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中東政治の混迷と地域再編 民主化とイスラーム復興のジレンマ

『9・11以後のイスラーム政治』より 21世紀の国際社会とイスラーム アラブ民主化と中東政治の変容

「アラブの春」が生まれ、混迷する過程で、中東や湾岸は大きな動乱期に入った。その中から、一つだけ、はっきりとした答が出た問題がある。八○年代末からイスラーム復興と民主化のジレンマがあったが、欧米はそれを解決する気はないと決めたようである。

アラブ諸国は、長らく民主化の遅れた地域とされてきた。七〇年代以降の世界的な民主化の波にも乗り遅れた上に、かわりに七〇年代末からイスラーム復興が起きた。欧米の目から見ると、イランは「神権政」が成立して、国民主権さえ否定するようになった。革命後のイランは大統領選挙や国会選挙を続けており、少なくともアラブ諸国と比べると民主的と思われるが、その点について肯定的な評価は欧米ではほとんど聞かれない。改革派のハータミー大統領が誕生してもなお、イランはブッシュ(ジュニア)政権に「悪の枢軸」に含められた。

アラブ諸国では、民主化が進むとイスラーム復興の組織が勃興する現象が八○年代から続いてきた。アルジェリアでは八○年代末にそれまでの一党独裁を廃し、複数政党制による民主化かおこなわれたが、結果としてイスラーム救国戦線(FIS)が総選挙で躍進し、軍部の介入で民主化が潰された。欧米は、アルジェリアでの軍事クーデタを容認した。その結果、イスラーム武装闘争派が勃興し、九〇年代は内戦状態が続き、国民に深刻なトラウマを残した。

とはいえ、少なくとも、アルジェリアの教訓はトルコで活かされたと考えられる。トルコの軍部は近代トルコを樹立したケマル・アタテュルクの継承者として世俗主義を護持し、二〇世紀後半にはイスラーム政党が躍進するたびにそれを潰した。しかし、二一世紀に入ると公正発展党が躍進して政権を握っても、軍事的な介入をせずにきた。軍の介入を抑止した要素の一つは、アルジェリア型の内戦が起きる可能性を恐れたためと考えられる。

イラクの場合を見ると、米国は九〇年代からイラクとイランに対する「二重封じ込め」をおこなった。イラク反体制派はイスラーム革命派が主力であったため、米国は彼らがサッダーム・フサイン政権を倒すのを支援しようとはしなかった。独裁打倒・民主化はよいが、その結果がイスラーム革命になるのは認めがたいため、長らく封じ込めが続けられた。できれば世俗的な反サッダーム派に政権を握らせたかったのであろう。それが実現せずに、九・一一事件の後にとうとうイラク戦争を仕掛けたため、その後はイスラーム革命をめざしていた政党がイラクを運営することになった。

民主化はよいが、イスラーム復興が勝利するのは許せないという態度は、管見では民主的とは言えない。民主主義とは国民の声を聞くことであり、そのルールの一つは、結果が出てからそれを無効にはできないということである。また、民主主義は国内政治を決める方法であるから、各国の国民が選択したことを他国は容認すべきであろう。ところが、イスラーム世界との摩擦の中で、欧米はこの原則とは矛盾する立場を取ってきた。民主化は支持するが、イスラーム復興が勃興するならば民主化の結果であっても認めないという二重基準である。二〇〇六年にパレスチナ自治評議会の選挙で、ハマースが多数派となって首相職を握った。この時も、欧米はハマースが民主化に傾いたことをよしとせず、ハマースはテロ組織であるという論理で経済制裁を科した。

「アラブの春」が始まった時、欧米のメディアはおおむね好意的であった。そこでは、民主化を支持するという立場がはっきりと示された。イスラーム復興のスローガンがほとんど登場しなかったのも好意的な評価を生んだ。そうなった理由は三つある。第一に、運動の担い手の中心に中産階層の若者がいて、リべラル派が相対的に多かったからである。第二に、イスラーム運動がイスラーム色を抑制していたからである。欧米の二重基準は、彼らも十分に学習していた。ましてや、イスラモフォビアが蔓延している時代である。第三に、反独裁が主軸の闘争で、イスラーム的な論点は二次的なものであった。社会的な面でのイスラームはすでに復興の進展によって日常化しており、リべラル派もそれを否定する気はなかった。

結果を見ると、政変後の各国の選挙でイスラーム政党が躍進した。チュニジアでは、ペン・アリー体制下で禁止されていたイスラーム復興の「ナフダ党」が反独裁運動に加わり、その指導者で「イスラーム主義の中の民主派」と呼ばれたガンヌーシーが二〇年以上の亡命生活から凱旋帰国し、革命後の制憲議会選挙では第一党となった。エジプトの場合、ムスリム同胞団がリペラル派とともに革命運動に加わり、革命後の国会選挙で彼らが設立した自由公正党が第二冗となった。議会はやがて司法の介入で解散させられたが、二○一二年の大統領選挙では、同胞団系の自由公正党の候補ムルシが当選した。革命後にこのようにイスラーム復興の組織が姿を現すと、民主化とイスラーム復興のジレンマが再び現れた。
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「経験する自己」と「記憶する自己」

『ファスト&スロー』より 二つの自己--「経験する自己」と「記憶する自己」

経験効用はどうすれば計測できるだろうか。たとえば、「治療を受けている間、ヘレンはどれほど苦痛を感じたか」とか「ビーチで二〇分日光浴をしたときの快楽はどれはどか」といった質問にはどう答えたらいいだろう。一九世紀イギリスの経済学者フランシスーエッジワースはこの問題に取り組み、「快楽計」という架空の機械を考案した。これは気象記録計のようなもので、人間が感じる快楽や苦痛のレベルを時々刻々と記録する。

天気や気圧が変化するように経験効用も変化し、その結果は時間の関数としてグラフに表せるはずだ、とエッジワースは考えた。すると、ヘレンが治療を受けている間やビーチで日光浴をしている間に感じた苦痛または快楽は、グラフの下の面積になる。エッジワースの発想では、時間が重要な要素となる。ヘレンが二〇分でなく四〇分日光浴して、それが彼女にとって心地よければ、経験効用の合計は二倍になる。ちょうど、注射の回数を二倍にしたら苦痛が二倍になるのと同じである。これがエッジワースの法則であり、いまではどのような条件で彼の理論が成り立つかもわかっている。

図15のグラフは、二人の患者が苦痛を伴う大腸内視鏡検査を受けたときの様子を表したもので、ドナルド・レデルマイヤーと私が設計した調査から借用した。レデルマイヤーは卜ロント大学教授で医師でもあり、一九九〇年代前半にこの実験を行った。現在では検査時に軽い麻酔を使うことが多いようだが、当時はまだ一般的でなかった。患者には六〇秒ごとに、そのとき感じている苦痛を一〇段階で評価してもらい、その結果をグラフで表した。Oは「まったく痛くない」、10は「我慢できないほど痛い」である。グラフを見るとわかるように、患者が感じる苦痛は大幅に変動している。検査は、患者Aでは八分間、患者Bでは二四分間かかった(それ以降のOは計測値ではない)。この実験には合計一五四名の患者に参加してもらい、検査時間は最短で四分、最長で六九分だった。

ではここで、簡単な質問に答えてほしい。二人の患者が同じ評価基準を持っていたと仮定した場合、どちらの患者の苦痛が大きいだろうか。考えるまでもなく、患者Bである。患者Bはピー・ク時に患者Aと同じ度合いの強い苦痛を昧わっているうえ、グラフの斜線部分の面積は、Bのほうが明らかにAより大きい。これは言うまでもなく、Bの検査時間が長かったからである。以下では、患者が実際に感じた苦痛の合計を「実感計測値」と呼ぶことにする。

検査が終了してから、患者全員に「検査中に感じた苦痛の総量」を評価してもらった。この表現は、患者が時々刻々と感じた苦痛を足し合わせることを意図しており、そうすれば当’然ながら実感計測値に等しくなるだろう、と私たちは予想していた。ところが驚いたことに、まったくちがう結果が出たのである。患者の回答を統計分析すると、次の二つの傾向が認められた。この傾向は、他の実験でも確認されている。

 ・ピーク・エンドの法則--記憶に基づく評価は、ピーク時と終了時の苦痛の平均でほとんど決まる。

 ・持続時間の無視--検査の持続時間は、苦痛の総量の評価にはほとんど影響をおよぼさない。

ではこの二つのルールを、患者AとBに当てはめてみよう。どちらの患者もピーク時の苦痛(一〇段階の八)は同じだが、最後に感じた苦痛はAが七でBは一である。したがってピークーエンドの平均は、Aが七・五、Bは四・五になる。この結果からわかるように、AはBに比べ、検査に対してはるかに悪い印象を持っていた。Aにとって不運だったのは、痛い瞬間に検査が終わったことである。そのせいで、不快な記憶しか残らなかった。

いまや私たちは、経験効用について豊富なデータを手に入れたわけである。一つは実感計測値、もう一つは記憶に基づく評価で、この二つは根本的にちがう。実感計測値は、六〇秒ごとの苦痛の報告を足し合わせれば計算できる。この計測値には持続時間が加味されており、どの瞬間にも同じ重みが割り当てられている。つまりレペル九の苦痛が二分続くのは、一分の場合の二倍つらいことになる。だがこの実験をはじめとするさまざまな実験の結果、記憶に基づく評価は持続時間と無関係であること、ピーク時と終了時の二つの瞬間の重みが他の瞬間よりはるかに大きいことがわかった。となれば、実感と記憶とどちらが重要なのだろうか。また、このような検査を行うとき、医者はどうすべきだろうか。この選択は、医療現場に影響を与えうる。簡単にまとめておこう。

 ・患者の苦痛の記憶を減らすことが目的ならば、ピーク時の苦痛を減らすことが、時間を短くするより効果的である。同じ理由から、終了間際の苦痛がおだやかなほうが快い記憶が残るので、苦痛を伴う治療や検査は、一気に終わらせるより徐々に終わらせるほうがよい。

 ・患者が実際に経験する苦痛を減らすことが目的ならば、たとえピーク時の苦痛が大きくなり、かつ患者が悪印象を抱いても、治療や検査をさっさと終わらせるほうがよい。
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未唯宇宙のロジック

未唯宇宙のロジック

 スタバで未唯宇宙のチェックをしています。5.7と5.8が混在しています。第5章では、新しいクルマ社会のイメージを作るところで止めておきましょう。

 地域コミュニティをどう作るのか、その先行事例として、店舗コミュニティの機能を照会しましょう。先に進めない代わりに、より具体的にしていきます。

 そういった大きな枠の中で、情報系システムをどうしていくのか、データベースがどうなっていくのか、何がポイントになるのか、そう言うところをじっくりと構えます。そこから、パートナーの進むべき道をイメージしておきます。それで初めて、ジャンヌになりうる。

 未唯宇宙は前半はいいけど、後半はきついですね。後半は未来予測が入ってくるので、跳ぶ部分だけ、似たようなことに収束してしまう。もっと、要素を入れないといけない。要素を知れると同時に、進化させる。全体としてはシンプルにしていく。これをどのように実現させるのか。

反民主主義

 民主主義に対して、共産主義と全体主義が生まれた。それはスペインで戦った。そこでは、全体主義が圧倒的な武力で勝った。そして、戦後もフランコは生き延びた。

 4.1の国民国家から反民主主義へ向かい、共産主義と全体主義に分岐させます。

スタバでの勉強

 元町のスタバには、勉強するために行くことにしています。これはパートナーの相談で癖になってしまった。あの6人掛けの勉強机を常に埋まっています。女性の方が真剣に作業しています。

 だけど、バリスタには馴染みはできないですね。一癖ありそうなスタッフですね。お客様も「若者」が多い。クルマでしか来れないからでしょう。皆、格好つけている。「アベック」が多い。

 それにしても、スタバの5千円のカードは1週間持たないですね。土日は3回行くこともあり、7日間ですから、ちょっと飲むだけで、すぐ超えてしまう。

バレンシア4ポンプ

 アイスコーヒーでバレンシア4ポンプにはまっています。こうあると、もはや、コーヒーではないです。飲み物です。

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デカルト『方法序説』モラルの問題

『デカルト『方法序説』を読む』より 学問の方法と生き方のモラル--炉部屋の思索

「第二部」と「第三部」は、炉部屋のなかでの思索ですが、「第二部」で学問の方法、そして「第三部」では、実際に生きていくためのモラル(道徳)が語られます。まず家の建て替えの例で話を始めます。

 ……住んでいる家の建て直しを始めるまえには、……工事の期間中、居心地よく住める家をほかに都合しておかなければならない。それと同じように、理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう、そしてその時からもやはりできるかぎり幸福に生きられるように、当座に備えて、一つの道徳を定めた。

家を建て替えるあいだに、仮に住む、つまり、学問を変えていくめどは立ったが、「第二部」で明らかにした方法からは、まだ生きるためのモラルの規則は引き出せない。だから差し当たっての、当座に備えた仮のモラルの規則を立てておこう--非決定を避け、幸福に生きるための--、というのです。

すぐに三つの「格率」が述べられます。

まず第一、「わたしの国の法律と慣習に従うこと」。

第二、「自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと」。

第三、「運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めること」。

第一の格率は、自分の国の法律と慣習に従う、宗教についても、子供のころから教えられた宗教を変わらず守りつづける、そして社会的には最も穏健な意見に従う、というものです。

これを、体制順応主義、政治的社会的な保守・穏健志向とみることもできます。学問の方法と研究においてはラディカルに旧来のものを解体し、革命的ともいえる変革を提示したが、社会道徳は順応主義、穏健な保守主義とみえる。生活レヴェルにおいては、穏健な意見に従って無事に大過なく日常を生き、他方、学問と思想においてのみ徹底的な変革を試みる、ということでしきっか。

こうした見方に対する次のような解釈もあります。認識における徹底した変革の危険性--社会や制度に適用されれば破壊の危険があるし、行動に適用されれば不決断を生じるかもしれない--を、緩和または偽装するためである、あるいは、出版についての国王の認可を得るためである、といった偽装ないし妥協という見方です。

デカルトは生後まもなくカトリックの洗礼をうけました。「第一部」でみたように、ラ・フレーシュ学院はカトリックのイエズス会の学校でしたし、デカルト自身はカトリックの信仰をもちつづけたといわれます。基本的にカトリックであったデカルトは、このあとオランダに移り住み、亡くなる少し前までずっとオランダ国内にとどまります。つまり、カトリ。クのフランス人であるデカルトがオランダで暮らすわけですが、それへの備えとしてこれをみる視点も最近出ています。オランダで生きるために、フランス人であるデカルトがフランス語で、「わたしの国」の法と慣習について述べているというのです。

オランダは当時スペインから独立したばかりで貿易も商業も盛んでした。宗教は新教、特にカルヴィニスムが中心でした。カトリックであるデカルトがオランダで暮らしていくとき新教とぶつかることもおこる。デカルトが『方法序説』を書いたあと、じっさいにオランダでカルヴァニスムの神学者などから激しい非難や攻撃をうけます。

オランダでのデカルトは、イエズス会の神父からも批判をうける。「第五部」「第六部」とも関連しますが、自然の機械論的説明が問題になります。新教徒の側からは執拗な攻撃が始まります。ュトレヒトのカルヴィニスト神学者がデカルトを無神論者として攻撃します。欠席裁判にかけられ有罪にまで追い込まれますが、オランニエ侯(オランダ総督)の介入で助かる。次はライデンの神学者がデカルト舎ペラギウス的異端と攻撃し、プロテスタント改宗を迫られデカルトは、わたしは自分の国王の宗教を奉ずる、自分の乳母の宗教、カトリックを奉ずる、と述べて拒絶したと伝えられます。
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