古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

『新京都学派』

2015-02-17 | 読書
『新京都学派』(柴山哲也著、2014年1月刊、平凡社新書)という本を大学図書館の棚に見つけ、読んでみました。
「京都学派」というのは、戦前、京大哲学科の西田幾多郎や、和辻哲郎、田辺元らのもとに集まった一群の哲学者の学風を指していた。
 戦前から京大には、能力さえあれば、異質な人材を登用し学閥にとらわれない自由な文化があった。『善の研究』で一世を風靡した西田は京大哲学科専科出身(専科は聴講生)で、正規の帝大卒業でなかった。
 一方、戦後登場した「新京都学派」という呼び名は、桑原武夫に率いられた京大人文科学研究所の一連の学者グループたちを指している。
 今西錦司、貝塚茂樹、上山春平。梅棹忠夫、梅原猛、多田道太郎、鶴見俊輔、川喜田二郎、伊谷純一郎といった面々である。
個人的な希望を言えば、ここの加藤秀俊を入れておいてほしまった(加藤は一橋大出身であるため外されたのかもしれないが)、
 で、この本は、この「新京都学派銘々伝」といった趣の本です。
例えば梅棹忠夫についての記述・・・
『文明の生態史観』(中央公論1957年2月号に発表)とはどういう本か。
 梅棹はユーラシヤ大陸の地域を「第一地域」と「第二地域」にわける。日本と西欧は距離的には離れているが、類似の近代文明を持った。しかも西欧と日本が持った近代文明は、きちんとした歴史的な段階を踏んで出来上がり、それは植物の遷移と同様な共同体の生活様式の変化なのだという。日本の近代化は、文明の西欧化と言うべきものではない。遷移とはそれぞれ別の地域が、平行進化ともいえる発展の形態を示すことなのだ。近代文明に関して西欧と日本を「第一地域」に含める梅棹だが、北アフリカを含む地中海地域はいわゆる西欧とは異なるとして「第一地域」から外す。
 「第二地域」は「第一地域」とは共同体の生活様式が違い、社会構造が違う。いきなり革命による独裁体制に移行した地域が多い。「第二地域」の生態学的構造の特色は、ユーラシヤ大陸をななめに横断する砂漠地帯、ステップの存在だ。
 これを植物の遷移のアナロジーを用いて、それぞれの種が独自の生活様式を発展させながら環境に適応していく、という。
 公文俊平は、日本が崩土成長期に差し掛かっていたころに、「日本文明を西欧に比肩しうる一分肢体としてとらえた点で画期的な見方だった。それは当時の日本人を感奮興起させた」と梅棹の仕事を高く評価している。」

所で、ここに司馬遼太郎が登場する。
桑原が、大学紛争に関する人文研の見解をまとめて、京大記者クラブに出掛けた時(昭和27年前後)クラブに一人だけ居残っていたのが、当時産経新聞記者の司馬遼太郎だった。
 その後、司馬は記者よりも作家として桑原との会合を重ねることが多く、NHKや雑誌の企画で逢うようになり、中国旅行をともにする。
 周知のように、司馬は明治維新を近代革命とみなし「竜馬がゆく」などの維新小説によって、敗戦で意気消沈していた日本人大衆を鼓舞する作品群を書いた。「坂の上の雲」では日本の海軍技術がバルチック艦隊を撃破するシーンは、敗戦で意気消沈していた戦後の日本人の心を強くとらえた。
司馬の作品には日露戦争で買ったことで慢心し、昭和の軍国主義時代、近代合理主義を捨て竹やり部隊や特攻隊という非合理的かつ非科学的精神主義を生み出し日米戦争を勝とうとした軍部と日本政府指導部に対する大衆の“腹ふくるる思い”が反映されていた。
 私(著者)は記者時代連載小説「胡蝶の夢」を担当したが、司馬の胸中にはノモンハン事件を小説化したいという願望があることを直接本人から聞いていた。そのための取材にも何度か同行したことがある。しかし結局、ノモンハンを書くという司馬の思いは実現しなかった。
 司馬はあんな非合理な愚かな戦争をやった日本に腹を立て、「私は戦後の日本が好きだ」と日頃口癖のように語っていたが、そんな司馬の悲惨かつ悪夢のような戦争体験に先駆けたのが、ノモンハン事件だった。
 昭和14年、日本軍とソ連軍が満州国境で衝突したノモンハン事件は、太平洋戦争以上に悲惨な戦闘だったと言われる。
 太平洋戦争における軍部大本営と日本政府の失敗の原因は、先行する日ソ戦ですでに顕在化していた。しかし、軍部と日本政府はノモンハンの失敗を反省し矯正することなく敗北に対処する戦略もなく無謀な日米戦争に突入したのだった。
 司馬は陸上自衛隊に招かれて、『ノモンハン事件に見た日本陸軍の落日』というタイトルで講演した。「私はあまり兵隊に向かない人間ですが、時代が時代でしたから、陸軍の経験があります」と前置きして語っている。
 ノモンハンの日本軍の訴訟率は75%に達したという。それでも前線の兵は気力でよく戦っていたのだが、これだけの死傷率になると、「もう戦場に立ち向かう者がだれもいない感じですね」と司馬は語っている。
 ところが、ノモンハンにおける無残な日本軍の敗北は国民の目から徹底的に遠ざけられ隠ぺいされた。当時中学生だった司馬もノモンハン敗北のことをしらなかった。
実は、徴兵で司馬が配属された「洗車第一部隊」はノモンハンでひどくやられた部隊だった。そうしたいきさつもあって司馬はノモンハンを書き残しておきたいと思ったという。
ノモンハン事件を秘密にしておく国家機密的な根拠は見つからない。結局「日本の秘密と言うのは、日本の弱点をひみつにしているだけのことですね。・・・・こういうのが、日本軍の秘密であり、情報であるらしい。日本軍だけではなく、日本史を貫いてきた弥生式以来の、庄屋の感覚であるらしい。情けない思いになりますね」と司馬は自衛隊幹部の前でそう語っている。
 ノモンハンを小説に書くことを中止した理由を「あまりにばかばかしくて、こんなものを書いていると精神衛生上悪いと思って書きませんでした」とこの講演で明かしている。
 ノモンハン事件は現代日本を指導する大組織の在り方に対する教訓をいまだに発信している。福島第一原発の収束もないまま、事故の顕彰もおろそかにして、原発再稼働を前のめりで行おうとする日本の原子力システムが犯した失敗、事故後3年を迎えてもなお修正できない現代日本の危機の根源を、弱点を隠した過去のノモンハン事件の中に投影してみることが出来る。
 一連の小説を支える史観形成や、中国古典などに対する新聞記者の領分をはるかに超えた博識は、新聞記者として回っていた京大人文研や桑原グループとの接触によるところが多いといわれる。
 司馬史観は明治維新を近代革命と評価する点で、新京都学派の明治維新の見方と共通している。
 梅棹の「文明の生態史観」も司馬の一連の小説群も、敗戦で自信喪失した日本人を勇気づける著作であった。