。この店はコンビニになる前の個人商店の時から知っていました。ここでトイレを借りて、名古屋行へのバスに乗っていた。どうにか、一時間をもたせていた。
サークルKに焼き芋が出ています。190円です。袋に入っているので、当たりはずれが見えない。買った所、ハズレでした。細いったら、ありゃしない。次は文句を言いましょう。
歩いていけば、途中に在る上坂商店で五平餅を食べることもできます。それぐらいが丁度いいかもしれません。車だと、駐車場が狭すぎるので難しい。
非連続な私を開始
非連続になったはずなのに、何もできていません。やはり、これを考えに元町スタバへ行きましょうか。だけど、朝は通勤でクルマが混むからイヤです。歩くにしては遠すぎる。せめて、衣ヶ原までですね。
非連続をどのように自分に言い聞かせるか。今日しかないという実感。自分の書いた、今日の私へのスケジュールだけを見て、行動しましょう。
そうなると、今日の為に歩かないといけない。明日のためではない。
バスの生活への組み込み
豊田市まで、200円。名古屋まで800円。それだけの違いです。豊田市まで行くつもりで、名古屋までのバスに乗ることもできます。時間は片道一時間掛かるけど。
胸がさほど痛くない
血管の先までを拡げる薬のおかげか、いつもの所が痛くなりません。だから、豊田市まで歩いてしまった。40分以上かかったけど。
ダイアリーの新しい使い方
ダイアリーの新しい使い方を思いつきました、ということで、明日ぐらいに返信しようか。これもワザとらしい。
駅前スタバは平日でも混んでいる
駅前スタバは混み過ぎて、終日も午後はダメですね。落ち着かない。朝一番にしましょう。明日の私に、朝一番でスタバに車で行くように伝えましょう。
やはり、書けないですね。予定を聞くなんてことは。だから、前に考えた通りにしました。ダイアリーのことだけです。
Iさんは今日はイベントだから、勤務が終わるまで、メールを見ないでしょう。そんなことを考えるのが嫌なんです。だから、メールは嫌いです。
中々、メールが返ってこない。この待つ時間が本当にイヤなんです。中野の時は、待つのを諦めたのは、半年後でした。
今日、やったこと。明日に渡すこと。これを考えているときに、Iさんからのメールが入りました。ホッとする。案の定というか、やはりというか、ダイアリーのことだけが書かれていた。もう少し、思いを読んでもらいたかった。今週の予定を聞いているということを。
何か、動機を作って、メールをしましょう。
一万歩歩きましょう
寒くて、なかなか、布団から出れません、足は張っています。
何しろ、今日は一万歩だけは達成しましょう。とりあえず、今日は天気がいいから、歩きましょう。散歩ではなく、単に歩くだけです。決して、無理しない。天気がいいから、歩くだけです。そして、どこからでも引き返す。今日の自分には言い訳は必要ない。
とりあえず、モスまで来ました。まだ、1400歩です。豊田市に向けて、歩きだしました。よく、行っていたセブン‐イレブンがつぶれています。知らなかった。この店はコンビニになる前の個人商店の時から知っていました。ここでトイレを借りて、名古屋行へのバスに乗っていた。どうにか、一時間をもたせていた。
サークルKに焼き芋が出ています。190円です。袋に入っているので、当たりはずれが見えない。買った所、ハズレでした。細いったら、ありゃしない。次は文句を言いましょう。
歩いていけば、途中に在る上坂商店で五平餅を食べることもできます。それぐらいが丁度いいかもしれません。車だと、駐車場が狭すぎるので難しい。
非連続な私を開始
非連続になったはずなのに、何もできていません。やはり、これを考えに元町スタバへ行きましょうか。だけど、朝は通勤でクルマが混むからイヤです。歩くにしては遠すぎる。せめて、衣ヶ原までですね。
非連続をどのように自分に言い聞かせるか。今日しかないという実感。自分の書いた、今日の私へのスケジュールだけを見て、行動しましょう。
そうなると、今日の為に歩かないといけない。明日のためではない。
バスの生活への組み込み
豊田市まで、200円。名古屋まで800円。それだけの違いです。豊田市まで行くつもりで、名古屋までのバスに乗ることもできます。時間は片道一時間掛かるけど。
胸がさほど痛くない
血管の先までを拡げる薬のおかげか、いつもの所が痛くなりません。だから、豊田市まで歩いてしまった。40分以上かかったけど。
ダイアリーの新しい使い方
ダイアリーの新しい使い方を思いつきました、ということで、明日ぐらいに返信しようか。これもワザとらしい。
駅前スタバは平日でも混んでいる
駅前スタバは混み過ぎて、終日も午後はダメですね。落ち着かない。朝一番にしましょう。明日の私に、朝一番でスタバに車で行くように伝えましょう。
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オバマドクトリンの限界とアジア地政学
『地理学概論』より 民族・移民の地理 国境・民族紛争 ⇒ 地理学でこんなに詳細な記述があることにビックリした。
オバマ政権は、2011年5月ようやくパキスタンにおいて9.11同時多発テロ事件の首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンを、アメリカ海軍のNavy SEALSによって殺害することに成功した。だが、オバマドクトリンは、中央アジアやウクライナにも影響した。
1991年ソ連崩壊に伴って独立したウクライナは、常に親露派と親欧米派の戦いの「戦場」となっている。 2004年大統領選挙の混乱から「オレンジ革命」が起こり、親欧米派であるユシチェンコが2005年1月大統領に就任した。しかし、腐敗・経済停滞で、2010年の大統領選挙では、親露派ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナの大統領となった。2013年ヤヌコーヴィチ政権が、EUとの政治・貿易協定の調印を見送ったことで、親欧米派と野党勢力は、首都キエフで連日のように抗議集会をし、大規模な反政府運動へと発展していった。2014年2月、政府治安部隊と野党勢力が衝突し、死者が発生した。欧米諸国は反政府運動に賛同し、アメリカ現役国会議員ジョン・マケインのキエフ広場の応援演説が一層、反政府運動を盛り上げた。やがて、親露派ヤヌコーヴィチ大統領はロシアヘ逃走し、親露政権は崩壊した。これを受けて、親欧米派であるオレクサンドル・卜ゥルチノフ大統領代行政権が発足した。
親欧米派の暴力的な示威行為により、親露派のヤヌコーヴィチ政権が崩壊したことを受けて、2014年3月ロシア上院がクリミアヘ軍事介入を承認し、ウラディミール・プーチン大統領は、ウクライナ極右民主主義勢力からクリミア半島内のロシア系住民を保護する名目で本格的に軍事介入を行った。元々、クリミア半島は、旧ソ連時代(1954年)に、ウクライナを「ソビエト帝国」に編入するための「謝礼」として、ソビエトからウクライナヘ移管されたものであった。3月11日クリミアは独立を宣言し、ロシア連邦へ編入となった。欧米諸国はロシアのクリミア併合が国際法違反であり無効であると主張し、さらにロシアをG8から除外し、経済制裁に踏み込んだ。2014年5月に実施したウクライナ大統領選挙では、親欧米派ポロシェンコが勝利したが、親露派武装集団はウクライナ東部で未だ活発な活動をしている。ポロシェンコ政権は、ドネック、ルガンスクの東部2州の親露派武装集団を排除する軍事作戦を継続した。結果的には、欧米諸国の反政府勢力の支援・介入は裏面に出て、クリミア半島は再びロシア領土となった。
アメリカ発リーマンショックによる世界金融危機は、東アジア地域では、割と影響が少ないかにみえるが、実は多くの問題を抱えている。
まず、朝鮮半島の非核化を目的とする中国主導の6か国協議(アメリカ、ロシア、日本、北朝鮮、韓国、中国)は、2003年8月に第1回会合を開催し、 2005年9月19日に共同声明が発表された。この声明において、北朝鮮は全ての核兵器と今ある核計画を放棄し、核不拡散条約(NPT)に復帰し、国際原子力機関(IAEA)の査察の受け入れを約束した。北朝鮮の指導者金正日の健康問題は、2008年に脳卒中で倒れて以来、世界から注目されてきたが、2011日12月17日、突然の心筋梗塞のために死去した。しかも、韓国大統領李明博訪日の最中の出来事だったので、世界中のほとんどの国にその情報が知らされなかった。中国がいち早く「金王朝」の三代目国王である金正恩を「承認」したことで、金正恩の継承作業が無事に(アメリカにより転覆されることなく)終了した。しかし、2012年12月12日、北朝鮮はロケットを発射し、人工衛星を地球の周回軌道に乗せることに成功したと主張した。北朝鮮が開発するロケットは弾道ミサイル・核開発計画と表裏一体と見なしていた国連安全保障理事会は、かねてより発射しないよう要求していた状況における出来事であったため、2013年1月22日対北朝鮮制裁強化を全会一致で決議した。同年2月12日、北朝鮮は核実験を強行した。これは、3回目の核実験であった(1回目:2006年10月9日、2回目:2009年5月25日)。同年3月7日、国連安全保障理事会はさらなる対北制裁を決議した。しかし決議案が提出される直前の同年3月5日、北朝鮮は「休戦協定を白紙にする」と宣言しており、韓国への軍事侵略を示唆していた。決議後の3月9日には「安保理決議を全面排撃する」とし、11日には、「最高司令官が署名した作戦計画に基づいて全面決戦に突入した」と発表した。この最高司令官は金正恩第一書記である。いわゆる、金正恩最高司令官が宣戦布告したのである。
2007年8月、安倍晋三総理(第一次内閣)はインドを訪問し、「自由と繁栄の弧」を基礎として地政学的に壮大な構想を提示したが、短命に終わった。その後、日本の政治には不安定・短命な政権(福田、麻生、鳩山、菅、野田)が続き、その間、日本は近隣諸国と領土問題で絶えず争っていた。とりわけ、南では。2010年9月、尖閣諸島/釣魚島沖で中国漁船と海上保安庁の巡視船が衝突した事件で、ガバナンス経験のない民主党政権が、日本の「国内法」にて中国船船長を裁こうとして日中関係を悪化させた。結局、民主党政権は拘束してから29日目にあえなく船長を釈放することになった。また、2012年4月16日、訪米中のタカ派として知られている石原慎太郎東京都知事が「東京都による尖閣諸島購入」を表明した。これを受け、野田首相は、2012年9月11日に尖閣諸島の「国有化」を決定した。皮肉にも、この一連の騒動により、いままで日本が単独でコントロールしてきた尖閣諸島海域には、中国の巡視船・戦闘機・無人偵察機のパトロールが常態化するようになった。北では、2011年11月1日、ドミートリー・アナトーリエヴィチ・メドージェフ大統領がロシア大統領としては初めて北方領土の国後島/クリル諸島を訪問した。また、西では、2012年8月10日、韓国大統領李明博が韓国大統領として初めて竹島/独島に上陸した。また、 2012年12月発足した第二次安倍内閣は、「戦後レジームからの脱却」の政策を掲げるが、国際的には近隣諸国(中国と韓国)との関係は改善されず、国内的には、集団的自衛権行使、海外武器輸出の解禁、「秘密保護法案」の成立など、日本国憲法の精神を骨抜きにする動きが現れてきた。
オバマ政権は、2011年5月ようやくパキスタンにおいて9.11同時多発テロ事件の首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンを、アメリカ海軍のNavy SEALSによって殺害することに成功した。だが、オバマドクトリンは、中央アジアやウクライナにも影響した。
1991年ソ連崩壊に伴って独立したウクライナは、常に親露派と親欧米派の戦いの「戦場」となっている。 2004年大統領選挙の混乱から「オレンジ革命」が起こり、親欧米派であるユシチェンコが2005年1月大統領に就任した。しかし、腐敗・経済停滞で、2010年の大統領選挙では、親露派ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナの大統領となった。2013年ヤヌコーヴィチ政権が、EUとの政治・貿易協定の調印を見送ったことで、親欧米派と野党勢力は、首都キエフで連日のように抗議集会をし、大規模な反政府運動へと発展していった。2014年2月、政府治安部隊と野党勢力が衝突し、死者が発生した。欧米諸国は反政府運動に賛同し、アメリカ現役国会議員ジョン・マケインのキエフ広場の応援演説が一層、反政府運動を盛り上げた。やがて、親露派ヤヌコーヴィチ大統領はロシアヘ逃走し、親露政権は崩壊した。これを受けて、親欧米派であるオレクサンドル・卜ゥルチノフ大統領代行政権が発足した。
親欧米派の暴力的な示威行為により、親露派のヤヌコーヴィチ政権が崩壊したことを受けて、2014年3月ロシア上院がクリミアヘ軍事介入を承認し、ウラディミール・プーチン大統領は、ウクライナ極右民主主義勢力からクリミア半島内のロシア系住民を保護する名目で本格的に軍事介入を行った。元々、クリミア半島は、旧ソ連時代(1954年)に、ウクライナを「ソビエト帝国」に編入するための「謝礼」として、ソビエトからウクライナヘ移管されたものであった。3月11日クリミアは独立を宣言し、ロシア連邦へ編入となった。欧米諸国はロシアのクリミア併合が国際法違反であり無効であると主張し、さらにロシアをG8から除外し、経済制裁に踏み込んだ。2014年5月に実施したウクライナ大統領選挙では、親欧米派ポロシェンコが勝利したが、親露派武装集団はウクライナ東部で未だ活発な活動をしている。ポロシェンコ政権は、ドネック、ルガンスクの東部2州の親露派武装集団を排除する軍事作戦を継続した。結果的には、欧米諸国の反政府勢力の支援・介入は裏面に出て、クリミア半島は再びロシア領土となった。
アメリカ発リーマンショックによる世界金融危機は、東アジア地域では、割と影響が少ないかにみえるが、実は多くの問題を抱えている。
まず、朝鮮半島の非核化を目的とする中国主導の6か国協議(アメリカ、ロシア、日本、北朝鮮、韓国、中国)は、2003年8月に第1回会合を開催し、 2005年9月19日に共同声明が発表された。この声明において、北朝鮮は全ての核兵器と今ある核計画を放棄し、核不拡散条約(NPT)に復帰し、国際原子力機関(IAEA)の査察の受け入れを約束した。北朝鮮の指導者金正日の健康問題は、2008年に脳卒中で倒れて以来、世界から注目されてきたが、2011日12月17日、突然の心筋梗塞のために死去した。しかも、韓国大統領李明博訪日の最中の出来事だったので、世界中のほとんどの国にその情報が知らされなかった。中国がいち早く「金王朝」の三代目国王である金正恩を「承認」したことで、金正恩の継承作業が無事に(アメリカにより転覆されることなく)終了した。しかし、2012年12月12日、北朝鮮はロケットを発射し、人工衛星を地球の周回軌道に乗せることに成功したと主張した。北朝鮮が開発するロケットは弾道ミサイル・核開発計画と表裏一体と見なしていた国連安全保障理事会は、かねてより発射しないよう要求していた状況における出来事であったため、2013年1月22日対北朝鮮制裁強化を全会一致で決議した。同年2月12日、北朝鮮は核実験を強行した。これは、3回目の核実験であった(1回目:2006年10月9日、2回目:2009年5月25日)。同年3月7日、国連安全保障理事会はさらなる対北制裁を決議した。しかし決議案が提出される直前の同年3月5日、北朝鮮は「休戦協定を白紙にする」と宣言しており、韓国への軍事侵略を示唆していた。決議後の3月9日には「安保理決議を全面排撃する」とし、11日には、「最高司令官が署名した作戦計画に基づいて全面決戦に突入した」と発表した。この最高司令官は金正恩第一書記である。いわゆる、金正恩最高司令官が宣戦布告したのである。
2007年8月、安倍晋三総理(第一次内閣)はインドを訪問し、「自由と繁栄の弧」を基礎として地政学的に壮大な構想を提示したが、短命に終わった。その後、日本の政治には不安定・短命な政権(福田、麻生、鳩山、菅、野田)が続き、その間、日本は近隣諸国と領土問題で絶えず争っていた。とりわけ、南では。2010年9月、尖閣諸島/釣魚島沖で中国漁船と海上保安庁の巡視船が衝突した事件で、ガバナンス経験のない民主党政権が、日本の「国内法」にて中国船船長を裁こうとして日中関係を悪化させた。結局、民主党政権は拘束してから29日目にあえなく船長を釈放することになった。また、2012年4月16日、訪米中のタカ派として知られている石原慎太郎東京都知事が「東京都による尖閣諸島購入」を表明した。これを受け、野田首相は、2012年9月11日に尖閣諸島の「国有化」を決定した。皮肉にも、この一連の騒動により、いままで日本が単独でコントロールしてきた尖閣諸島海域には、中国の巡視船・戦闘機・無人偵察機のパトロールが常態化するようになった。北では、2011年11月1日、ドミートリー・アナトーリエヴィチ・メドージェフ大統領がロシア大統領としては初めて北方領土の国後島/クリル諸島を訪問した。また、西では、2012年8月10日、韓国大統領李明博が韓国大統領として初めて竹島/独島に上陸した。また、 2012年12月発足した第二次安倍内閣は、「戦後レジームからの脱却」の政策を掲げるが、国際的には近隣諸国(中国と韓国)との関係は改善されず、国内的には、集団的自衛権行使、海外武器輸出の解禁、「秘密保護法案」の成立など、日本国憲法の精神を骨抜きにする動きが現れてきた。
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移民とマイノリティ
『地理学概論』より 民族・移民の地理 国境・民族紛争 ⇒ 移民は地理学の範疇ですね。ヨーロッパ・中東での大きな実験が繰り返されている。
移民とマイノリティをめぐる現代的課題
グローバル化の進展は、人・モノ・金・情報の移動・流動性を著しく増大させ、地域社会や生活を大きく変化させた。中でも人の移動は、国家間関係に多大な影響を及ぼし、人種・民族にかかわる複雑な問題の背景となっている。一般に「移民」とは、他国に移住して生活の拠点を移すことを指すが、とりわけ近代以降、国境を越えて移動する人々はますます増加してきた。その中には、非自発的移民である難民や、戦争・自然災害などによる被災民も含まれる。現代移民の特徴としては、移民の地球規模化、移住形態ならびに送出・受入地域の多様化、女性の増加などがあげられる。
日本への外国人入国者数は、1980年代以降、増加傾向にあり、特に外国人登録者数が、1995年代以降、漸次伸びている。2014年末における外国人登録者数は212万1,831人(法務省入国管理局)となり、前年度に比べ約6万6,000人の増加となった。これは、国内総人口の約1.67%に相当する。
少子高齢化の進展を踏まえ、外国人労働力の受け入れについて、国内ではさまざまな議論がある。しかしながら、民族や移民に対する関心は一般に低く、映像を通して知る民族紛争・対立も、遠い出来事として認識されがちである。メディアに表象される外国人のイメージは、しばしばステレオタイプ化した偏見を生み出す。こうした現状を打開するためには、移民やマイノリティ、異文化について理解を深め、共生社会のあり方について主体的に考える機会が必要不可欠である。
近代化と移民
まず、近代以降の移民を世界規模で概観してみよう。17~19世紀の特徴は、ヨーロッパ列強の植民地主義拡大に伴う移民である。その中には、「三角貿易」によりアフリカ大陸からアメリカ大陸へ奴隷として強制移住させられた約1,500万人の黒人が含まれる。19世紀の奴隷制廃止により、新大陸や植民地での労働力は、「苦力」や年期契約労働者へと転換していった。イギリス植民地には多くのインド人が、東南アジアには華僑あるいは華人と呼ばれる多くの中国人が移住した。
一方、植民地での搾取やプランテーションにより蓄積されたヨーロッパの富は、産業革命や資本主義経済の発達を後押しした。工業化による生産力の向上は、人口増加を促した反面、農村部における過剰労働人口を生み出し、大量の人口移動を引き起こした。すなわち、在来産業の衰退と商品経済の浸透は、農民の階層分化と貧困層の拡大を促し、地域間の経済格差を生じさせた。近代化の進展とともに、新たな土地や就業先、現金収入源を求め、多くの移民が新天地を目指した。
新大陸へのヨーロッパ移民が急速に拡大するのは、19世紀半ば以降である。アメリカ合衆国では1890年にフロンティアの消滅が宣言されたものの、政治的・宗教的迫害を受けたユダヤ系や、東・南ヨーロッパからの移民がその後も増加し、1910年代に移民はピークに達した。
また、19世紀半ばのゴールドラッシュ以降、多くの中国人が鉱山や工場労働、大陸横断鉄道鉄道の建設などに従事した。しかし、こうした非ヨーロッパ系の増大は、異文化摩擦と低賃金・非熟練労働市場の変化を背景に、人種差別や移民排斥運動を引き起こした。中国系移民が制限された1882年以降に増加する日本人移民も、1924年には禁止されるに至る。このように、移民の動向は、移民政策や、送出側と受入側とのプッシュ・プル要因により変化する。
また、近代移民の増大を支えたものに、交通ネットワークとメディアの発達がある。ヨーロッパやアジアと新大陸とを結ぶ定期航路の増加や客船の大型化、郵便・通信網の整備、移民募集や移住先の情報宣伝を担うメディアの普及と拡大は、新世界に人々を駆り立てる大きな役割を果たした。
多民族社会のエスニック景観
第二次世界大戦後の戦後復興や経済発展を背景に、ヨーロッパ先進諸国の多くは、移民労働力を積極的に受け入れた。また、アメリカやカナダでは、1960年代半ばに移民法が改正された結果、ヒスパニック系やアジア系を中心とする新たな移民の流入が顕著となった。中でもロサンゼルス大都市圏は、移民の流入と都市構造・産業構造との関係が顕著にみられる地域である。
2000年のセンサスにおけるロサンゼルス大都市圏の人種民族構成は、ヒスハニック系44.6%、白人31.1%、アジア系11.8%、アフリカ系9.5%であった。アジア系の中では、1970年までは日系が最も多かったが、1980年には中国系が最大となり、現在では中国系に次いで、フィリピン系・韓国系・ベトナム系・インド系・日系の順となっている。アジア系の急増をもたらしたもう一つの要因は、難民の受け入れである。ベトナム戦争終結後、アメリカはインドシナ半島からの政治難民を積極的に受け入れ、さらに、1980年の難民法制定は、経済難民の流入をも促した。1980年代に入国した難民の約7割はアジア系であり、その約4割はカリフォルニア州に集中し、都市および都市郊外に独自のエスニックテリトリーを形成した。
たとえば、1980年前後からオレンジ郡において急成長を遂げたベトナム系エムスニックタウン、通称「リトルサイゴン」を訪れると、ベトナム語や中国語があふれ、ベトナムや中国風デザインの建造物やシンボルなど、独特の景観が広がっている。広い街路や駐車場に囲まれた商業施設は、一般的なアメリカの郊外型ショッピングモールともいえるが、業種構成や商品の種類、店や行き交う人々め風景は、「リトルサイゴン」がベトナム系ならびにベトナム系華人の、ビジネスおよび消費・生活の場であることを示している。
ベトナム系は、他のアジア系に比べ、本国生まれで英語を話せない住民の割合が著しく高く、エスニックコミュニティヘの依存度が高い。エスニックタウンの存在は生活上きわめて重要であり、同時に、エスニックネットワークを通じて就業やビジネスチャンスを得る場ともなっている。そのほか、祭事などを行う広場やベトナム系仏教寺院、教会、墓地、ベトナム系メディア、ベトナム系諸団体の事務所などがあり、ベトナム系コミュニティの中心的場として機能している。エスニックマイノリティは、ホスト社会において居住地や職業の制約や差別を受けることがあり、特に移住当初は経済的・社会的階層も低い場合が多い。特定エスニック集団が他の集団と分化して居住するセグリゲーションは、集団内の相互扶助の必要性やエスニック文化の継承とともに、ホスト社会における適応戦略の一つといえる。
新たな越境を求めて
現代では、退職後に第二の人生を海外で送るリタイアメント移民や、海外に一時的に滞在して本国と行き来するロングステイなど、移住の形態もきわめて多様である。日本で1980年代以降に増加した中国・韓国人定住者の中には、高等教育機関での就学や、専門的知識・技能を習得して自己実現を目指す者が多い。日本の若い女性が理想的な就業環境を求め、香港やシンガポールなどに移住するケースもみられる。
グローバル化が進む世界に生きるわれわれにとって、国境を越えて移動することや、異文化や他民族との出会いは、身近な経験となった。異なる「他者」との共存は、突き詰めれば社会や個々人のアイデンティティにかかわる問題でもある。少子高齢化が加速する日本社会に、今後、外国人労働者をいかに受け入れるべきか、社会と個人の両レベルで多民族・多文化共生のあり方が問われている。
移民とマイノリティをめぐる現代的課題
グローバル化の進展は、人・モノ・金・情報の移動・流動性を著しく増大させ、地域社会や生活を大きく変化させた。中でも人の移動は、国家間関係に多大な影響を及ぼし、人種・民族にかかわる複雑な問題の背景となっている。一般に「移民」とは、他国に移住して生活の拠点を移すことを指すが、とりわけ近代以降、国境を越えて移動する人々はますます増加してきた。その中には、非自発的移民である難民や、戦争・自然災害などによる被災民も含まれる。現代移民の特徴としては、移民の地球規模化、移住形態ならびに送出・受入地域の多様化、女性の増加などがあげられる。
日本への外国人入国者数は、1980年代以降、増加傾向にあり、特に外国人登録者数が、1995年代以降、漸次伸びている。2014年末における外国人登録者数は212万1,831人(法務省入国管理局)となり、前年度に比べ約6万6,000人の増加となった。これは、国内総人口の約1.67%に相当する。
少子高齢化の進展を踏まえ、外国人労働力の受け入れについて、国内ではさまざまな議論がある。しかしながら、民族や移民に対する関心は一般に低く、映像を通して知る民族紛争・対立も、遠い出来事として認識されがちである。メディアに表象される外国人のイメージは、しばしばステレオタイプ化した偏見を生み出す。こうした現状を打開するためには、移民やマイノリティ、異文化について理解を深め、共生社会のあり方について主体的に考える機会が必要不可欠である。
近代化と移民
まず、近代以降の移民を世界規模で概観してみよう。17~19世紀の特徴は、ヨーロッパ列強の植民地主義拡大に伴う移民である。その中には、「三角貿易」によりアフリカ大陸からアメリカ大陸へ奴隷として強制移住させられた約1,500万人の黒人が含まれる。19世紀の奴隷制廃止により、新大陸や植民地での労働力は、「苦力」や年期契約労働者へと転換していった。イギリス植民地には多くのインド人が、東南アジアには華僑あるいは華人と呼ばれる多くの中国人が移住した。
一方、植民地での搾取やプランテーションにより蓄積されたヨーロッパの富は、産業革命や資本主義経済の発達を後押しした。工業化による生産力の向上は、人口増加を促した反面、農村部における過剰労働人口を生み出し、大量の人口移動を引き起こした。すなわち、在来産業の衰退と商品経済の浸透は、農民の階層分化と貧困層の拡大を促し、地域間の経済格差を生じさせた。近代化の進展とともに、新たな土地や就業先、現金収入源を求め、多くの移民が新天地を目指した。
新大陸へのヨーロッパ移民が急速に拡大するのは、19世紀半ば以降である。アメリカ合衆国では1890年にフロンティアの消滅が宣言されたものの、政治的・宗教的迫害を受けたユダヤ系や、東・南ヨーロッパからの移民がその後も増加し、1910年代に移民はピークに達した。
また、19世紀半ばのゴールドラッシュ以降、多くの中国人が鉱山や工場労働、大陸横断鉄道鉄道の建設などに従事した。しかし、こうした非ヨーロッパ系の増大は、異文化摩擦と低賃金・非熟練労働市場の変化を背景に、人種差別や移民排斥運動を引き起こした。中国系移民が制限された1882年以降に増加する日本人移民も、1924年には禁止されるに至る。このように、移民の動向は、移民政策や、送出側と受入側とのプッシュ・プル要因により変化する。
また、近代移民の増大を支えたものに、交通ネットワークとメディアの発達がある。ヨーロッパやアジアと新大陸とを結ぶ定期航路の増加や客船の大型化、郵便・通信網の整備、移民募集や移住先の情報宣伝を担うメディアの普及と拡大は、新世界に人々を駆り立てる大きな役割を果たした。
多民族社会のエスニック景観
第二次世界大戦後の戦後復興や経済発展を背景に、ヨーロッパ先進諸国の多くは、移民労働力を積極的に受け入れた。また、アメリカやカナダでは、1960年代半ばに移民法が改正された結果、ヒスパニック系やアジア系を中心とする新たな移民の流入が顕著となった。中でもロサンゼルス大都市圏は、移民の流入と都市構造・産業構造との関係が顕著にみられる地域である。
2000年のセンサスにおけるロサンゼルス大都市圏の人種民族構成は、ヒスハニック系44.6%、白人31.1%、アジア系11.8%、アフリカ系9.5%であった。アジア系の中では、1970年までは日系が最も多かったが、1980年には中国系が最大となり、現在では中国系に次いで、フィリピン系・韓国系・ベトナム系・インド系・日系の順となっている。アジア系の急増をもたらしたもう一つの要因は、難民の受け入れである。ベトナム戦争終結後、アメリカはインドシナ半島からの政治難民を積極的に受け入れ、さらに、1980年の難民法制定は、経済難民の流入をも促した。1980年代に入国した難民の約7割はアジア系であり、その約4割はカリフォルニア州に集中し、都市および都市郊外に独自のエスニックテリトリーを形成した。
たとえば、1980年前後からオレンジ郡において急成長を遂げたベトナム系エムスニックタウン、通称「リトルサイゴン」を訪れると、ベトナム語や中国語があふれ、ベトナムや中国風デザインの建造物やシンボルなど、独特の景観が広がっている。広い街路や駐車場に囲まれた商業施設は、一般的なアメリカの郊外型ショッピングモールともいえるが、業種構成や商品の種類、店や行き交う人々め風景は、「リトルサイゴン」がベトナム系ならびにベトナム系華人の、ビジネスおよび消費・生活の場であることを示している。
ベトナム系は、他のアジア系に比べ、本国生まれで英語を話せない住民の割合が著しく高く、エスニックコミュニティヘの依存度が高い。エスニックタウンの存在は生活上きわめて重要であり、同時に、エスニックネットワークを通じて就業やビジネスチャンスを得る場ともなっている。そのほか、祭事などを行う広場やベトナム系仏教寺院、教会、墓地、ベトナム系メディア、ベトナム系諸団体の事務所などがあり、ベトナム系コミュニティの中心的場として機能している。エスニックマイノリティは、ホスト社会において居住地や職業の制約や差別を受けることがあり、特に移住当初は経済的・社会的階層も低い場合が多い。特定エスニック集団が他の集団と分化して居住するセグリゲーションは、集団内の相互扶助の必要性やエスニック文化の継承とともに、ホスト社会における適応戦略の一つといえる。
新たな越境を求めて
現代では、退職後に第二の人生を海外で送るリタイアメント移民や、海外に一時的に滞在して本国と行き来するロングステイなど、移住の形態もきわめて多様である。日本で1980年代以降に増加した中国・韓国人定住者の中には、高等教育機関での就学や、専門的知識・技能を習得して自己実現を目指す者が多い。日本の若い女性が理想的な就業環境を求め、香港やシンガポールなどに移住するケースもみられる。
グローバル化が進む世界に生きるわれわれにとって、国境を越えて移動することや、異文化や他民族との出会いは、身近な経験となった。異なる「他者」との共存は、突き詰めれば社会や個々人のアイデンティティにかかわる問題でもある。少子高齢化が加速する日本社会に、今後、外国人労働者をいかに受け入れるべきか、社会と個人の両レベルで多民族・多文化共生のあり方が問われている。
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「アラブの春」から「新しい中世」でせめぎ合う新冷戦へ
『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』より
「アラブの春」による中東の社会と政治の動揺が始まってから五年の時を経て、影響は広範囲に、かつ深いところに及んでいる。「イスラーム国」の出現は大きな注目を集めるが、「イスラーム国」は中東の政治と国際秩序の変動の中の「現象」であり、原因ではない。
「アラブの春≒がアラブ諸国の国内政治に不可逆的な変化を引き起こし、それがイランやトルコやサウジアラビアなど地域大国を主要なプレーヤーとする中東域内での国際政治や、米露に中国も加わる気配を見せる中東をめぐる国際政治の大変動をもたらした。それに伴って複数の国で発生した、現地の諸勢力と地域大国・域外の超大国が入り乱れて関与する内戦が、国家分裂や国家の崩壊を招き、それによって生じた「統治されない空間」に、様々な民兵集団と並んで「イスラーム国犬が台頭したという全体構図の把握が、日本の立場を定めるためにも不可欠である。
「独裁者でなければ中東は統治できない」という「アラブの春」以前の俗説が、日本での議論では安易に復活している。これは現地情勢の生半可な理解に基づいている。実際には「アラブの春」以来、「独裁者でも中東を統治できなくなった」というのが実態である。メディア環境が激変し、若い世代に情報ツールを使いこなす能力が行きわたり、外部世界のより自由でより豊かな生活についての情報が容易に流通する現在、国民に世界標準の生活水準を与えていない独裁者が、情報を統制し、社会を分断して、恐怖による統治を行うことは困難になった。
シリアのアサド政権のように、反対勢力が出て来れば容赦なく殺害し、反対勢力が潜んでいるというだけで市場や人口密集地を空爆するといった過酷な懲罰を加えても、むしろそのような手法を使うからこそ住民は恨みを抱いて蜂起し、正義感にかられた義勇兵が自発的に世界各国から集結して、収拾がつかなくなる。そこにロシアやイランが加勢してもなお、反対勢力の根絶やしは困難である。むしろ、反アサド勢力が「イスラーム国」など宗教イデオロギーで強固に動機づけられた集団に結集していく結果になる。また、シリアの紛争が近隣のトルコやサウジアラビアなどに拡散して、地域全体を混乱に陥れる可能性が高まる。
「独裁政権が戻って来ればいい」というのは、混乱のそもそもの原因である、独裁政権が成り立たないという現実を忘却した議論である。独裁政権を立て直そうと政権自身が強硬手段を取り、地域大国や域外大国が支援をすればするほど、混乱がちらばる。「独裁政権が戻って来ればいい』という議論は、「混乱を解消するには混乱がなくなればいい」と言っているに等しい。独裁政権でさえも統治できないという前提の上で、独裁以外の手法で中東を安定させることができる勢力が出てくるまで、外部の世界は待つしかないのである。
中央政府が弱まるか消滅した各国の領域を、様々な主体が埋めていく。第一にサブ国家主体がさまざまな原初的紐帯に基づいて台頭した。サブ国家主体とは主権国家の内部に存在する、国民とは別の帰属先を共有する主体である。具体的には、部族や宗派や民族に人々は再結集して身を守る。その際に、中央政府の規制がなく保護もない以上、それぞれの勢力が武装化し民兵化して、自らの領域の治安を守るとともに、競合勢力・敵対勢力と対峙し、紛争の当事者となっていく。「アラブの春」は徐々に「民兵集団の春」となっていった。
サブ国家主体の台頭と国家:中央政府の弱体化という現象は、近隣諸国にテロや武器や紛争などを溢れ出させる危険なものである。そのため、近隣の地域大国はこれを封じ込めるか、あるいは関与して自らに有利に方向づけようとする。領域が一元的に統治されず、虫食い状に様々な主体の権力が及ぶあり様は、「新しい中世」が現れたかのようだ。
シリアとイラクの内戦には、イラン、トルコ、サウジアラビアがそれぞれ介入した。イランはシリアのアサド政権を支え、革命防衛隊の将校を派遣して支援するとともに、影響下に置くレバノンのヒズブッラーの民兵集団を動員して政権の劣勢を食い止めようとした。トルコはシリア北部の反体制派に「安全地帯」を提供しようと、米国に飛行禁止区域を設定するよう要請してきた。サウジアラビアはGCC(湾岸協力会議)の湾岸産油国の同盟を強化し、モロッコとヨルダンをも巻き込んでアラブ世界のスンナ派の君主制諸国で団結。内政の動揺を封じ込めるとともに国際政治上のパワーとして台頭している。リビアでは東部のトブルクに拠点を置いて二〇一四年の選挙の結果に基づいた政権樹立を目指す勢力と、それに呼応するハフタル将軍指揮下の武装勢力を、隣接するエジプトが支援する。イエメン内戦に対しては、サウジアラビアやUAEが主導して軍事介入し、亡命したハーディー大統領を支援して、フースィー派と対峙した。
介入には、イランのようにイラクからシリアとレバノンに至るシーア派のつながりや共通性を手がかりにした宗派主義的な要素がしばしば伴う。サウジアラビアやトルコが支援するシリアの反政府勢力も、スンナ派の観点からシーア派を異端とする宗派主義的主張を強める。
このような地域大国の台頭とその勢力圏の拡大は、当面は各地の内戦を終結させる成果を挙げておらず、現地での紛争の当事者を、それぞれの地域大国が支援することで、内戦が激化・永続化し、介入の効果も打ち消し合っている。
「アラブの春」による中東の社会と政治の動揺が始まってから五年の時を経て、影響は広範囲に、かつ深いところに及んでいる。「イスラーム国」の出現は大きな注目を集めるが、「イスラーム国」は中東の政治と国際秩序の変動の中の「現象」であり、原因ではない。
「アラブの春≒がアラブ諸国の国内政治に不可逆的な変化を引き起こし、それがイランやトルコやサウジアラビアなど地域大国を主要なプレーヤーとする中東域内での国際政治や、米露に中国も加わる気配を見せる中東をめぐる国際政治の大変動をもたらした。それに伴って複数の国で発生した、現地の諸勢力と地域大国・域外の超大国が入り乱れて関与する内戦が、国家分裂や国家の崩壊を招き、それによって生じた「統治されない空間」に、様々な民兵集団と並んで「イスラーム国犬が台頭したという全体構図の把握が、日本の立場を定めるためにも不可欠である。
「独裁者でなければ中東は統治できない」という「アラブの春」以前の俗説が、日本での議論では安易に復活している。これは現地情勢の生半可な理解に基づいている。実際には「アラブの春」以来、「独裁者でも中東を統治できなくなった」というのが実態である。メディア環境が激変し、若い世代に情報ツールを使いこなす能力が行きわたり、外部世界のより自由でより豊かな生活についての情報が容易に流通する現在、国民に世界標準の生活水準を与えていない独裁者が、情報を統制し、社会を分断して、恐怖による統治を行うことは困難になった。
シリアのアサド政権のように、反対勢力が出て来れば容赦なく殺害し、反対勢力が潜んでいるというだけで市場や人口密集地を空爆するといった過酷な懲罰を加えても、むしろそのような手法を使うからこそ住民は恨みを抱いて蜂起し、正義感にかられた義勇兵が自発的に世界各国から集結して、収拾がつかなくなる。そこにロシアやイランが加勢してもなお、反対勢力の根絶やしは困難である。むしろ、反アサド勢力が「イスラーム国」など宗教イデオロギーで強固に動機づけられた集団に結集していく結果になる。また、シリアの紛争が近隣のトルコやサウジアラビアなどに拡散して、地域全体を混乱に陥れる可能性が高まる。
「独裁政権が戻って来ればいい」というのは、混乱のそもそもの原因である、独裁政権が成り立たないという現実を忘却した議論である。独裁政権を立て直そうと政権自身が強硬手段を取り、地域大国や域外大国が支援をすればするほど、混乱がちらばる。「独裁政権が戻って来ればいい』という議論は、「混乱を解消するには混乱がなくなればいい」と言っているに等しい。独裁政権でさえも統治できないという前提の上で、独裁以外の手法で中東を安定させることができる勢力が出てくるまで、外部の世界は待つしかないのである。
中央政府が弱まるか消滅した各国の領域を、様々な主体が埋めていく。第一にサブ国家主体がさまざまな原初的紐帯に基づいて台頭した。サブ国家主体とは主権国家の内部に存在する、国民とは別の帰属先を共有する主体である。具体的には、部族や宗派や民族に人々は再結集して身を守る。その際に、中央政府の規制がなく保護もない以上、それぞれの勢力が武装化し民兵化して、自らの領域の治安を守るとともに、競合勢力・敵対勢力と対峙し、紛争の当事者となっていく。「アラブの春」は徐々に「民兵集団の春」となっていった。
サブ国家主体の台頭と国家:中央政府の弱体化という現象は、近隣諸国にテロや武器や紛争などを溢れ出させる危険なものである。そのため、近隣の地域大国はこれを封じ込めるか、あるいは関与して自らに有利に方向づけようとする。領域が一元的に統治されず、虫食い状に様々な主体の権力が及ぶあり様は、「新しい中世」が現れたかのようだ。
シリアとイラクの内戦には、イラン、トルコ、サウジアラビアがそれぞれ介入した。イランはシリアのアサド政権を支え、革命防衛隊の将校を派遣して支援するとともに、影響下に置くレバノンのヒズブッラーの民兵集団を動員して政権の劣勢を食い止めようとした。トルコはシリア北部の反体制派に「安全地帯」を提供しようと、米国に飛行禁止区域を設定するよう要請してきた。サウジアラビアはGCC(湾岸協力会議)の湾岸産油国の同盟を強化し、モロッコとヨルダンをも巻き込んでアラブ世界のスンナ派の君主制諸国で団結。内政の動揺を封じ込めるとともに国際政治上のパワーとして台頭している。リビアでは東部のトブルクに拠点を置いて二〇一四年の選挙の結果に基づいた政権樹立を目指す勢力と、それに呼応するハフタル将軍指揮下の武装勢力を、隣接するエジプトが支援する。イエメン内戦に対しては、サウジアラビアやUAEが主導して軍事介入し、亡命したハーディー大統領を支援して、フースィー派と対峙した。
介入には、イランのようにイラクからシリアとレバノンに至るシーア派のつながりや共通性を手がかりにした宗派主義的な要素がしばしば伴う。サウジアラビアやトルコが支援するシリアの反政府勢力も、スンナ派の観点からシーア派を異端とする宗派主義的主張を強める。
このような地域大国の台頭とその勢力圏の拡大は、当面は各地の内戦を終結させる成果を挙げておらず、現地での紛争の当事者を、それぞれの地域大国が支援することで、内戦が激化・永続化し、介入の効果も打ち消し合っている。
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「極端」に走るドイツ
『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』より
ドイツについては、『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書)などでも議論を展開しましたが、ドイツの問題点を一言でいうなら、彼らの行動がいつも「極端」であることです。
ここでも少し歴史を振り返ってみましょう。一九九〇年、東西ドイツは統合されました。当時、経済的に貧しい東ドイツを引き受けたドイツは、信じられないほどの経済復興を果たし、欧州随一の経済大国となり、世界トップクラスの輸出大国になったのです。それもたった八千万人の人口で。この経済的成功は超人的だと言っていいでしょう。
そして一九九九年、ユーロが導入されました。ユーロ導入を提唱したのはフランスでしたが、そのシステムにおいて支配的な立場を獲得したのはドイツでした。そして参加国に緊縮財政を強要したのです。それは経済だけにとどまらず、政治面でもドイツの支配力は次第に顕著なものになっていきました。その象徴的なケースがギリシャ危機です。多くの人びとが、メルケル首相に「新しいビスマルク」の貌を見出しました。ドイツはギリシャに対し、ユーロの一時離脱案まで突きつけたのです。
そこでシリア難民の問題です。二〇一五年九月、メルケル首相はシリアやイラクなどからの難民の受け入れを表明、その数は八十万人にものぼると言われています。全人口の一%に相当する数字ですこの決断が倫理的に立派なものであることは間違いありません。
しかし、私が見るところ、欧州各国に過酷な緊縮財政を強要するドイツも、難民の大量受け入れを行うドイツも、「禍剰」という一点では共通しているのです経済的成功も極端なら、ギリシャなどに対する自己中心的な姿勢も極端です。それと同様に、難民受け入れという他者愛の示し方もやはり極端なのです。
難民、移民の受け入れで重要なのは十分なマネージメントです。共存のためにはどんな施策が必要かを考え、人口面でも制度面でもリーズナブルにやらない。結局はうまくいかない。
現在、ドイツはおよそ三百万人のトルコ系移民を含め、人口の約二割が移民で占められていますが、彼らへの政策は必ずしもうまくいっていえません。
また集団の社会文化に大きな影響を与える家族形態でみても、シリアでは父権が強く内婚率(いとこ婚など集団内部での結婚の比率)が三五%にものぼりますが、ドイツは日本や韓国と同じ長子相続の直系家族がベースになっている。これだけ家族システムや社会文化が異なる人々を大量に受け入れるのは、非常に冒険的な政策と言わざるを得ない。私にはドイツが取り組むプロジェクトは、人間に可能な範囲をしばしば超えてしまうように思えるのです。
ドイツの「極端さ」の例としては、九月に発覚したフォルクスワーゲンの不正事件を加えてもいいかもしれまぜん。ディーゼル車に対する排ガス規制を免れるために、検査をごまかすためのソフトウェアをわざわざ開発したやり方は、二つの意味で「極端」です。ひとつはすべてを単に技術的な問題として処理してしまう(そしてそれを可能にしてしまう)こと。もうひとつは、排ガス規制という価値に対して示した「極端」にシニカルな態度です。
そこで興味深いのは、一方でドイツは世界一の老人国--日本と並んで--でもあることです。全人口を年齢順に並べて、ちょうど半分にあたる中央値をとると、ドイツと日本は四十五歳。フランスは四十歳、アメリカは三十八歳、ブラジルは三十一歳になります。普通、高齢化が進んだ国は現状維持を求め、保守化します。ところが今のドイツは高齢化と冒険的、現状破壊的政策が同居しているのです。
これは同じく高齢化が進む日本と対照的です。日本は移民に対して消極的で、「国力の増強」よりも「同質性の維持」を選んでいます。意識的かどうかはともかく、結果としてそうした選択になっている。一方、ドイツは外に労働力を求めました。トルコや東欧系の移民を取り、さらには東欧諸国そのものを経済的に支配して、労働力の供給源にしています。つまり、ナショナリスティックな野心が人口学的な衰退を受け入れず、より極端な社会実験に向かっているのです。
その意味で、日本はドイツのように極端な方向に走る心配はありませんが、日本の存続を願う立場から申し上げたいことがあります。同じ直系家族システムである日本とドイツは高齢化以外にも、高い教育水準、規律の重視、たくましい産業力など多くの類似点がありますが、大きな違いもある。それはドイツが「外向きで拡張指向」であるのに対し、日本は「内向きで孤立指向」であることです。これはもちろん大陸国家と海洋国家という地政学的な違いだけでなく、家族システムの違いも関係しています。ドイツには皆無である「いとこ婚」が、かつての日本では一〇%程度行われていたのですが、この内婚率の高さは、グループ内の閉鎖的・内向的傾向を表しています。こうした自らの孤立傾向を日本は自覚した方がいい。私も大好きな日本の文化を維持するためにも、日本はもう少し移民の受け入れや、女性が職業生活を行いながら子供を生み育てられる仕組みを取り入れる必要があると思います。独自の文化を生み出した同質性を大事にするのは良いが、人口減で日本の存続が危うくなっては意味がありません。
ドイツについては、『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書)などでも議論を展開しましたが、ドイツの問題点を一言でいうなら、彼らの行動がいつも「極端」であることです。
ここでも少し歴史を振り返ってみましょう。一九九〇年、東西ドイツは統合されました。当時、経済的に貧しい東ドイツを引き受けたドイツは、信じられないほどの経済復興を果たし、欧州随一の経済大国となり、世界トップクラスの輸出大国になったのです。それもたった八千万人の人口で。この経済的成功は超人的だと言っていいでしょう。
そして一九九九年、ユーロが導入されました。ユーロ導入を提唱したのはフランスでしたが、そのシステムにおいて支配的な立場を獲得したのはドイツでした。そして参加国に緊縮財政を強要したのです。それは経済だけにとどまらず、政治面でもドイツの支配力は次第に顕著なものになっていきました。その象徴的なケースがギリシャ危機です。多くの人びとが、メルケル首相に「新しいビスマルク」の貌を見出しました。ドイツはギリシャに対し、ユーロの一時離脱案まで突きつけたのです。
そこでシリア難民の問題です。二〇一五年九月、メルケル首相はシリアやイラクなどからの難民の受け入れを表明、その数は八十万人にものぼると言われています。全人口の一%に相当する数字ですこの決断が倫理的に立派なものであることは間違いありません。
しかし、私が見るところ、欧州各国に過酷な緊縮財政を強要するドイツも、難民の大量受け入れを行うドイツも、「禍剰」という一点では共通しているのです経済的成功も極端なら、ギリシャなどに対する自己中心的な姿勢も極端です。それと同様に、難民受け入れという他者愛の示し方もやはり極端なのです。
難民、移民の受け入れで重要なのは十分なマネージメントです。共存のためにはどんな施策が必要かを考え、人口面でも制度面でもリーズナブルにやらない。結局はうまくいかない。
現在、ドイツはおよそ三百万人のトルコ系移民を含め、人口の約二割が移民で占められていますが、彼らへの政策は必ずしもうまくいっていえません。
また集団の社会文化に大きな影響を与える家族形態でみても、シリアでは父権が強く内婚率(いとこ婚など集団内部での結婚の比率)が三五%にものぼりますが、ドイツは日本や韓国と同じ長子相続の直系家族がベースになっている。これだけ家族システムや社会文化が異なる人々を大量に受け入れるのは、非常に冒険的な政策と言わざるを得ない。私にはドイツが取り組むプロジェクトは、人間に可能な範囲をしばしば超えてしまうように思えるのです。
ドイツの「極端さ」の例としては、九月に発覚したフォルクスワーゲンの不正事件を加えてもいいかもしれまぜん。ディーゼル車に対する排ガス規制を免れるために、検査をごまかすためのソフトウェアをわざわざ開発したやり方は、二つの意味で「極端」です。ひとつはすべてを単に技術的な問題として処理してしまう(そしてそれを可能にしてしまう)こと。もうひとつは、排ガス規制という価値に対して示した「極端」にシニカルな態度です。
そこで興味深いのは、一方でドイツは世界一の老人国--日本と並んで--でもあることです。全人口を年齢順に並べて、ちょうど半分にあたる中央値をとると、ドイツと日本は四十五歳。フランスは四十歳、アメリカは三十八歳、ブラジルは三十一歳になります。普通、高齢化が進んだ国は現状維持を求め、保守化します。ところが今のドイツは高齢化と冒険的、現状破壊的政策が同居しているのです。
これは同じく高齢化が進む日本と対照的です。日本は移民に対して消極的で、「国力の増強」よりも「同質性の維持」を選んでいます。意識的かどうかはともかく、結果としてそうした選択になっている。一方、ドイツは外に労働力を求めました。トルコや東欧系の移民を取り、さらには東欧諸国そのものを経済的に支配して、労働力の供給源にしています。つまり、ナショナリスティックな野心が人口学的な衰退を受け入れず、より極端な社会実験に向かっているのです。
その意味で、日本はドイツのように極端な方向に走る心配はありませんが、日本の存続を願う立場から申し上げたいことがあります。同じ直系家族システムである日本とドイツは高齢化以外にも、高い教育水準、規律の重視、たくましい産業力など多くの類似点がありますが、大きな違いもある。それはドイツが「外向きで拡張指向」であるのに対し、日本は「内向きで孤立指向」であることです。これはもちろん大陸国家と海洋国家という地政学的な違いだけでなく、家族システムの違いも関係しています。ドイツには皆無である「いとこ婚」が、かつての日本では一〇%程度行われていたのですが、この内婚率の高さは、グループ内の閉鎖的・内向的傾向を表しています。こうした自らの孤立傾向を日本は自覚した方がいい。私も大好きな日本の文化を維持するためにも、日本はもう少し移民の受け入れや、女性が職業生活を行いながら子供を生み育てられる仕組みを取り入れる必要があると思います。独自の文化を生み出した同質性を大事にするのは良いが、人口減で日本の存続が危うくなっては意味がありません。
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