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デカルト『方法序説』モラルの問題

『デカルト『方法序説』を読む』より 学問の方法と生き方のモラル--炉部屋の思索

「第二部」と「第三部」は、炉部屋のなかでの思索ですが、「第二部」で学問の方法、そして「第三部」では、実際に生きていくためのモラル(道徳)が語られます。まず家の建て替えの例で話を始めます。

 ……住んでいる家の建て直しを始めるまえには、……工事の期間中、居心地よく住める家をほかに都合しておかなければならない。それと同じように、理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう、そしてその時からもやはりできるかぎり幸福に生きられるように、当座に備えて、一つの道徳を定めた。

家を建て替えるあいだに、仮に住む、つまり、学問を変えていくめどは立ったが、「第二部」で明らかにした方法からは、まだ生きるためのモラルの規則は引き出せない。だから差し当たっての、当座に備えた仮のモラルの規則を立てておこう--非決定を避け、幸福に生きるための--、というのです。

すぐに三つの「格率」が述べられます。

まず第一、「わたしの国の法律と慣習に従うこと」。

第二、「自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと」。

第三、「運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めること」。

第一の格率は、自分の国の法律と慣習に従う、宗教についても、子供のころから教えられた宗教を変わらず守りつづける、そして社会的には最も穏健な意見に従う、というものです。

これを、体制順応主義、政治的社会的な保守・穏健志向とみることもできます。学問の方法と研究においてはラディカルに旧来のものを解体し、革命的ともいえる変革を提示したが、社会道徳は順応主義、穏健な保守主義とみえる。生活レヴェルにおいては、穏健な意見に従って無事に大過なく日常を生き、他方、学問と思想においてのみ徹底的な変革を試みる、ということでしきっか。

こうした見方に対する次のような解釈もあります。認識における徹底した変革の危険性--社会や制度に適用されれば破壊の危険があるし、行動に適用されれば不決断を生じるかもしれない--を、緩和または偽装するためである、あるいは、出版についての国王の認可を得るためである、といった偽装ないし妥協という見方です。

デカルトは生後まもなくカトリックの洗礼をうけました。「第一部」でみたように、ラ・フレーシュ学院はカトリックのイエズス会の学校でしたし、デカルト自身はカトリックの信仰をもちつづけたといわれます。基本的にカトリックであったデカルトは、このあとオランダに移り住み、亡くなる少し前までずっとオランダ国内にとどまります。つまり、カトリ。クのフランス人であるデカルトがオランダで暮らすわけですが、それへの備えとしてこれをみる視点も最近出ています。オランダで生きるために、フランス人であるデカルトがフランス語で、「わたしの国」の法と慣習について述べているというのです。

オランダは当時スペインから独立したばかりで貿易も商業も盛んでした。宗教は新教、特にカルヴィニスムが中心でした。カトリックであるデカルトがオランダで暮らしていくとき新教とぶつかることもおこる。デカルトが『方法序説』を書いたあと、じっさいにオランダでカルヴァニスムの神学者などから激しい非難や攻撃をうけます。

オランダでのデカルトは、イエズス会の神父からも批判をうける。「第五部」「第六部」とも関連しますが、自然の機械論的説明が問題になります。新教徒の側からは執拗な攻撃が始まります。ュトレヒトのカルヴィニスト神学者がデカルトを無神論者として攻撃します。欠席裁判にかけられ有罪にまで追い込まれますが、オランニエ侯(オランダ総督)の介入で助かる。次はライデンの神学者がデカルト舎ペラギウス的異端と攻撃し、プロテスタント改宗を迫られデカルトは、わたしは自分の国王の宗教を奉ずる、自分の乳母の宗教、カトリックを奉ずる、と述べて拒絶したと伝えられます。
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