古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

司馬遼太郎と「坂の上の雲」

2015-02-14 | 読書
朝日文庫の新刊で『司馬遼太郎と「坂の上の雲」』という本が出ました。白眉は、司馬さんが1994年2月4日、東京の海上自衛隊幹部学校で行った講演です。
講演後の質疑応答が面白かった。(以下、同書より)。
―――司馬先生は、海軍について「文化遺産」といわれていますが、どのあたりが「文化遺産」なのでしょう。
先日亡くなった山村雄一さん(元大阪大学学長)も、海軍が大好きでした。軍医学校の卒業式のときに、訓示はただ一つで。
「海軍士官はスマートであれ」
だれかが質問したそうですね。
「スマートとはどういうことですか」
「スマートとはスマートのことだ。つまり酒を飲むなら一流の料理屋で飲めということだ」
 文化というものは不合理なものですが、文明は合理的なものです。簡単な約束さえ守れば、普遍的な世界に参加できるのが文明です。
私は陸軍に入って初年兵の生活を経験してですね、これは刑務所に行くのとどっちが楽だろうと思ったくらいです。陸軍は文化そのものであり、土俗の長州奇兵隊の名残みたいなところがありました。
―――司馬先生は、どういう基準で小説の主人公を選ぶのでしょうか。
歴史上の人物というものは、自分の運命をせいぜい半分ぐらいしか知らない。
そう考えないと、小説というものはかけません。
たとえばナポレオンですが、フランス革命を世界に輸出した。
「国民」という概念を作った人です。当時フランス人はいたが、フランス国民はいませんでした。権利と義務により、「国民」という概念が出来上がり、徴兵制も始まる。国家の軍隊は国民によって出来上がる。そういうことを世界が真似し始めた。
ナポレオンは、いまそんなに評判がいい人ではないのですが、ナポレオン好きは世界中にいる。そんな後世の評価をナポレオンは知りません。
私の小説に出てくる人物より、私の方が彼ら自身をわかっている。後世というものはそういうものです。
―――西郷隆盛はそんなに人を感動させるようなことを喋ってわけでもないのに人が集まってくる。人望とはなんでしょうか。
私たちは動物ですから、おなかが空けば食欲が出て食べる。欲望の塊です。
しかし、そこを頑張って。「私」のかたまりを2%ほどでいいから、圧縮する。バキュームというか、真空を作る。その2%の真空とは「無私」の部分ですね。そこに人が寄ってくる。西郷を西郷たらしめるのは、その2%の頑張りです。
―――第二次世界大戦についてのお考えは
 私は要するに日露戦争に勝つまでの日本人に対して贔屓なのです。勝ってからの日本人については、あまり贔屓でない。
第一次世界大戦のときに時代は変わりました。軍艦は石炭でなく、重油で動くようになった。陸軍も自動車や戦車が中心になった。しかし日本に石油はない。石油をアメリカその他から買っていた。そのときに陸軍も海軍も軍隊を持つのを止めればよかったというのは極論ですが、しかし、日露戦争で膨張した軍隊を思い切って縮めればよかった。太平洋戦争なんてとんでもないことでした。
国民に対して正直であればですよ。日本国は戦争なんかできませんと言えばよかった。海外に軍隊を派遣することなんかできないんだと。
ところが1931年に満州事変が起こります。やがて中国全土に戦火が広がった。
 そのうちアメリカは、日本は何をしている、やめろと言った。全部兵隊を引き上げ日本に引っ込んでいろといった。これが「ハル・ノート」
日本はどうしたか。ここまで膨れ上がって「ハル・ノート」は飲めない。では戦争するかとなった。
石油はないんです。ないから陸軍は考えた。ボルネオ・セレベスに行けばある。ボルネオ・セレベスを取ればいい。石油の問題をボルネオ・セレベスで解こうとした。そこにコンパスの芯を置き、円を書くとニューギニヤも入る。ニューギニヤにも兵隊を置かなくてはならない。フィリピンにも兵隊を持っていかなきゃならない。太平洋戦争になった。単純に石油がほしかっただけ。そこさえ取れば、戦争を続けられると考えた。
私は陸軍の大本営参謀だった人にいったことがあります。
「陸軍に入りますと『作戦要務令』を持たされます。そこには兵力の分散はいけないと書いてますが、要するに太平洋戦争で陸軍のやっていたことは、兵力を分散して、敵がやってくるのを待っていただけですね。」
元参謀は「ひどい、ひどい」と笑っていましたが、笑いごとでない。

「坂の上の雲」を書いたときに正木さんという元海軍大佐に家庭教師になってもらった。正木さんが「私に似た男をあつめます」と4人を集めてくださった。
おひとりが「太平洋戦争の話ではありませんが」と切り出された。
「昭和14年に海軍大学校に入りました。図上演習というのをやりました。教官が終わって講評します。赤く塗った軍艦と青く塗った軍艦が地図の上で戦い、赤が40%沈み、青が60%沈んだので赤の勝ち。ところがその設定がいつも日露戦争でした。アメリカ海軍がバルチック艦隊のごとく、フィリピンから北上する。対馬沖で待ち伏せして、海戦になる。誰かが聞いた。
「戦争は続くものです。その後はどうなるのでしょう。40%沈んで勝った後どうなるのですか」教官は言いました。「これでしまいだ」
日本海軍にはワンセットしかない。一回戦ったらもう終わりなんだということでした。
日本の海軍は大東亜戦争という滑稽な作戦のために、待ち伏せすることを想定し、かつ輸送船の護衛に回された。しまいに潜水艦は物資を積んで島々にお米を運ぶような、哀れなことになった。「坂の上の雲」の栄光はすべてなくなりました。

もう一つ、「前書き」から。司馬さんは、「坂の上の雲を書き終えて」というエッセイでかいている(1972年8月)
『世界史の中ですくなくとももう一例、帝政末期のロシヤとそっくりの愚鈍さを示した国家がある。太平洋戦争をやった日本である。国家機構というのは30数年であれほど老朽化するものだろうか』。
編集記者がこう書き添えています。
 『ある人の観察によれば、日本軍は敵地を占領するより、自国を占領することに熱心だった。そして統帥権を魔法の杖にして、事実上占領した。昭和10年、常識とされていた美濃部達吉博士の「天皇機関説」が封殺され、軍部の恫喝的支配が始まる。
 敗戦直後の解放感は、司馬さんによると、より軽い占領に代わったからだという。』(編集部和田宏)