古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

福井マラソン紀行(1)

2007-10-09 | マラソン
 6日、リュックサックを背負って、11時発の高速バス福井行きに乗りました。7日の第30回福井ハーフマラソンに出場するためです。途中、賤ヶ岳SAで休憩、敦賀、武生、鯖江で客を降ろし、2時福井着。バスを降りると、駅が見えない。「福井駅前まで切符買ったのに?」聞くと、「あちらに真っ直ぐ、突き当たりが駅です」。市バスの1区分ぐらい歩かされた。駅で何か工事をやってるみたいだった。
 売店のお姉さんに、中央公園(マラソンスタート地点)とAホテルの場所を聞くと、「駅前の市役所の北側が中央公園で西側にホテルがある」と言う。
 駅前に立つと、目の前に福井城址の石垣が迫る。中央公園の前に城跡を見ようと、お堀にかかる橋を渡ると、松平秀康の馬上姿の銅像があった。秀康は、家康の次男に生まれたが、秀吉の養子になった。福井の町割りの大方は、この秀康が定めたようで、その功を多として福井市民は銅像を立てている。
 お城は堀と石垣を残すのみで、堀の内側の本丸に福井県庁が威容を誇っている。お城の本丸に県庁舎が建っているのは、私の知る限り福井県のみだ。将来、城を再建しようとすると、県庁を退かせないと出来ないから、福井市民は城の再建など毛頭考えていないことになる。古城の風格は石垣に残る、と私は考えている。立派な石垣を見ることが出来れば、コンクリート造りの天守閣など不要と思うので、福井市民の判断に賛意を表したい。
 20年ほど前、やはりマラソンの旅で福井県を訪れたが、その折乗ったタクシーの運ちゃんの言を記憶している。「福井県の殿様は戦が下手で、負けた殿様ばかりだ」。確かに、朝倉氏は信長に滅ぼされ、柴田勝家は秀吉に敗れた。そして敦賀城主の大谷刑部は、朋輩の石田三成に義理立てして関が原に出陣し奮戦したが敗れた。いずれも武運がなかった。松平秀康は、戦に敗れたわけではないが、秀忠の兄に生まれながら、徳川将軍になれなかったのは、やはり武運がなかったのだろう。
 次に市役所(お堀の外)まで歩き北側へ回ると、中央公園があった。中央という名前の割りには小さな公園で、「なるほどこの広さでは、ゴールには無理だな」と納得。ゴールは運動公園という別の公園になっている。明日の大会の飾り付けをやっているお兄さんに聞いた。
 「片町って知ってる?」「アア飲み屋街だよ」と言う。飲み屋街の片町なら、金沢が有名だが福井にも片町があるようだ。「片町のAホテルに行くんだけど、どっち?」と、インターネットで予約したホテル名をいうと「あっち、歩いて5分ぐらい。大通りの向こう側」と答えた。
 大通りに出ると、ここはさっきバスで降りたところ。バスの運転手はホテルの近くに降ろしてくれたわけだ。片町という名の割りには人通りが少ない。景気が良くないのかも知れないが、金沢の片町には比すべくもない。
 ホテルは直ぐ分かった。ランナーが大勢予約しているらしく「歓迎 熊本走ろう会20名さま」などの札が出ている。チェックインの時聞くと、明日はランナーの便宜を図って、食堂は6時から営業すると言う。(続く)