『空白の桶狭間』。加藤廣さんの小説が文庫本(新潮)で出たと聞き、買ってきました。
加藤さんは、東大法科卒。山一證券に勤務し、経済研究所顧問を経て、2005年に作家としてデビュー。小説『信長の棺』を日経新聞に連載、75歳での高齢デビューが話題となった人です。
一読してこれは「新講談」だと思いました。著者は奇想天外の物語を作り出した。
桶狭間の戦いは謎が多い、動員兵力5千の信長が、二万を越す今川の大群を何故打ち破ることが出来たか?通説では信長は、迂回奇襲作戦で義元を倒したというが、今川の諜者の目をどのように欺き、義元に接近できたのか?それ以前に桶狭間で義元が昼食を取ると何故知りえたのか?そもそも、桶狭間は東海道の道筋を若干とはいえ離れている。
この謎に、著者の案出したストーリーでは、実は秘かに信長は義元に降伏を申し出た。その降伏の会見場が桶狭間であったというのです。
そして、この作戦を案出したのが木下藤吉郎(後の秀吉)であり、降伏の密書を取り次いだのが松平元康(後の徳川家康)だということにしている。
この秘策を藤吉郎が信長に提案するくだりが面白い。
「一の谷の戦いこそ、此の度のわれらと今川との戦いの参考にすべきもの。これは源氏の仕掛けて見事な謀略でございます。」
寿永3年2月7日の一の谷の戦いには次のような伏線があった。
その前日、平氏は福原で清盛の4年目の法要を営んだ。その時、後白河法皇の使者が着いた。――和平交渉のために、法皇様の代理が福原に下向する。交渉中は一切武力行動をしないように源氏に対して命じた。平氏もこれに従うように――平氏は、法皇の内意を受けて軍装を解き、完全休息。そこに源氏の軍勢の総攻撃。
「此のたび実地に摂津に参り、実際に鵯越を検分してまいりました」
幸若舞「敦盛」は信長の好む唯一の舞、この話を持ち出せば信長は乗ってくる。藤吉郎はそう睨んでいた。
「ほう、摂津まで足を伸ばしてか」
「・・・鵯越は馬を下ろすにさして困難なところとは見受けられませぬ。それに、とても平家に気付かれずに降りきれる場所とは見えませぬ。一にかかって平氏側に戦意がなかったための大敗と藤吉郎拝見仕りました」
後白河法皇の偽勅に相当するのが信長の降伏文書。では、鵯越の馬に相当するのは何であったか。そこまで種明かしをしては作者に申し訳ない。
この話に家康が絡んでくる。
三英傑の揃い踏み。まさに、新講談、と思いました。
加藤さんは、東大法科卒。山一證券に勤務し、経済研究所顧問を経て、2005年に作家としてデビュー。小説『信長の棺』を日経新聞に連載、75歳での高齢デビューが話題となった人です。
一読してこれは「新講談」だと思いました。著者は奇想天外の物語を作り出した。
桶狭間の戦いは謎が多い、動員兵力5千の信長が、二万を越す今川の大群を何故打ち破ることが出来たか?通説では信長は、迂回奇襲作戦で義元を倒したというが、今川の諜者の目をどのように欺き、義元に接近できたのか?それ以前に桶狭間で義元が昼食を取ると何故知りえたのか?そもそも、桶狭間は東海道の道筋を若干とはいえ離れている。
この謎に、著者の案出したストーリーでは、実は秘かに信長は義元に降伏を申し出た。その降伏の会見場が桶狭間であったというのです。
そして、この作戦を案出したのが木下藤吉郎(後の秀吉)であり、降伏の密書を取り次いだのが松平元康(後の徳川家康)だということにしている。
この秘策を藤吉郎が信長に提案するくだりが面白い。
「一の谷の戦いこそ、此の度のわれらと今川との戦いの参考にすべきもの。これは源氏の仕掛けて見事な謀略でございます。」
寿永3年2月7日の一の谷の戦いには次のような伏線があった。
その前日、平氏は福原で清盛の4年目の法要を営んだ。その時、後白河法皇の使者が着いた。――和平交渉のために、法皇様の代理が福原に下向する。交渉中は一切武力行動をしないように源氏に対して命じた。平氏もこれに従うように――平氏は、法皇の内意を受けて軍装を解き、完全休息。そこに源氏の軍勢の総攻撃。
「此のたび実地に摂津に参り、実際に鵯越を検分してまいりました」
幸若舞「敦盛」は信長の好む唯一の舞、この話を持ち出せば信長は乗ってくる。藤吉郎はそう睨んでいた。
「ほう、摂津まで足を伸ばしてか」
「・・・鵯越は馬を下ろすにさして困難なところとは見受けられませぬ。それに、とても平家に気付かれずに降りきれる場所とは見えませぬ。一にかかって平氏側に戦意がなかったための大敗と藤吉郎拝見仕りました」
後白河法皇の偽勅に相当するのが信長の降伏文書。では、鵯越の馬に相当するのは何であったか。そこまで種明かしをしては作者に申し訳ない。
この話に家康が絡んでくる。
三英傑の揃い踏み。まさに、新講談、と思いました。