古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

大阪の選挙

2011-12-18 | 経済と世相
 大阪の知事・市長選挙。新聞雑誌がいろいろ論評していましたが、一番面白いと思ったコメントは、週刊朝日(12/16)辛坊治郎氏のものでした。以下、要旨を紹介します。
【大阪維新の会といえば、橋下徹氏一人が率いる地域政党という印象を持つ人が多いだろう。しかし、元々この組織を構想し作り上げたのは、今回の選挙を制して知事になった松井一郎氏と、大阪府議会議長の浅田均氏の2人なのだ。】
【今から8年前、当時大阪府知事だった太田房江氏の2期目の選挙直前、共産党を除く自民。公明、民主、社民の推薦を受け、磐石の態勢で2期目の選挙に臨もうとしていた。】
 【市内の日雇い斡旋の施設の周りでは、仕事にあぶれた労働者が新聞紙を体に巻いてうずくまり、生活保護支給者数がうなぎのぼり、大阪で暮らす誰の目にも、地域の将来は暗く映っていた。
 そんなある日、読売テレビに一人の中年男性がアポなしでやってきた。そして私に、こう切り出した。
「辛坊さん、知事選出てくれんやろか?」
「このおっさん、アホなこと言うてんね」としか思わず、お引取り願ったが、この人物が浅田氏だった。自民党付議だったが、中央の太田支持に反旗を翻して独自候補擁立に奔走していた。
 京都大学哲学科を卒業したのち、スタンフォード大学で修士号を取得、英語とフランス語を母国語のように繰り、パリの経済協力開発機構で働いていたのだが、大阪府議をしていた父親の地盤を継がされる形で府議を勤めることになった。この時、浅田氏と二人三脚で候補者探しをしていたのが、松井一郎氏である。】
【あちこちも「有名人」に声をかけて断られ続け、最終的に太田知事の対抗馬として擁立したのは、「ベンチがアホやから野球ができへん」で有名な江本孟紀氏だった。江本氏は時点にすべりこんだものの、太田氏に90万票差の惨敗となり、その後の二人は4年間の雌伏のときを過ごす。】
【4年前、改革派の知事として鳴らした大学教授にこんな話を聞かされた。
「辛坊さん、授業に行こうと思って研究室を出たら、建物の影から男が『一寸お話を』、聞けば朝からずっと私が建物から出るのを待ってたと言う。で、いきなり「大阪府知事選に出てくれ」って。」
 私が笑いながら、「ははあ、その二人、浅田、松井っていう人たちじゃないですか」。
この大学教授が要請を断り、その後、彼らが発掘したのが橋下徹氏だった。
 浅田、松井両氏の本音としては、とにかく誰でもいいから知事選で勝ってさえくれれば、マリオネットのように繰って政治をするつもりだったろうと思う。彼らが選んだマリオネットは府知事に就任するや否や自分で動き始め、逆に人形師を繰るほどの力を持ち始めた。
 知事選で敗れた倉田氏は述べた。「橋下前知事の残像と戦っているような選挙戦だった」。
これは間違いだ。倉田氏が戦ったのは、陰どころか、今まで橋下氏の影に隠れた維新の会本体そのものだった。】